張 述洲 神戸中華同文学校校長
中文教育で華僑子女を育成

時は流れ、歴史は変遷する。1899年5月、中国近代教育の先駆者・梁啓超の呼びかけで、祖国を愛する華僑同胞たちの寄付によって、神戸華僑同文学校が設立された。神戸中華同文学校の前身である。

今日、神戸中華同文学校は、9学年、19クラス、660名以上の生徒を擁する、関西地域有数の全日制の中華学校に発展し、これまで、多くの社会貢献の人材を輩出し、中日民間交流の架け橋を築いてきた。われわれは、神戸中華同文学校の張述洲校長を取材し、詳しくお話をうかがった。

オペラの王子は日本へ

天津歌劇団の大黒柱であり、天津芸術界の記録を打ち立てた『フィガロの結婚』中国語版を卒業作品とし、オペラ『夢的衣裳』では助監督兼主演男優を務めた。大学入試復活後、中央音楽学院オペラ学科の最初の卒業生となった張述洲には、眩いばかりのオーラと数多くの輝かしい実績がある。

誰が想像し得たであろうか。1989年1月31日、張述洲はそれまでの栄誉を捨て、天津から神戸へと渡った。当時、ポピュラー音楽の流行によって、オペラは徐々に市場を失い、天津歌劇団も経営難に陥った。張述洲は、挫折感を抱きながら舞台に別れを告げ、海外留学の道を選んだ。

音楽への思いを断ち切れなかった彼は、関西地域の先輩たちとつながりをもった。1999年、張文乃氏が理事長を務めるNPO法人国際音楽協会が、神戸で、第一回「中国音楽コンクール」を開催した。

その後、当コンクールは徐々に影響力を強め、中国の地でも開催されるようになった。2006年には、杭州師範大学音楽学院の協力を得て、第一回「中国音楽国際コンクール」が開催された。

経済的に豊かになった中国では、音楽のマーケットも勢いを増し、「中国音楽国際コンクール」は、日本の神戸と中国の杭州で交互に開催される重要な国際イベントになった。

張述洲は、審査員として多忙な日々を送る。中国では、わずか2、30年の間に、オペラの浮き沈みの運命は音楽の地位を向上させた。中国の発展と変化のスピードは、個人にチャンスをもたらし、業界に影響を与えた。

中文教育で中華民族のルーツを伝える

神户中華同文学校の生徒たちは、卒業旅行で中国を訪れ、自身のルーツを探る。日本で育った生徒たちに、ありのままの中国を感じ、中国の歴史に触れ、中華文明を直接目にしてもらいたいという、学校や張述洲ら教員の願いからである。

旅行を通して、生徒たちは中国語で人々と交流し、「値引き交渉」で、学んだことを応用する楽しさを体験し、大阪や神戸を遥かに凌ぐ、今日の中国の発展ぶりを目にして、中華民族としての誇りを強く感じるのである。

一般の中華学校と異なり、神戸中華同文学校は、日本の公立学校に準拠したカリキュラム以外に、語文(国語)とヒアリング・スピーキングの授業も行い、中国の地理・歴史、民俗文化、礼儀・文明等の知識も教えている。自然な形で、生徒たちに民族の誇りを伝え、帰属意識を養うためである。

歴史を教訓とし、伝統を継承し、時代と共に歩むことで、神戸中華同文学校は活力と影響力を保ち続けてきた。神戸中華同文学校は、張述洲の尽力の下、「創立110周年記念誌」および「創立120周年記念誌」を出版するとともに、これまで教え導いてくれた恩人たちの功績を称える「校史記念室」を設置した。「時代や環境が如何に変化しようとも、忘れてはならない精神があります」と張述洲は話す。

神戸中華同文学校は、これまでの輝かしい歴史に決してあぐらをかくことはない。張述洲は校長に就任すると、教材の専門化と教授法の専門化に取り組んだ。

卒業生のグラフィックデザイナーに依頼して、「算数」の教科書の表紙をカラフルなデザインにしてもらったり、国務院僑務弁公室の教材編纂担当者を招き、教員に対して三年間の研修を行うなど、生徒が自発的に学習に取り組めるように、興味深く現代的なカリキュラムの作成に努めている。

「思い切ってやってみる」。張述洲の教授法は独創的である。『二十四節気の歌』にインスピレーションを得て、生徒が覚えにくい地理の知識を、抑揚とリズムをつけて『学児歌・識地理』という歌にした。

中国の文化・伝統を守ることと、日本の学校教育と家庭教育を取り入れることは、決して矛盾しない。神戸中華同文学校では、長年、母と子が関係を深め、心を通わせていけるように、生徒は母親の手作りの弁当を持参する。「母と子は与え与えられて、心が通い合うものです。われわれが継承すべき伝統です」。張述洲はしみじみとこう語る。昨年からは、時代に即した新たな対応として、週3回、弁当を提供し、食券や学用品の自販機を設置した。

中文教育の重要性を認識し、子女を神戸中華同文学校に送り出す華人が増えている。中国経済の急速な発展により、子どもを同校に進学させる日本人もいる。こうした変化には、祖国の発展と中国が国際社会に与える影響力の大きさが反映されており、中文教育に携わる教員たちの感慨もひとしおである。

コロナ禍にあって、同校は、神戸市外に住む生徒のために、オンラインと対面式で授業を行うことを決めた。結果、驚いたことに、オンライン授業を選択したのは、小学部では、わずか13人、中学部には一人もいなかったのである。

淡路島に住む2人の日本人生徒は、毎日、高速バスで明石海峡を渡って登校する。彼らは、教員との触れ合いや、学校の雰囲気が好きなのだと話す。生徒が中国の文化に好感をもち、神戸中華同文学校を愛してくれていることが、張述洲や教員にとって、何よりの喜びである。

蒔かれた種が日本で実を結ぶ

張述洲はかつて、阪急電鉄で働く卒業生に偶然出会ったことがある。彼は、「中国語が話せるから」という理由で採用が決まったのだと誇らしげに話してくれたという。教育者として、26年間懸命に働いてきた張述洲は、中文教育の重要性を改めて感じた。

二十年前、神户中華同文学校に学ぶ小学六年生の女子児童が、学校の演芸会で国語劇を演じた。当時、教員であった張述洲は、天津歌劇団の時のような厳格なスタイルで、子ども達を指導した。彼の真剣な姿勢に心を打たれた女子児童は、演劇への夢を抱くようになり、後に歌劇の専門学校に進み、伝統あるOSK日本歌劇団に入団した。あの時の張述洲の指導があったからこそだと話す。教師の情熱と責任感が少女の心を動かし、歌劇の道へ進ませたのである。

いつの時代も、教育は時間と労力を費やす難事業である。異国で中文教育を行うとなると尚更であろう。神户中華同文学校は、国務院僑務弁公室、中国駐日本大使館、中国駐大阪総領事館、華人企業家、華僑同胞、および日本の友好人士の尽力と支援に支えられて今日がある。

28年前の運動会で、初めて生徒による舞龍の演技が披露された。彼らの手作りの龍は、龍というより蛇のようで、「金蛇狂舞」と言われた。この知らせを受けて、国務院僑務弁公室、中国駐大阪総領事館、中華全国台湾同胞連合会は、必要に応じて舞龍舞獅の応援に出向くようになった。

以前、神戸中華同文学校の小学部の教室には扇風機しか設置されておらず、関西の猛暑には持ちこたえられなかった。中国駐大阪総領事館が、その知らせを受けて、華僑同胞に呼びかけると、1週間も経たないうちに寄付が集まり、エアコンが設置され、問題は解決した。

最近世界を騒がせている台湾問題等に話題が及ぶと、張述洲は爽やかにこう語った。「わが校は、すでに祖国統一を実現しています!」。120年以上の歴史をもつ神戸中華同文学校では、台湾籍の教員、同窓生と、中国大陸の教員、同窓生が深い友情を結び、多くの家庭も築いている。

取材後記

張述洲は、本業を断念し、祖国を離れ日本に渡った。悔しい思いがあったに違いない。しかし、多くの神戸中華同文学校の卒業生や張述洲の教え子たちにとっては、計り知れない幸運であった。オペラの主演男優の道を断たれた彼は、中華学校の教師、校長に転身し、本当の「自分の仕事」と「自分の舞台」を見出した。