加藤 祐三 都留文科大学学長
アジアの「両雄共存」を大切に

「焉知二十載 重登君子堂」(20年が過ぎてまたあなたの部屋を訪ねるとは)――2012年初冬、紅葉が美しい季節に、この杜甫の詩を口ずさみながら、胸いっぱいの感謝とともに、恩師である都留文科大学の加藤祐三学長を訪ねた。

ちょうど20年前、私は一人の中国人留学生として横浜市立大学に入学。日本の有名な歴史学者である加藤祐三先生の門下に入り、その後、加藤先生の推薦により九州大学大学院に学んだ。加藤先生は、2002年、学長を最後に同大を退任、ついで2010年7月から都留文科大学長になられた。

瞬く間の20年であった。懐かしい加藤先生は依然かくしゃくとされているのに、未熟な弟子は白髪まじりとなった。加藤先生は、「君が在学中に私の著書を4冊も中国語に翻訳して出版したのをよく覚えている。その後、2004年に出した本が3カ月前に『幕末外交と開国』として講談社文庫に入った。以前の版よりさらに充実したよ」と言いながら、本棚から1冊取り出して献辞を書いて贈ってくださった。

 

「開国」の誤用

―― 私は留学時代、先生が岩波書店から出された『黒船異変』(1987年)を中国語に翻訳し、『日本開国小史』というタイトルで中国社会科学出版社から出版しました。それ以来、日中両国の近代史上、異なる「開国」がその後の異なる「結果」をもたらしたということが、ずっと心に引っかかっています。民主党第2代首相の菅直人氏の在任期間中、日本は米国主導のTPP(環太平洋経済連携協定)参加を促すため、「平成の開国」というスローガンを打ち出しました。これについてはどのように評価されますか。

加藤 「開国」という歴史的語彙を比喩的に使ったつもりでしょうが、中国が1970年代に使用した「対外開放」という言い方が適切でしょう。私も日中両国は、さらに対外開放を進めるべきだと考えています。

私はかつて学生たちに、私の書いた日本近代の「開国」に関する本や資料を読ませ、19世紀の日中両国の「開国」の違いを一貫して強調してきました。中国は(アヘン)戦争の敗北と、それによる不平等条約などで苦難の時代がつづき、一方、日本は軍事的圧力を受けたものの武力による侵略・占領は受けず、流血のない「平和的開国」を果たしました。

欧米列強に対して、なぜ日本は「平和的開国」ができたのか。一つには、情報を収集・分析したこと、二つにはそれを政策に活かし、戦争を避ける道を探ったからです。日本人はかつて清朝の中国を「老大国」と呼び、尊敬していました。しかし、1842年、英国がアヘン戦争で中国を破ったというニュースは日本に伝わり、非常に大きな衝撃となりました。徳川幕府は米国など欧米諸国と交渉する際、戦争を回避することで損失をいかに小さくするかを念頭に置いたのです。アヘン戦争から10余年を経た1853年、アメリカの黒船が日本に来た時、日本には心理的にも政治的にも準備がありました。交渉力の重要性を認識していたのです。

この良き範例をたえず自覚する必要があります。今日、日本が交渉力を軽視したり、交渉力を放棄したりすれば、国益を失うでしょう。現在の日本はTPPに対しても着実に交渉を行い、国家として最大の利益を勝ち取らなければなりません。

海外留学と匹敵する国内進学

―― 先生は東京大学大学院で学んでいた時、アジア・ヨーロッパ33カ国を訪れたそうですね。今、日本はもちろん中国でも、大学生も含めた若者たちはだんだん引きこもるようになり、海外に出て自分の眼で世界を見たいという欲望をなくしつつあるようです。このような現象をどのように見ていますか。

加藤 私が世界旅行をしたのは50年前のことです。アジア・ヨーロッパを貧乏旅行したことが、歴史学者としての現場感覚を養い、史観を豊かにしてくれたと思います。当時は私のように海外に行こうとする大学生は少数派でした。たとえ望んだとしても、現実には政府が外貨を持たないため、旅券の発行に制限があり、旅券を得ても外貨持出制限がありました。1ドル=360円の時代で、現在の5分の1程度の価値しかありませんでした。円が強くなった現在、海外を目ざす学生が少数派であるとは想像もしていませんでした。

国際化時代に備え、日本政府は何度も外国人留学生受け入れ計画を修正し、10万人から30万人、さらに100万人を目ざしていますが、数を増やすだけでなく、相応の財政支援を行うべきだと思います。政策で優遇することにより、日本の大学生に対する海外留学も奨励しやすくなります。

学長に就任してまもなく、二人の男子学生が訪ねてきたことがあります。学内の新聞のインタビュー記事で、50年前に世界を旅したことを知って啓発されたというのです。二人はのちに1年半海外を旅し、今は社会人として活躍しています。これからが楽しみですね。

本学には3000名余りの学生がいますが、地方からの学生が約9割に上ります。故郷から遠く離れた山梨県に学びに来るということは、彼ら自身にとっては「出国」にも似た、ある種の勇気が必要だと思います。例えば、大分県から山梨県に来ることは、サンフランシスコに行くことと距離と時間の違いがあるだけで、心理的試練は大差ないのではないか。ですから、若者が外国へ出たがらないから内向きとか覇気がないと、一概に決めつけることはできません。

通信が発達していない時代には、人々が国内で得られる海外情報には限界がありました。今はネット時代で、いつでも海外情報を手に入れることができるため、海外に対してある種の「新鮮さ」を失っています。この「新鮮さ」の喪失が海外留学を希望しない一因ではないでしょうか。

中国の学生が海外留学を希望しないということも聞いています。さらに痛感しているのは、1980年代に来日した中国人留学生は活気に満ちていて勉強好きでしたが、だんだんとそういう活気が薄れてきた気がします。現在、中国は経済的な変化だけではなく、国内で海外情報を獲得するルートも多くなっています。こういうことも関連しているのかもしれません。

「7+1」モデルの推進

―― 都留文科大学と中国の湖南師範大学とは留学生交換の友好協定を締結しています。日中関係発展の過程では、青年交流、中でも大学間の学生交流は最も重要ではないでしょうか。

加藤 おっしゃるとおりです。日中両国の大学生の交流は非常に重要であり、こういった国家間の学生交流に貢献したいと私も思っています。

2011年、私は湖南師範大学に招かれました。そこの学生たちは勤勉で素晴らしく、強い印象を受けました。都留文科大学は2003年からの10年間で湖南師範大学からの交換留学生を40名、私費留学生193名を受け入れています。現在も6名の湖南師範大学の交換留学生が学んでいますが、すべて女子学生です。彼女たちは山梨県外国人留学生スピーチコンテストに出場、その前にスピーチの練習を聴きましたが、しっかりしていました。日本語も正確かつ流ちょうです。2年間、中国国内で日本語を学び、こちらでは日本語を学びながら、日本人学生と同じように授業に出ていますが、授業を聴くこともノートを取ることもまったく問題ありません。一方、都留文科大学の学生6名が湖南師範大学で学んでいます(留学期間は1年)。

韓国は「7+1」と呼ばれる制度を採用しています。大学の1年間を2学期に分け(4年間で8学期)、そのうち7学期を韓国国内で、1学期を海外で生活し、海外生活の学期はレポートで単位に算入するというものです。半年間の海外生活は語学力の向上のみならず、それ以上に視野を広げるために有益です。

外国語をマスターするには二つの道があります。一つは小さい時から学び確実な基礎を作ること、もう一つは外国の知らない街で生活し、生きる必要から外国語を吸収することです。引きこもりがちと言われる学生にとって、この「7+1」モデルは受け入れやすいのではないでしょうか。

都留文科大学は、留学ならぬ「遊学」制度を検討中です。学生に自由に行き先を選択させ、帰国後にレポートを提出させます。この制度を活用し、海外に出て視野を広げ、見聞を深めることを期待しています。彼らの多くが中国へ行きたがると思います。

 アジアに両雄共存の新局面

―― 日中国交正常化40周年の年である2012年は、過去40年間で日中関係が最悪となりました。今後の日中関係についてはどのように展望されますか。

加藤 中国で文化大革命が勃発する前の1963年、いまから50年ほど前のことですが、アジア・ヨーロッパ33カ国の最後の訪問国として、ソ連の飛行機に乗り、モンゴルのウランバートル経由で北京に入りました。まだ天安門広場はなく、北京城(紫禁城)の城壁が高くそびえていました。劉少奇国家主席や中国仏教協会の趙朴初会長と会見したことなど、日中両国のメディアが報道してくれました。

私は歴史学者です。歴史学者は、目下の問題だけ、一時の事件だけを見るのではなく、それぞれの事柄を歴史のなかに位置づけようとします。現在、日中両国は領土問題で波風が立ち、一触即発の状態でもあり、まるでそれが両国間の何より重要な問題のように見えますが、両国の長い交流の歴史からは、必ずしもそうではない。10年、20年が過ぎて振り返ってみれば、たとえ領土を発端とした問題が現実的な解決に至らなかったとしても、両国は双方ともにさらに深い相互認識と相互理解を有しているはずです。

私は以前、朝日新聞社から出した『東洋の近代』(1977年)の中で、日中両国の発展問題について検討しました。中国の隋唐時代、日本が中国を師とする「中強日弱」という局面にあり、それは千年以上にわたって続きます。近代になって日本は中国がヨーロッパ列強に敗北した教訓を汲み取り、交渉により平和裏に開国し、明治維新の「富国強兵」策、最終的には日清戦争によってアジア地域の強国の地位を確立し、「日強中弱」という局面となりました。

第二次世界大戦後、日本は敗戦国、中国は戦勝国であるだけでなく国連の常任理事国の一つとなり、勝敗ということからすれば、また「中強日弱」の局面が出現しました。しかし、さまざまな理由により、日本の戦後復興の歩みは速く、1960年代末には世界第二の経済大国となり、経済上の「日強中弱」の局面が現れました。

中国は1970年代末から改革開放を実行し、30余年の発展を経て、21世紀の10年間で北京オリンピック、上海万博を開催し、GDPは日本を抜いて世界第二位となり、中国版「新幹線」も登場しました。

日本は高い技術力や日米同盟等により、低調ながらもいまなお経済発展を堅持しています。こうして日中両国がアジア、特に東アジア地域においてともに大国となり、初めて「両雄並び立つ」局面を迎えました。一方、日中ともに少子高齢化という共通する難局にも直面しています。

これらを重要かつ大切なこととして未来を展望していかなければなりません。日中両国がいかにこの未曾有の局面で仲良くし、共に発展していくか、すなわち「両雄共存」の道を各方面で具体的に探るかが重要な課題となります。

そのために日中ともに知恵を出さなければなりません。もし「一つの山に二頭の虎は住めない」という観念にとらわれていれば、戦争の歴史が繰り返されるだけでしょう。民族間の遺恨を取り除き、お互いに支え合えば、アジアや世界に全く新しい局面を提供できるはずです。歴史学者として私も努力を惜しまないつもりです。