久元 喜造 神戸市長に聞く
神戸市の発展に欠かせない華僑華人の貢献

中日国交正常化後の1973年6月24日、神戸市と天津市が友好都市提携を結び、これが新中国にとって第1号の海外都市との提携となった。以後、似通った立地や機能を有する両市は、共に手を携え多くの中国“初”を打ち立ててきた。81年3月、中国のジャイアントパンダが友好の使者として初めて海を渡った時も、その目的地は神戸であった。わずか半年で訪問者が1000万人を超え、日本でセンセーションを巻き起こした。今では、両市の交流と協力は中国の対外友好都市提携の模範となっている。また、神戸市と中国との交流には長い歴史がある。華僑華人の日本での奮闘の歴史において、神戸が果たした役割は大きい。孫文、梁啓超といった近代の中国の革命家や政治家は皆、神戸に足跡を留めている。4月22日、1万3600名を超す中国人が暮らす美しい港湾都市――神戸を訪れ、久元喜造市長にインタビューを行った。

 

多文化の共生によって

今日の神戸が

―― 神戸市は多文化交流を重視し、積極的に中国との交流を推進されてきました。昨年は「多文化交流フェスティバル」や「中国王朝の至宝」展といった大規模で質の高い催しを開催されました。中日関係が冷え込んでいる今日、民間交流の重要性についてどうお考えですか。

久元 民間交流は国家間の重要な交流の在り方だと思います。昨年10月20日には7回目の「多文化交流フェスティバル」を開催し、神戸華僑総会の皆さまもご参加いただき、1000名ほどの方に来ていただきました。昨年2月、旧居留地の一角にある神戸市立博物館では「中国王朝の至宝」展を開催しました。こうした機会を通して、神戸市民に中国の文化に接していただき、さらには近隣の県・市ひいては全国にも影響を拡大できたらと思っています。

また、南京町では「春節祭」を毎年開催しています。私もこの盛大なフェスティバルに行ったことがありますが、手を使わず仮面がどんどん変わる四川の伝統芸能「変臉(へんれん)」にはただ驚くばかりでした。こうした中国の民族芸能によって多様な形の民間交流を促進していくことができると思います。

―― 神戸には孫文をはじめ、ゆかりの中国人が大勢います。そのため、国交正常化後、周恩来総理は第一号の姉妹友好都市に神戸を選びました。今現在、中国へのプロモーションについてはどうお考えですか。

久元 日中国交正常化の1972年に私は大学に入学したのですが、大きな意義があるということ、そして、新しい時代が始まるのだということを感じました。神戸は昔から中国と深い縁があり、神戸の歴史の中には中国文化が根付いています。孫文記念館も神戸にあり、日本全国から観光客が見学に訪れます。もっと大勢の中国の方に神戸に来ていただくために、これまでに「神戸コレクション」などのPR活動等を行い、中国語の観光サイトも開設しています。今後は、団体だけでなく個人旅行客にも来ていただけるように、掘り下げたプロモーションを心掛けていきます。

 

 

神戸市の発展に欠かせない

華僑華人の貢献

―― 神戸市には中国人が残した多くの史跡が現存し、清の政治家・梁啓超が建設を促した神戸中華同文学校がありますが、市としてどのような位置づけをされていますか。

久元 神戸中華同文学校は1899年に創立され115年の歴史があります。歴史的文化価値と現代的実用価値を兼ね備えた中華学校で、神戸に深く根付いて活動してこられています。現在、多くの卒業生が日中間の経済・文化交流に大きく貢献されています。

阪神・淡路大震災の時には、避難所として開放していただきました。これはまさに同校が日本社会に溶け込んでいる一つの証左です。同校には、引き続き神戸のため、日中両国のために、より多くの人材を育成していただきたいと思います。

―― 神戸は華僑華人が多いことで有名で、日本三大中華街の一つ「南京町」があります。華僑華人が神戸市にどのような貢献をしてきたと認識されていますか。

久元 神戸市には現在、中国籍の方が約1万3600人おられます。また、日本国籍を取得された華人も多くおられます。たくさんの華僑華人の皆さんが、神戸市に多大な貢献をしてこられました。

何世代にもわたって、港町神戸で商売や海運業に従事し、自身で築き上げた貿易のネットワークで神戸の海上貿易を支え、神戸港の建設と発展に寄与されました。

また、中華街「南京町」は神戸の有名な観光スポットですが、そこで開催される春節祭や中秋節でも、様々な活動を企画・運営し、神戸に活力を与えてくださっています。

華僑華人の皆さんは神戸に根をおろされ、日本人社会と良好で深い関係を築き、神戸という多文化共生のまちに一層の調和をもたらしておられます。今後もさらに神戸の発展に貢献していただきたいと思っています。

―― 本日は本誌理事で在日華人の露埼強先生も同席しています。露埼先生は最近、「神戸市立フルーツ・フラワーパーク」ホテルの運営を引き継がれました。新華人が神戸で活躍されることにどんな期待をお持ちですか。

久元 当ホテルの運営もそうですが、神戸の発展へのご貢献は素晴らしいことです。日本にいらっしゃる新華僑華人の皆さまが、それぞれの場所・分野で、日本と中国との互恵関係による成果を掴まれることを心から願っています。

 

海外での成功には

現地文化の研究が肝要

―― 神戸には神戸ビーフなど多くの世界的なブランドがあります。対中国ビジネスにおけるブランド戦略はお持ちですか。また、中小企業が中国に進出する場合の課題は何でしょうか。

久元 神戸ビーフを含め神戸ブランドは、日本はもちろん世界でもその地位は確立していると思います。中国の皆さんにも神戸の特産品を味わい、神戸を好きになって欲しいというのが、私の最大の願いの一つです。しかし、まだ様々な課題があります。

2006年から12年まで毎年、上海で神戸ブランド発信プロジェクトを行い、牛肉以外にも真珠、スイーツ、ケミカルシューズなどを紹介してきましたが、残念ながら、現在は行っていません。

理由は、売れても利益が出ないという多くの企業の声や、商習慣の違いなどです。一部企業はまだ中国の商習慣を把握できていないということです。お互いが何がネックになっているかを考えていかなければなりません。

これは神戸市の企業に限らず、日本企業全体の共通した課題だと思います。日本国内でも都市間で違いがありますから研究が必要です。中国でビジネスをする上で大事なのは中国市場を研究することです。神戸ビーフを例に挙げれば、シンガポール、タイ、香港などには輸出していますが、香港・マカオを除いて中国はまだです。今後、実現に向けて努力していこうと考えています。

 

政府には忠実で人民には

情の篤い地方行政のトップ

―― 尊敬する人物は第二次世界大戦沖縄戦時に沖縄県知事を務めた島田叡(あきら)氏とのことですが、理由を教えてください。

久元 島田知事は一身を挺して沖縄県民のために尽くし、最後は戦火の中で行方不明になりました。戦死と見られています。

1945年当時、米軍が迫ってくるということは分っていて、多くの国家公務員が内地に逃げ帰っていました。前任の知事は東京に出張に行くと言って沖縄には戻ろうとしませんでした。戦争の前線においてリーダー不在はあり得ません。政府は大阪府の内務部長をしていた島田叡氏を沖縄県知事に命じました。上司から「断ってもいい」と言われていたのですが、毅然として辞令を受け入れ沖縄に赴任するわけです。非常に厳しい現実がそこにはありました。

県民の食料確保のために、軍部の無理な要求を何度も退けました。地方行政のトップとして忠実に自己の責任を果たした彼の業績に心打たれます。

私は国家公務員時代、「時代も変わり、我々が彼の運命をたどるようなことはないだろうが、公務員として、そうした志は伝統として受け継いでいかなければならない」と、常々部下に話していました。

―― 神戸市民の市民性についてはどのように考えていますか。

久元 私は神戸生まれの神戸育ちですが、仕事の関係で京都、金沢、札幌にも長く住んだことがあります。言葉で説明するのは非常に難しいのですが、神戸には神戸の市民性があるように思います。

多くの日本人は曖昧で婉曲的に話をします。しかし、国際化が進んだ神戸では、そんな話し方では通じないのです。ビジネスも成り立ちません。神戸は港町として長い歴史を持っていますので、開かれた市民性だと思います。誰に対してもざっくばらんにコミュニケーションを行います。そして、強い正義感を持っています。

さらに、神戸市民は様々な試練を助け合って乗り越えてきました。第2次世界大戦によって、100万を超えていた人口は38万にまで激減します。戦後、また復興するのですが、今度は阪神・淡路大震災を経験しました。ですから、助け合いの意識が非常に強いと思います。

これから未来に向かって更に国際化が進んでいく中で、この助け合いの精神のもとに、日中の協力・友好関係をこれまで以上に深めていければと願っています。