王 天佐 「中秋明月祭大阪」実行委員長
日本人と華僑華人が共に中秋の名月を鑑賞

ある雨の日の午後、定年後も華僑団体の要職を務める王天佐は、「中秋名月祭大阪」の準備のために、大阪から東京に駆け付けた。在日華僑華人が口々に称える、民間交流友好活動「中秋名月祭大阪」は、2009年に始まり、13年の歴史を刻む。華僑華人が再会して故郷を偲び、日本人が中国の奥深く豊かな伝統文化を理解する場となっている。

西日本中華総商会の会長を務める王天佐は、「中秋明月祭大阪」の実行委員長として、資金調達、企画、出展者の募集・運営等の重責を担う。異国の地で、中国の伝統的な民間活動を大衆の文化行事として根付かせることは、決して簡単なことではない。

われわれは、王天佐実行委員長を取材し、詳しくお話をうかがった。

中国と日本の30年のギャップとは

大学入試が復活して2年目の1978年、王天佐は大連外国語大学に進学した。その年は、改革開放政策が開始された年でもあった。体制は改革され、あらゆる産業の振興が期待され、人材が求められていた。王天佐は大学卒業後、当時重用されていたエンジニアの道へ進んだ。

1980年代初頭、国家電子工業部は、大連に14の無線工場を建設した。王天佐が働く企業も、そのうちの一つであった。業界発展のため、彼の企業では、日本の先進的なコンデンサ自動生産ラインを57本導入することになった。

当時、中国の外貨準備には限りがあったが、国はそれを支持した。重責を担った王天佐は同僚と共に、上海機械学院と上海天和コンデンサ工場に出向き、必死に学んだ。三カ月後、職場に戻った王天佐は、輸入設備の検証基準を策定し、工場を改修して、生産ライン配置の設計図を完成させ、日本の機器の保守点検チームを結成した。半年後には生産を開始し、国内市場のニーズに応えるとともに、品質は国際基準に達し、海外からも注文を受け、外貨の獲得を実現した。

王天佐は現状に満足しなかった。当時、「中国と日本には30年のギャップがある」とよく言われた。今の日本は30年後の中国なのか、30年後の中国はどうなっているのだろうか、そんな思いを胸に、王天佐は「不惑の歳」を前に、日本への私費留学を決めた。

あれから30年が経過したが、中国と日本のギャップとは何だったのだろうか。王天佐は記者にしみじみと語った。「故郷の大連は、今では『空母製造基地』、『省内トップのGDP』、国内初の『国家新型工業化産業モデル地区』等の輝かしい名声を得ています。大連には、1万8700社以上の外資系企業があり、その内、4800社余りが日系企業で、その数は年々増えています」。

中国経済の急成長を後押し

日本でバブル経済が崩壊した頃、彼は、創業100年の歴史を誇る、ある日本の老舗企業の取締役会に、唯一の外国人として名を連ねた。同業者から尊敬を集め、日本社会の信頼を勝ち取ったのである。王天佐の成功体験は、中国の発展の軌跡を反映し、後進への範を示した。

バブルが崩壊した瞬間、日本経済の空は崩壊し、土砂降りの雨の中で逃げ場を失った。「現実が変えられないのなら、自分を変えるしかない」。王天佐は、新たな目標を掲げてチャンスをうかがい、自ら辞職した。そして、1905年創業の老舗商社に転職した。

100年の歴史を誇る商社には、確かに独自の成功モデルがあるのだが、柔軟性に欠け、制度上の保守的な一面も見られた。中日貿易を推進する過程で、王天佐は、日本側が中国経済の潜在力と市場の優位性を再考察するよう導き、中国側には、日本の卓越した「モノづくりの精神」を紹介し、新たなプロジェクトや貿易のスタイルを勇敢に開拓し、取引の規模に関係なく結果を出した。

ごぼうや大根などの野菜は、日本人の食卓に欠かせない食材である。中国では元々、ごぼうの栽培は行っていない。日本のマーケットでは、ごぼうの出荷量は少なく価格は高かった。彼は機会を見て何度も中国を訪れ、連雲港で、ごぼうの栽培に成功すると、山東省の各地に広めた。ほどなくして、日本市場では、中国産の新鮮なごぼうや加工品が主流になり、大根の漬物は、良質の種と技術を提供した鹿児島の顧客を喜ばせた。さらに、大根、にんじん、いちご、きゅうり等の日本の固有種を中国に持ち込み、端境期をコントロールできるハウス栽培によって、ウィンウィンの中日貿易協力モデルを打ち立てた。

日本で人気の清酒「大関」が、初めて中国市場に参入して敗北を喫した際、中国市場を知り尽くす王天佐に助けを求めた。彼は、新たな道を探り、中国の消費者に「大関」を売り込み、「大関」や大塚製薬のスポーツドリンク「ポカリスエット」等の生産ラインを中国に誘致し、中日の交流・共栄の一層の深化を図った。

2001年、王天佐は、国から、遠洋マグロ漁の空白を埋めるための漁船の輸入を託された。資料を収集し、専門家にもアドバイスを求めたが、なかなか日本製の漁船を探し出すことはできなかった。仲間たちからは諦めるように言われたが、彼は諦めなかった。70ページ以上に及ぶ契約書を作成し、3度にわたって、神户商船大学の教授に、インドネシアでの漁船の鑑定を依頼した。そして、彼の執念と信念はついに報われた。8月、王天佐は中国語、日本語、英語の鑑定書と国際証明書を確認し、船名変更等の手続きを終え、日本製の437トンの遠洋マグロ漁船が、福建省の馬尾港に到着したのである。王天佐は船の引渡し式に出席し、代表して署名を行った。不可能を可能にしたのである。翌年6月、中国籍の船が、静岡県清水港で満載のマグロを荷降しした。中華民族としての誇りを感じた瞬間であった。

「中国と日本には30年のギャップがある」という言葉は、今も耳朶に残るが、十数年も経たないうちに、そのギャップは大幅に縮小した。その背後には、祖国の、繁栄・復興への漲るエネルギーと、国民一人ひとりの努力があった。

大阪で愛でる中秋の名月

当時の羅田広中国駐大阪総領事が提案し、後任の鄭祥林総領事の強力な支援の下、2009年の中秋節に、大阪のランドマークである難波宮跡で、第一回「中秋明月祭大阪」が開催され、関西地域の新華僑・老華僑と日本の友人たちが一同に会した。最初に届いた祝賀のメッセージは、当時の崔天凱駐日大使からであった。

「中秋明月祭大阪」は、徐々に規模を拡大し、関西地域の数十の華僑団体・華僑企業が心をひとつにして、13年来、開催を支えてきた。準備の課程では、常に国務院僑務弁公室が指導にあたり、中国の美食文化を紹介するために、中国厨芸団や淮揚料理美食団を派遣した。また、大阪総領事館の職員と家族は、毎年、手伝いに会場を訪れるだけでなく、前夜会、スタッフの激励にも訪れている。

「中秋明月祭大阪」が、毎年成功を収めているのは、多くのサポーターの協力があってのことである。社会環境が良い時も悪い時も、日和商事の黄耀東社長、四国華僑華人連合会の会長を務める、カセイグループの張嘉樹代表等の企業家および華僑同胞が全力で支えてきた。王天佐は、「中秋明月祭大阪」の十数年の歴史を振り返り、すべての中国同胞と日本の友人たちに心から感謝している。健全かつ堅固な組織体制、各部門の権限と責任の明確化、財務の透明性、事務局の厳格かつ迅速な行動によって、「中秋明月祭大阪」は数々の困難を克服し、輝かしい成果を残してきた。

取材中、王天佐は、大阪大学留学中に出会った雑誌『您好』に言及した。創刊したのは、八路軍に参加した経験をもつ日本人で、中国に対して特別な感情をもち、在日中国人留学生に、幾度も支援の手を差し伸べてくれたのだという。王天佐は創刊号に文章を寄せた。大阪教育大学大学院進学後も、就職後も、2人の交流はずっと続いている。中日民間交流の心温まるエピソードである。

王天佐は言う。「われわれ華僑の一人ひとりが民間の外交官であり、中国の顔です。世界に向けて、責任ある大国として、今日の中国を知らしめていくことが、われわれの責任なのです」。

取材後記

彼は、取材の最後に、今年の「中秋明月祭大阪」のアピールも忘れなかった。現在、中国の春節聯歓晩会の監督や多くの著名なアーティストによる、「中秋明月祭大阪2021」を鋭意制作中であり、インターネット配信によって世界にお披露目されるという。今再び、王天佐によって、中華文化の魅力が世界に発信される。記者は、定年後もなお一層意気軒高な王天佐と、両手でがっちりと握手を交わした。