中村 法道 長崎県知事を訪ねて
長崎県の伝統を受け継ぎ日中関係に尽力

長崎県と中国との人文交流の歴史は古く、607年には初めての遣隋使が長崎から中国へ出発した。また、歴史の大きな流れの中で、生計の道を求めて、多くの中国人が一群また一群とはるばる海を渡って長崎へ渡った。長崎の稲佐山山麓にある国際墓地には、数百年たった今も故郷に戻ることのない華僑華人たちが眠っている。1974年より、長崎県は毎年秋に長崎県民たちと共に墓地清掃を行っている。中村法道長崎県知事は語る。「ここに眠っている中国の方たちは、長崎の発展に貢献して下さった方たちです。ここを守り清掃することは、長崎県民の責任でもあるのです」。2月12日、李文亮中国駐長崎総領事の案内のもと、中村知事を訪ねた。

 

長崎は西に向けての発展戦略を指向

―― 周知のように、長崎は日本屈指の国際都市です。中国とも長い人文、貿易の往来の歴史があります。長崎県と中国の地方都市との経済交流の現状について教えていただけますか。

中村 知事に就任して3年目を迎えました。長崎県は日本の西のはずれに位置し、海を隔てて中国と向かい合っています。対外的には日本の交流、開放の窓口であり、国内に目を転じれば、関西圏域と関東圏域という二大消費市場があります。これまでずっと長崎県は「東向き」、つまり国内向きに仕事をしてきました。西には上海と韓国があります。上海とは860キロしか離れていません。この地の利を活かすべきと考え、知事に就任後直ちに長崎とアジア各国との関係強化に着手し、各分野で中国との友好交流を深めていくよう努めました。

現在、長崎県内の数十社が中国に拠点を構えています。その中でも一番うまくいっているのが鮮魚の輸出です。長崎県には豊かな漁場があり、最新式の漁船と先進の漁獲技術があります。アジ、タチウオ等は日本一の漁獲高を誇ります。

中国から朝注文を頂けば、長崎で獲れた新鮮な魚が、飛行機でその日の午後には上海に届きます。また、調味料の会社や環境関連産業も中国と良好なビジネスを展開しています。これからもこういった企業や往来がますます増えていくと思います。同時に、長崎県としても中国の企業に進出して頂く環境作りに力を入れます。今後間違いなく中国からのお客さまも増えると考えており、ホテルとか土産品の分野でも中国の方々のノウハウを頂きながら事業展開する可能性を探っています。

日中関係は孫中山と梅屋庄吉の如く

―― 長崎県と言えば、中国では、梅屋庄吉が孫中山の革命を資金面で支えたという史実が有名です。今、中日関係は島嶼問題でギクシャクしています。両国関係を如何に改善すべきとお考えでしょうか。

中村 信頼関係と友好関係を更に強化する必要があると考えます。2011年は辛亥革命100周年でした。長崎では、梅屋庄吉の「中国革命のために行った全ては孫文との盟約を果たすためであり、これに関する日記、書簡などは全て外部に漏らしてはならない」という遺言をずっと守ってきました。辛亥革命から100年が経ち、両国で記念事業に取り組み、封印されてきた史実を公表したのです。

孫中山と梅屋庄吉は心の絆で結ばれ、二人の間に利害関係は全く存在しませんでした。両国の若者にこのことを理解してもらい、心と心の絆があれば大きな事業が成し遂げられることを知って欲しいと思ったのです。今日の日中両国間にもこのような堅固な絆が必要です。さらに、人的交流に限らず、文化、観光、物産、環境、教育など多様な分野で、民間交流と地方政府間交流の両面から大きく拡大していきたいという思いを強く持っています。この記念事業で多くの方から「うちのおばあちゃんは修学旅行で上海に行ったよ」という話を聞きました。100年前の上海はそこまで開かれた国際都市だったわけです。長崎にはこんな言葉があります。「東京に行くには水盃(別れの盃)で、上海に行くには下駄ばきで」。当時、長崎と中国はそれほど身近な関係だったわけです。こうした関係をもう一度再構築したいと考えています。

長崎県は1991年に、比較的早い時期に上海事務所を設置しましたが、両国には分野によっては異なったルールがありますので、事務所によってサポート体制を強化し、民間の方々と共に文化交流を進め、商取引を促進し、日中の友好事業に力を尽くしたいと思います。

 中国文化は長崎文化に大きく影響

―― 長崎新地中華街は横浜中華街、神戸南京町と並ぶ日本の3大中華街の一つです。李文亮長崎総領事によると、春節の時期は「長崎新地中華街は中国より中国らしい」と言います。長崎在住の華僑華人について、どう評価していますか。

中村 長崎は日本の中でも独特の歴史をたどって来ています。日本が鎖国政策を取った時も長崎だけは開かれた町として、多くの中国の方々の定住を受け入れました。その時期に来られたのは中国の福建省出身者がほとんどでした。現在、福建省とは友好県省を締結しています。こうした方々が長崎と中国の重要な橋渡し役となって下さっています。

長崎には、長崎新地中華街で行われる『ランタンフェスティバル』の他に、『ペーロン選手権大会』『精霊流し』『長崎くんち』などの伝統的なイベントが数百年間続いており、そこには中国の色彩が色濃く残されています。

長崎文化は「わからん文化」と言われています。「わからん」の「わ」は大和の「和」、「か」は中華の「華」、「らん」はオランダの「蘭」の意味です。中国文化が早くから長崎県民の日常生活に深く根付き溶け込んで、長崎文化に大きく影響を与えていることがわかります。ですから、長崎にはさらに日本と中国との発展の為に尽くすべき役割があるのではないかと考えています。

長崎と縁深き習氏に期待

―― 2012年末、中国は新体制がスタートし、日本でも政権が交代しました。知事は習近平総書記と会われたことがあるそうですが、印象について聞かせてください。また、今後の日中関係に何を期待されますか。

中村 知事に就任した年に、当時国家副主席であった習近平氏と会見しました。ご存知と思いますが、習近平総書記は長崎と縁の深い方なのです。福建省で10数年間仕事をされ、アモイ市の副市長、福州市の書記、そして福建省の省長を歴任されました。アモイ市は佐世保市と、福州市は長崎市と、福建省は長崎県と友好都市です。習総書記は長崎県と福建省の歴史背景や交流の歴史をよくご存知です。

中国で習総書記と会見した折も、こうした地方都市間の交流は非常に大切であり、これからもさらに友好協力の基盤を強固にして、いろんな分野で友好交流を進めていく必要があると話されました。長崎には二度訪問されたことがあり、来庁された折に職員が並んで拍手で迎えてくれたことを今でも覚えていると言っていました。長崎と縁のある方が指導者に就かれたことは大変嬉しいことです。これを機にさらに強固な関係が築かれることを期待しています。

もてなし好きで気前の良い長崎県人

―― 長崎の県民性とはどのようなものでしょうか。

中村 長崎は常に日本の対外交流の窓口の役割を果たしてきました。そのため、お客さまをもてなすのが大好きで人付き合いを好みます。また、新しいもの好きで進取の気質があります。ただ、少し浪費癖があり、お客様の歓待には宵越しの金を持たないという気前のいいところがあります。しかし、この「欠点」のお陰で、お客様は長崎人とのお付き合いを大切にして下さいます。

中国の目覚ましい発展に敬服

―― 知事は何度も中国を訪問されていますが、最も印象に残っていることは何ですか。

中村 初めて中国に行ったのは1980年代でした。その後、中国は目覚しい発展を遂げ、驚くほど変わりました。その時の印象とその後の印象は全く変わっています。初めて行った時は、商店街の雰囲気とか昔の長崎のようで懐かしい感覚を覚えました。数十年後再び訪中した時には、長崎よりもはるか先を走っており、素晴らしい発展を遂げていると実感しました。

日中関係は日本にとっても最も大切な二国関係の一つですので、両国の新しいリーダーが良好な関係を築き、状況を改善し、協力して両国の発展を進めて頂きたいと強く願っています。そうした中で長崎も役割を果たせるように努力していきたいと思っています。

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取材の最後に、記者は他の知事同様に、当地のマスコットキャラクターを所望した。中村知事は即座に「来年、長崎県で『長崎がんばらんば国体・長崎がんばらんば大会』が開催されます。これは一大イベントです。そのために作ったマスコットを差し上げましょう。これが長崎の新しいイメージキャラクターです」と答えた。2週間後、下村博文文部科学大臣を訪ねた際に、偶然にも大臣室でこのマスコットを目にした。長崎はまた新しい一手を打っているようだと感じた。