安倍晋三自民党総裁の故郷を訪ねて
父の志を継いで日中友好を

9月26日、日本最大野党である自由民主党の総裁選において、安倍晋三氏が再選を果たした。

この瞬間多くの人が、かつての、首相就任から1年を迎える17日前の2007年9月12日の安倍晋三氏の突然の辞任を思い出したに違いない。このような辞め方をした政治家が総裁に再選されたのは、自民党結党以来57年間で初めてのことである。

安倍氏が前回総裁に就任したときは、自民党は与党であり、与党の総裁として首相に就任した。しかし今回は最大野党の総裁である。与野党の違いは安倍氏が誰よりもよくわかっている。

本年6月4日、記者は衆議院議員会館で安倍氏を取材したことがある。インタビューの最後、「もし再び首相に就任したら、日中関係をどのように発展させたいと考えていますか」との質問に、安倍氏は笑いながら「私が首相になるかどうかとは関係なく、日中関係は重要だと考えています。とりわけ、国民レベルにおける相互理解を深めていくことが非常に重要です」と答えた。


6月4日、国会に安倍晋三氏を訪ねた本誌記者。

現在、日本の政界は非常に不安定である。与党の民主党は四面楚歌状態で弱体化している。この状況下、自民党は近く政権を奪還できるのか。安倍氏が首相に就任した場合、現在の悪化した状態の日中関係をいかに立て直すのか。日本国民は安倍氏に何を期待しているのか。これらの疑問を抱きながら、安倍氏が総裁に就任して1カ月の10月25日、我々は山口県の安倍晋三氏の故郷を訪ねた。

筆頭秘書が語る安倍晋三氏

昼食時、我々は安倍晋三下関事務所筆頭秘書の配川博之氏と山口県下関市の料亭「古串屋」で落ち合うことにした。ここは、「古串屋」としては明治4年(1871年)の創業であるが、毛利藩お抱えの料亭という歴史をもち、後に山口県出身の8人の歴代首相も、ここで政治“密談”を行ったという。


安倍晋三氏の秘書・配川博之氏と本誌記者

配川氏は、安倍事務所で20年以上働く、安倍氏を支えるベテランでもある。

配川氏によると、選挙制度改革により選挙区の範囲が大幅に縮小され、下関事務所の人員も20数名から現在の10名程度に減ったのだという。しかし、毎回選挙になると、後援会のメンバーや多くのボランティアの人たちが応援にきてくれるという。

安倍晋三氏が再び首相に就任したら、日中関係の問題にどのように対処するかとの問いに答えて配川氏は、「メディアではしばしば安倍氏の強気の発言が取り上げられ、彼が自民党総裁選出後の記者会見で『日中韓三国は、お互いが大切な協力関係にあることを改めて認識すべきである』と強調した点を見落としています。また、安倍氏は靖国に参拝はしましたが、記者の『首相に再び就任したら靖国神社を参拝するか』との問いには『日中、日韓関係がこのような状況のときに、そのような質問はしないで下さい』と言っていました」と語った。

安倍晋三父子は、中国の改革・開放を主導した鄧小平氏を高く評価している。父親の安倍晋太郎氏はかつて語った。「私も世界各国の多くの指導者と会ってきたが、鄧小平氏ほど、ありとあらゆる苦労を味わい、度重なる浮き沈みにも動じない大政治家は他にはいない」と。また、安倍晋三氏は自著『美しい国へ』の中で、「鄧小平は『南巡講話』を発し、(中国は)大きく経済発展をとげたのである」と述べている。

さらに、安倍晋三父子は日中関係の発展に大きく貢献してきた。安倍晋太郎氏は福田赳夫内閣での官房長官時代、直接「日中平和友好条約」の締結に携わった。中曽根康弘内閣での外務大臣時代には、胡耀邦総書記の訪日に尽力し、中曽根首相の訪中にも随行するなど、明確に「中国は軽視できない国であり、10億以上の人口を有する国と安定した関係を保つことは、日本のみならずアジアにとっても重要である」とのメッセージを提起した。安倍晋三氏は2006年9月に首相に就任するや、当月中国への「氷を割る旅」を実行し、小泉純一郎首相の六度にわたる靖国参拝で破壊された日中関係を、再び正常な発展への軌道に乗せた。中国側も安倍晋三氏の「日中関係は『戦略的互恵関係』であるべき」との提案を受け、日中両国関係を『戦略的互恵関係』と明確に位置づけた。

世間では「この父にしてこの子あり」という。政界では「子は父の事業を継承する」「子は父の志を継ぐ」という。我々は共に安倍晋三父子の日中関係への貢献を回想した後、配川氏が言葉を継いだ。「安倍晋三氏は戦略的観点、戦略的主張をもった政治家です。日中関係問題を解決していく上でも、感情的になることはないでしょう」。最後に氏は自信に満ちて語った。「まずは自民党が民主党から政権を奪還することです!」

さらに、安倍晋三氏のホームページにアップされた写真の中で、ひときわ目を引く1枚の写真についてうかがった。それは、配川氏が偶然撮ったものだという。その日のことを回想しながら氏は語ってくれた。

「あの日、安倍氏は故郷の油谷町に帰っていました。道でちょうど1人のおばあさんと出会ったのです。彼は自分から前に歩み出て挨拶したのです」。写真には、緑に囲まれた田舎の小道で、白いワイシャツにスラックス姿の安倍晋三氏が、1人の老いた農婦に90度お辞儀をし、農婦はただ背中を丸めて会釈している姿が写っている。日本の政治家の、郷里や選挙民との関係が、この写真からありありと見てとれる。

僧侶が見た安倍晋三氏

山口県長府市内の城下町一帯には、大小10数カ所の歴史ある寺院がある。鎌倉時代末期の1327年に創建された功山寺は国宝に指定されている。世の栄枯盛衰の証人でもあり、歴史回天の舞台でもあった。多くの日本の皇室や歴代の首相もここを訪れている。


功山寺のガイドたちと本誌記者

功山寺の境内で、我々は熱心なガイドに出遭った。我々が中国人と知ると、嬉しそうに話しかけてきた。「尖閣諸島(中国では釣魚島)問題は必ず解決します。尖閣によって日中関係にヒビを入れてはいけません。今日は境内では喧嘩はよしておきましょう。日中両国は必ず世世代代の友好を貫いていかなくてはなりません!」。ガイドによると安倍晋三夫妻は帰郷した折、よく功山寺を訪れるが、彼は特別な案内はしない。夫妻は、いつも好んで地元の居酒屋で焼き鳥などを注文するという。

境内に樹齢千年の銀杏がある正円寺は、安倍家とは古くから親交がある。正円寺の野﨑智愛住職が語ってくれた。「安倍晋三氏が首相就任後ほどなくして突然辞任を発表したとき、私は驚きました。まだ若かったのかなという印象があったから、安倍氏が首相に就任した当初は、多くの人が喜びの反面憂慮も抱いていました。ともあれ、安倍氏の故郷の人間として山口の人々はどこの誰よりも、安倍氏に期待していました。ところが、あのような突然の辞任で、皆が心を痛めました。辞任後は時間にも余裕ができ、実家に帰って来られる回数も増えました。正円寺だけでも夫妻で3、4回訪れています。戻られる度に故郷の皆さんを訪ね、自身の考えを伝え、皆さんの理解を得るべく努力されている姿は、私の眼にも留まっています。今度こそやってくれると、誰もが信じています。近く行われる衆院選で必ず勝利すると信じています。安倍晋三氏の父親である安倍晋太郎氏には生前いつもお世話になっていました。ですから私は安倍父子を心から支持しています。ともあれ、私と安倍晋三氏の考え方は全部が全部同じではありません。彼の少し右寄りな部分を心配しています。しかし、安倍氏が前回首相に就任したときの表現と比べれば、日中関係の大局に配慮できていると思います」。

正円寺の若い僧侶山内祐介が語ってくれた。「私は安倍晋三氏のファンです。ファンになったのは安倍氏が首相を辞任してからです。安倍氏は他の政治家とは違ってとても低姿勢です。私は長府市内で何度かお会いしたことがありますが、彼は誰に遭っても挨拶をします。夫婦仲もとても良いと聞いています。私生活での醜聞も聞いたことがありません。この一点から見ても他の政治家とは違います。良い政治家の前提は良い人であることです。彼は一度失敗しましたが再び勇気をもって立ち上がりました。今度こそやってくれると信じています!」

出家僧の奉公とは、己を以って人を量る“恕”(ゆるす)というものかもしれない。あるいは、安倍晋三氏が辞任してからの5年間の振る舞いによるものか。長府の僧侶たちの安倍氏への評価は、明らかにみな善意に満ちていた。

ひっそり立つ安倍家私邸

安倍晋三夫妻の私邸は、グランドホテルにほど近く、陸屋根の小さな2階建で、外観は周囲の民家と変わるところはない。明らかにこの家の主人にもプライバシーを保護するという意識はない。塀は低い金網だけで、庭の外から目を向ければ庭の中が見渡せる。


安倍晋三氏の下関市内の私邸

安倍邸の庭には2本の大きなサクラの木があり、春に花が満開になったらさぞや美しいだろう。しかし今、庭には冷たく透明な秋風が吹き抜け、風で巻き上がる落ち葉しか見ることができない。郵便受けの外側には「猛犬注意」のシールが貼ってあるが、庭には大型犬用の犬小屋がぽつんと置かれているだけで、犬は見当たらなかった。

記者はここで安倍晋三邸の管理人の女性に出会った。今回安倍晋三氏が再び自民党総裁に選出されたことについて彼女は、「下関のみなさんがすべて安倍さんを支持しているわけではないと思いますが」。安倍家の管理人という立場である彼女が、安倍晋三氏の総裁選出について中立かつ冷静であることは思いがけないことだった。彼女はさらに「安倍晋三夫妻が当地に帰ってきたら、ここに泊まりますが、ここは完全に夫婦のプライベートな場所です。もし誰かの訪問や仕事の話があれば、この私邸の向かいにある後援会事務所で行います」と語った。

安倍晋三後援会事務所の正門の左側には「晋友会事務所」という眼を引く看板がかかっており、右側にはさらに小さな木の表札が掲げられており、それには「安倍晋太郎」と書かれている。事務所内の庭の松の木は青々と茂り、枝は整然と剪定されていて、安倍夫妻の私邸のうら寂しさとはまったく違う。管理人の女性によると、この事務所はもともと安倍晋三氏の父、安倍晋太郎氏の屋敷であったそうだ。

油谷町の「安倍」色は濃厚

安倍家の私邸と後援会事務所を後にして、安倍家の墓所まで車を走らせた。そこは安倍家勃興の地、山口県長門市油谷町である。


山口県下関市内の安倍晋三氏の選挙ポスター


安倍晋三氏の故郷のレストランでの記念写真

下関市内では、安倍夫妻私邸近辺の選挙看板や、当地の料亭での写真以外に、安倍晋三「色」はそれほどはっきりしていない。しかし、油谷町に近づくにつれ、安倍晋三「色」はどんどん濃くなった。道端では時折選挙看板が目に飛び込んでくるし、土産物店には「晋ちゃんまんじゅう」まで並んでいる。


山口県で作っている「帰ってきた?!晋ちゃんまんじゅう」。

下関市内から油谷町まで、まだ緑のあせない田野をまるまる2時間車を走らせた。道々、車窓からは色とりどりの草木や花々が見られ、絵よりも美しい農村風景が広がっている。山口県は確かに山紫水明の地であると言わざるを得ない。

安倍家の故郷、油谷町に入り、80代の老婦人に道を尋ねた。老婦人は、われわれが安倍家の墓所を訪ねると知ると、安倍家の三代はともに当地の名士であり、今回総裁に選ばれたからには健康管理に気をつけ、二度と辞職するようなことはしないでほしいと述べた。「この前の時は本当に腹が立ちました」。一度信頼を失った安倍氏が再び故郷の人々の信任を得ようとしても、簡単なことではないようだ。

老婦人の家の近くに小さな養鶏場があり、数人の中年女性たちが長靴をはいてピンクのスカーフをかぶり仕事をしていた。車を降りて安倍晋三氏の「復活」についてどう思うか聞いたところ、1人が「とにかく決まったんだからしっかりやってほしいわ。前みたいなことはならないようにね! 」と厳しく言った。2006年9月、52歳の安倍氏は「戦後の日本で一番若い首相」となった。しかし、この「一番若い」という文字は、安倍氏の辞職に伴い、名誉から揶揄へと変わったのである。


自民党の広報誌を持ちポーズをとる老理髪師

油谷町の「Nagao」という理髪店で、われわれは自民党の広報紙を見かけたが、2枚の広報紙ともに第1面のトップは当然ながら安倍氏の写真であった。老理髪師は、この町には専門にすべての家に自民党の広報紙を配達する人がいると教えてくれた。彼に現在の日中関係の現状について聞くと、「民主党には外交の経験がない。自民党が政権復帰してうまく処理するまで待たなくちゃだめだ」と答えてくれた。

地元で有名な「安倍家の墓」

安倍家の故郷の人々の親切な道案内のおかげで、車はついに名もない小さな川のほとりに着いた。田畑の脇に赤い字で「安倍家の墓」と書いてあり、その下に矢印のある白い看板を見つけた。安倍家の墓所を訪れる人が多いことを示している。


安倍家の墓所

赤い矢印に従って、車は山の上に向かった。道の終点まで行くと、見晴らしがよく、公園のような墓地が目に入った。これが「安倍家の墓」である。美しく整えられたヒイラギの木々が、欧米の墓地のような風格をかもし出している。しかし、2カ所の石庭がしつらえてあり、日本式の枯山水の庭園の風情もある。

墓地の前に立ち、墓碑が向かっている方向を眺めると、遥かに山並みが、近くには渓流があり、油谷町の家々が一望でき、夜明けの陽光が墓碑を照らす……これらのすべてが安部家の墓を守っているかのように見える。

墓には4束の胡蝶蘭とユリの花が供えてあった。花の色は鮮やかでいきいきとしており、昨日今日のうちに誰かが交換したと分かる。墓碑の右手の墓誌は、初めて安倍家から政界に打って出た、安倍晋三氏の祖父である安倍寛から始まっている。


安倍家の墓所の脇には「記帳所」がある。

墓所には墓参りに来た人が記名したり休憩したりするあずまやがある。ここにはろうそくやライターが備えてあり、外には手を洗う場所もある。記名簿に記帳しているのはほとんどが山口県民だが、中には福島県、佐賀県、新潟県、広島県、神奈川県など遠くからわざわざ来ている安倍晋三氏の支持者もいる。記名簿の最後の1行は2012年10月22日となっていた。


墓所には日本各地からお参りの人が来ている。

墓碑に刻まれた文字から、この墓が1991年8月に建立されたことが分かった。これは安倍晋三氏の父である安倍晋太郎氏が亡くなった3カ月後である。またこの墓の後方には、古くて小さな「安倍家累代之墓」がある。

報道によると、10月6日自民党総裁に選出された安倍晋三氏は、我々が立っている場所に立ち、父安倍晋太郎氏に必ず政権を奪い返すと誓った。

車を降りて新幹線に乗り換え、東京に戻る車中で山口県の歴史書を読み、山口県が日本をひっくり返した明治維新の「胎動の地」であり、前後して8人の首相を輩出しているところであることを知った。面白いことに、山口県出身の伊藤博文は4回、桂太郎は3回、山県有朋は2回首相の地位に就いている。また岸信介は2回連続、佐藤栄作は3回連続して首相になっている。こう見ると、安倍晋三氏が再び首相になることは、少なくとも山口県の歴史からするとけっして珍しいことではないようだ。安倍晋三氏が中国の新しい指導部と共に新しい日中関係を築くことができれば、父と同様に歴史に名を残すことができるだろうと、日本のある政治評論家は言っている。


山口県からは8人の首相が出ている。