中谷 元 元防衛庁長官を訪ねて
日本と中国は危機管理システムの構築が迫られている

自民党副幹事長・中谷元氏の応接室の机には横長の木札が置かれ、「国務大臣 防衛庁長官」と書かれている。これは2001年に中谷氏が44歳で、戦後、史上最年少の防衛庁長官(現在の防衛大臣)に就任した時のものである。この官職を経歴としてだけではなく、精神的支柱としていることがわかる。「長官」の経歴は、確かにその後の政治舞台での活動に影響を及ぼしているのであろう。また、応接室の人目を引く場所に、「信念」と書かれた書が掛けられている。中国安徽省の書家に書いてもらったものです、と教えてくれた。中日関係が緊迫しているこの時期に、日本の政治家の執務室に中国の書家の書が飾られているのは感慨深いものがあった。防衛大学校出身の政治家、中谷氏の政治理念は、また「信念」とは何であろうか。

 

危機管理システムの構築が迫られている

―― 2001年に発足した第一次小泉内閣では、戦後、史上最年少で防衛庁長官に抜擢され、初の防衛大学校出身の長官としても注目されました。あれから、10数年たちますが、日本の「危機管理学」はこの10年でどのように変化したのでしょうか。

中谷 国防政策は日本国憲法に基づいて決定されます。それは昭和32(1957)年に定められた『国防の基本方針』です。基本的には四つの原則があります。(1)国連の活動を支持し、国際間の強調をはかり、世界平和を実現する。(2)民生を安定し、愛国心を発揚して、国家の安全を保障するに必要な基盤を確立する。(3)国力国情に応じ、自衛のため必要な限度において、効率的な防衛力を漸進的に整備していく。(4)外部からの侵略に対しては、将来、国連が有効にこれを阻止する機能を果たしうるに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する、というものです。

国防政策はこの10年間で大きな変化がありました。経済も安全保障もアメリカ一国だけでは世界をコントロールし維持していくことができなくなってきました。今では同盟国で協力しあうというものに変わり、米軍も機動的にシフトしていこうという変化がありました。こうした変化を踏まえて、平成22年(2010年)に策定された『防衛大綱』で示されたように、防衛政策の基本概念として『動的防衛力』の方針が打ち出されました。

この10年、日本の国防予算は連続して減少しています。それに比べて、中国は20年連続して毎年2ケタ台の伸び率を示しています。つまり、力の均衡に変化の兆しが見えてきているのです。日本はなぜ軍事費が減ってきているのか、中国の軍事費はなぜ増えているのか、こうした時代の変化に日本はどう対応するのか、日本は考えなければなりません。

尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐる争いについて、それぞれの国の主張はありますが、両国とも戦争や紛争を望んでいません。こうした海域における危機管理のメカニズムの構築が必要です。少なくとも、現場の両国間の船での無線通信や話し合い、トップレベルから現場担当者に至まで二重、三重のホットラインを通じて、対立が激化しないような仕組みづくりが必要なのです。

自衛隊を「国防軍」に変更するのは国家としての基本

―― 自民党政権は自衛隊の整備と防衛力の強化が必要であると、自衛隊を「国防軍」に名称変更しようとしていますが。

中谷 中国にも「国防部」があり、軍隊を持っていますね。日本が自衛隊を「国防軍」という名称に変更しようとしているのは、国家としての基本です。「自衛隊」という名称で、憲法上、国内的には軍隊ではないと言っても海外では通用しません。自衛隊が海外に行けば軍と位置づけられます。国を守る組織としての軍として、自衛隊の名称を「国防軍」に改めることを、改正後の憲法第9条に明記することを問題提起しているわけです。

中韓は日米を東アジア経済圏から排斥すべきでない

―― 2012年末に、日本は再び政権交替しました。安倍総理就任後、周辺諸国は日本が再び「右傾化」するのではないかと不安を抱いています。

中谷 相手がいるから不安になります。国と国が友好的で協力的な関係を保っていけば、不安も解消されます。日本と中国は経済的には切っても切れない仲です。日中間の経済協力をより深めていくことで、両国間の平和・友好関係を保っていけるのではないでしょうか。そのためには、政治レベルでのトップや外交担当者の話し合いによる相互理解がカギになると思います。

東南アジア地域は、アメリカと日本を中心とした経済的ブロックをつくろうとしていますが、韓国と中国はアメリカを引き離そうとしています。アジア地域において本当に良いことなのかどうか、私は心配しています。日韓、日中は隣国ですから、領土、権益などいろいろな問題があります。しかし、経済面でアジア地域の仕組みを変えてしまえば、それ以上の根深い対立が起こります。過去の世界大戦も経済のブロック化による対立が原因でした。やはり、日中韓の東アジアの経済グループであるFTAをつくってからTPPを検討すべきです。

 国民に理解を得られる新憲法の制定を

―― 2012年、自民党は「憲法改正草案」を立案し、安倍政権は「憲法改正」に意欲的です。自民党の憲法改正推進本部事務局長兼憲法起草委員長として、「憲法改正」について、どう考えていますか。

中谷 戦後、日本の憲法ができてから60年以上経ちましたが、一度も改正されていません。この憲法は、アメリカの占領時代にGHQ(連合国最高司令官総司令部)が原案を作成し、それを日本が承認した経験があります。振り返りますと、日本経済の「失われた20年」の理由があります。つまり、「過度」に依存しすぎたのです。この「過度の依存」は5つに分かれます。そのうちの1つは、日米安全保障に依存しすぎて、国土を守るという精神をなくしてしまったことです。

自民党政権が提出した「憲法改正案」は、日本にとって何が必要なのかを踏まえて、民主主義の在り方とか、環境をどう守るか、国民の権利と義務などの関連規定を補足したものです。自民党政府は、「憲法改正案」をきちんと説明し、相応の手続きを経て、国民の皆様が理解できるような新しい憲法に変えていく必要があると考えています。

また、新しい憲法では、なぜ自衛隊が存在するのか、自衛隊の行動範囲はどうなっているのか、緊急事態の時に自衛隊は何をするのか、といった自衛隊の定義について明確に説明するべきです。中国の憲法では明確な規定があるようですが、日本にはありません。有事に国民が混乱しないようにすべきなのです。

日中は力を合わせて北朝鮮の核開発の牽制を

―― 日本のメディアは中国脅威論を強調していますが、どう感じていますか。また、中日関係を改善するために何か提案はありますか?

中谷 日本は言論の自由があり、メディアは外国を批判しているだけでなく、毎日のように政府批判が展開されています。こうした批判は、必ずしも煽動だとは限らないでしょう。日本の防衛政策も予算の1円に至るまで国会で議論され、国民にオープンにされています。ところが、中国の軍事力や毎年の国防予算について、確かに数字は出てきますが、どこまで本当の数字なのか、どこまで内容がオープンにされているかが世界各国の疑問なのです。中国政府が軍事情報をもっとオープンにして、その上で、この地域の平和と安全をどのようにして保っていくのかという話し合いがあれば、日本メディアの「中国脅威論」はなくなります。

今、世界中で東アジア地域が一番不安定なのです。というのは、北朝鮮の核問題や、緊迫した状況の日中関係があるからです。心配なのは、北朝鮮の核開発です。いつ爆発させるのか分からない状況です。この地域の平和と安全のために、共通の脅威や不安定に対して、日本と中国はトップレベルの会談で、危機管理システムなどを構築していくべきです。両国のトップができるだけ早く話し合いのテーブルにつくことを願っています。

民主党の外交政策は一貫性に欠けていた

―― 2012年末、自民党は民主党と政権交代をしました。両党の外交政策は明らかに異なっていましたが、どう評価されますか。

中谷 自民党は長年、政権政党でしたので、意思決定する仕組みが決まっています。末端の党支部や国民の意見を吸い上げ、党内で議論します。政策を実施する前には、党の政調会と総務会とで、一つ一つ手続きを経て実行に移すのです。民主党の場合は、政策決定の仕組みもできていなかったし、出てくる外交政策も短期的で、一貫性がありませんでした。自民党の綱領には、「民主的で平和な日本」という基本方針がありますが、民主党にはそれがありません。寄せ集めの政権批判勢力でしかなかったために、国民の期待に応えられなかったのです。

青年は体制を破って時代を変えていくべき

―― 幕末の風雲児として名高い坂本龍馬と同郷の高知ご出身ですね。龍馬は明治維新で日本に大きな貢献をしました。時代を担う青年にとって必要なものは何ですか。

中谷 どこの国にも時代の変化が起こりますが、時とともに制度も必ず行き詰まります。それを改革して打破していくのは若者の責務です。「若者」とは年齢だけではなく、考え方が若いことが重要です。青年は勇気をもって時代を変えようとする精神力をもち、常に他人のことを考えて行動することが重要です。

坂本龍馬は平和主義者でした。日本は外国から開国を迫られましたが、龍馬のおかげで外国の植民地にならずに国が発展できたわけです。国のことを考え、勇気ある行動をした龍馬の故郷である高知県人であることを、私は誇りに感じています。

                      

編集後記:中谷元氏は中日関係を重視し、積極的に中国と話し合おうとしている。近年、毎年開催される中日共同主催の「北京・東京フォーラム」などの会場で、たびたび意見交換をしている。取材終了後、中谷氏は記者の手を握り、「高知はいいところですよ。ぜひ私の故郷に来てください」と心をこめて話してくれた。