渡部 恒三 衆議院議員(民主党:最高顧問)
日中国交正常化前の忘れ難い「秘話」

2月24日午後、衆議院議員・民主党最高顧問で、80歳近い渡部恒三氏を衆議院議員会館の事務所に訪ねると、あたたかく出迎えてくれた。そして自らお茶を入れてくれたり、関係資料をコピーしてくれたりしながら、「今の国会議員の中では、年だけでなく当選回数と任期も一番多いです」と誇らしげに語った。そして、日中国交40周年の話題をめぐって、国交正常化前の「秘話」を聞かせてくれた。

 

田中角栄の真意を伝える

 1970年1月14日、渡部氏は衆議院議員に初当選し、国会議事堂に入った。その時の心情を「女房が怒るかもしれないが、その時は本当に新婚の頃より嬉しかったですよ」と語る。その後間もなく、佐藤栄作内閣で田中角栄氏が通産大臣に就任。田中角栄の「七奉行の一人」であった渡部氏に突然、重要な仕事が飛び込んできた。

「かつて厚生大臣も務めた川崎秀二さんに誘われて、同期の山下徳夫さん、唐澤俊二郎さんとともに中国に行くことになりました。当時は、日本と中国に国交がありませんでした。佐藤内閣は台湾との関係が深く、日本の国会議員が中国大陸へ行くこと自体が大変な時代でした。しかし、日本と中国は、廖承志さんと高崎達之助さんが1962年に調印した『日中長期総合貿易に関する覚書』に基づいてLT貿易が行われていました。そのために通産省から5、6人の職員が北京に派遣されていました」と、渡部氏は往時を振り返る。

そして、「あの頃、若手国会議員の多くは、将来の日本とアジアを考えると、一日も早く中国と国交を結ぶべきだと考えていました。通産大臣の田中角栄さんもそうでした。中国出発前に田中さんに挨拶に行くと、『しっかりやってきなさい。後はオレが何とかする』と励ましてくれました。そこで私が、『中国に着いたら、自民党の議員として、中国は一つであり、中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府だと話すつもりです』と言うと、『君には発言の自由がある』と田中さんは言いました。北京に着くと、熱烈な歓迎を受けましたよ。これは、日本の政権与党の自民党が初めて派遣した訪中団でしたからね。周恩来総理も心のこもった接待をしてくださりました」。

さらに、周総理との思い出については、「人民大会堂の新疆ホールでの宴会で、周総理はとても喜んでおられる様子でした。中国の言葉でまさに『熱烈歓迎』でした。私もうれしくなって、思わず周総理の前に行き、『今の佐藤内閣は1年ももちません。次は私の親分の田中角栄が総理になります。そうしたら、すぐに中国を訪問して、国交を結ぶと思います。我々は中国は一つで、中華人民共和国が唯一の合法政府だと考えています』と話しました。すると周総理は、喜色満面の笑みを浮かべて、私とマオタイ酒を一気に三回も『カンペイ(乾杯)』しましたよ」と、当時を思い起こし興奮ぎみに語った。

「そして、私の話したとおり、田中角栄さんが首相になった。田中内閣が誕生すると、すぐに中国に飛び、1972年9月29日に北京で周恩来総理と『日中共同声明』に調印し、日中の国交正常化を実現させました。今年は日中国交正常化40周年記念にあたりますが、あの歴史的な訪中は、私の政治人生のなかでもっとも誇りとすべき思い出です。残念なことに、会見の際に写真を撮らせてもらえず、その時の写真はありませんがね」と話した。

 

 

日中友好は未来に向けて

 先ごろ、名古屋市の河村市長が南京大虐殺を否定した発言に話が及ぶと、「これは難しい質問だな」と、この話題にはそれ以上触れず、次のように話しを続けた。

「日中国交正常化の以後、中国に招かれ、中国の人々のあたたかいもてなしを受けました。南京にも行きました。過去の不幸な歴史があるので、非難を受けるかもしれないと思っていました。ところが、南京の人々は非難するどころか、毛沢東主席も泊まったことがあるという高級ホテルを準備してくれて、歓迎してくれました。それ以来、私は心の中で南京の人々に感謝しています」。

そして、「過去を振り返れば、確かに日中間には不幸な歴史がありました。しかし、両国の今後の友好往来のために、歴史問題に捉われるのではなく、視点を未来に置くべきです。それは歴史を忘れるということではなく、両国の人々に過去を振り返るより、より多く未来をみつめてほしい。これは、南京を訪問した時に感じたことです」。

 

震災後の中国の支援に感謝

最後に、3・11大震災以後の日本の話題になった。

「何より日本は中国に感謝すべきです。昨年、東日本大震災が起きてから、中国は多くの援助をしてくださった。そして、温家宝総理みずから被災地の宮城、福島に出向かれて、被災者を慰問してくださったことは、中国は日本と隣国で、かつ大切な友人であることを改めて思い知らせてくれた。福島は私の故郷です。この場を借りて、中国政府と国民の皆さまに心から感謝の意を表します」と語った。

そして、震災対応について次のように語った。東日本大震災以降、世論は菅内閣の対応の「遅さ」などを批判してきた。その後、野田佳彦氏が首相になり、所信表明演説で「福島の復興なくして日本の振興はなし」と言明した。現在、政府は全力で被災後の復旧・復興に取り組んでいる。

また、日本の未来の原子力エネルギ―政策について意見を述べた。震災後、福島の原子力発電所の事故によって、日本は原子力政策を見直せざるを得なくなった。国民の多くは「脱原発」活動に参加している。日本政府もこの方向で進めていくべきだと、渡部氏は考えている。

「現在、政府は原子力に替わる再生可能エネルギーを検討していて、福島に風力発電所の建設を検討している。私は福島に地熱発電所を建てたことがある。日本では初めてだった。それ以前に風力発電所を建てたこともある。今は様々な発電方法を検討する時期だ」と。

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 取材が終わる頃、ご自身の政治人生を一言で書き表してほしいとお願いした。渡部氏は少し考えて『決断と実行』と揮毫してくださった。これは自身の政治人生に対する総括なのかもしれない。