林 全南 愛媛華僑華人連合総会会長
日中の地方交流促進が使命

 

先日、愛媛県に取材に赴いた際は日帰りだったため、残念ながら当地の有名な華僑リーダーである林全南氏には会えなかったが、コロナ禍での取材方法の変化に伴い、遠く離れた距離でもオンラインによって素早く繋がるようになった。

2021年初夏、愛媛華僑華人連合総会の会長であり、株式会社ニュースタンダード代表取締役社長である林全南氏にオンラインでインタビューを行った。(聞き手は本誌編集長 蒋豊)

 

改革開放は個人と国家の運命を結び付けた

あの頃は大学卒業生が「天の寵児」、「国家の棟梁の材」とまで呼ばれていた時代。言ってしまえば、われわれの国家が動乱から抜け出し、極度に人材が不足していた時代であった。文化大革命収束後に復活した第3回国家統一の大学入試で入学した林全南は、北京語言学院(現在の北京語言大学)外国語学部日本語専攻を卒業し、誰もが羨望する職場である中国政府行政部門の交通部に配属された。

あの時代はまさに中国の改革開放が嵐のように巻き起こった時代であった。広東省、福建省は中国の改革開放の最前線基地であり、磁石のような吸引力を持っていた。この時、林全南は北京で官僚として出世する可能性を放棄し、広東省に「南下」を決意して、交通部直属の中国外輪代理総公司広東省汕頭分公司に職を就いた。2年後に「言うことを聞かない」林全南は、振興が待たれるアモイ経済特区へ転勤した。

アモイで約5年間、林全南は人並外れた実務能力を発揮した。上層部は彼に大きな期待を寄せ、彼を重点的に育成する狙いだった。しかし、彼は第一線から退いたのである。改革開放の最前線で高待遇を受けていた前途有望な青年幹部は職を離れた。周囲の人々は皆理解できず、結局、この青年は変人だと思ったのだった。

林全南は国際視野を持つ「世界人」になろうという志でまずオーストラリアへ語学留学に行き、続いて日本に赴いた。来日してから東京に集まる一般的な中国人とは異なり、1990年に日本企業に招聘され、四国の愛媛県に落ち着いた。その後、彼は水を得た魚のように懸命に仕事に励むと同時に、余暇を利用して日本での仕事、生活で見聞きしたこと、感じたこと、考えたことを文字にし、中国へと送り、新聞雑誌で発表し続けた。彼が文字を綴り続けた原動力は、多くの先進国の経験と現状を中国で紹介し、人々に「百聞は一見に如かず」の如く、自分が体験している実際の日本を知って欲しいという気持ちからだった。今もその気持ちで熱心に勉強し続け、筆で書き続けている……。

その当時、外国での奮闘を振り返り、林全南は「自分は祖国の改革開放の時代の寵児だと感じる。祖国の改革開放は国の運命を変え、私たちの運命をも変え、同時に一人一人の自身の運命と国家の運命とが固く結び付くことになった。われわれ海外の同胞は現在も依然として祖国の改革開放のインセンティブを享受している。」と、語っている。

 

世界を良くするために自身から始める

1995年末、数年間の奮闘を経て、日本社会の経験を積み上げた林全南は自身の会社である株式会社ニュースタンダードを立ち上げた。3年後、さらに株式会社林氏国際を設立し、日本を拠点に中国、オーストラリア、北米、ヨーロッパなどの多国間の貿易を展開し、会社の経営は順調である。「儒商(道徳的なビジネスマン)」と呼ばれる林全南は、仕事に追われる合間に文章を書いた。「夢の中をさまよう」という言葉がいつも彼の脳裏に浮かんでいた。

林全南は福建省安渓生まれである。安渓は有名な茶どころで、山水に恵まれた土地である。質の高い天然資源は諸刃の剣でもあり、急峻な山々によって外界との交流が阻まれていたため、貧困地域の一つでもあった。故郷から遠く離れた林全南は、特別に故郷や祖国を思い、積極的に美しい村の建設に参加し、故郷のために橋や道路を建設し、故郷の教育事業と高齢者福祉事業を支援してきた。

海外に身を置く林全南は、祖国の四川大地震、青海地震、甘粛震災、福建の水害、台湾の台風、雲南の干ばつ、東日本大震災、熊本地震、武漢のコロナ禍など世の中に自然災害が発生すると、積極的に行動し寄付をしている。昔から「魚を与えるのではなく、魚の取りかたを教える方がよい」と言われる。雲南で干ばつが発生したことを知ると、彼は何度も現地に寄付をして貯水システムを建設し、また野生のキノコなど現地の特産品を掘り起こし、加工して世界各地に輸出し、現地の人々の貧困からの脱出を助けたのである。

 

日中地方交流の促進を使命とする

2008年には北京五輪が開催された。民族の誇りが中国人一人一人の胸に強く湧き上がった。中国駐大阪総領事館の提案とサポートを受け、林全南は愛媛県華僑華人連合会を設立し、ここに生活している中国の出身者をまとめ、「郷に入れば郷に従え」を共有しながら四国の一隅に住む中国同胞がついに、自身の「家」を持ったのである。

林全南が初めて愛媛県に赴任した当時、県内には留学生と文化交流のための大学の教師を含めて、中国同胞は100人に満たなかったが、現在愛媛県の華僑華人は7000人近くの大家族となった。その道のりには、林全南と彼が率いるチームの絶え間ない率先垂範な貢献があった。

2010年10月、林全南が率いる愛媛県華僑華人連合会の努力と積極的な活動のもと、「愛媛県第一回中国祭り」が開催され、成功を収めた。現在、「中国祭り」(のちに1年に1度の「愛媛中国人国際交流大会」と改称)は、現地の華僑華人と日本人とがともに祝い、文化交流を行う催しとなった。2012年4月、日中国交正常化40周年を記念し、愛媛県華僑華人連合会は当時の駐日本中国大使であった程永華氏をはじめ地域の要人を招き、空前の規模の講演会を開催した。これは愛媛県をはじめとする四国地区で大きな反響を巻き起こし、「中国ブーム」が起き、その後愛媛県は遼寧省、陝西省と友好都市の関係も締結することになった。

ここまで話すと、林全南は、「中国祭り」(国際交流大会)は民間交流活動というだけでなく、さらに日中両国の地方経済と文化交流のプラットフォームと見なされていることを強調した。その後、李天然大阪総領事の提案とサポートのもとで、林全南は積極的に「対話湖北」、「対話遼寧」、「対話関西」、「対話福建」、「対話内モンゴル」など一連の官官主導、民間関与の日中経済文化交流イベントに積極的に関わった。現在、正に日中国交正常化50周年を迎えようとしている時、我々は更に積極的に日中両国の地方交流を促進すべきである。それによって日中両国の相互交流のレベルをより一層上げるだけでなく、日中両国民の相互理解の基礎をさらに固めることもできる。そのために林全南は日中地方交流の促進を自身の使命の一つとしているのだ。

2020年に新型コロナウィルス感染が拡大すると、林全南と愛媛華僑華人連合総会は即座に緊急支援物資を調達し愛媛県の関係部門へ送り、四国またその他の地域へも防疫のための物資を無料提供した。

 

コロナで真心を知り、領事館の後押しも

林全南の経営している企業の主力業務の一部は生鮮食品で、その基本は高品質の強みであり、最高級の生産品にある。コロナ禍の影響を受け、企業の業務も下振れ傾向にある。存亡の危機を聞きつけ、多くの提携先の企業がタイムリーに協力援助の手を差し伸べてくれた。みな、林全南と長年仕事をしており、彼の人柄を重く見ているという。

林全南は以下のように語った。「大阪総領事館の管轄区域である2府12県の中で、愛媛県は領事館から最も距離的に離れている。大阪から愛媛までは車で片道約5時間と遠いが、愛媛在住の華僑華人が受ける領事館の配慮、温かさは少しも遠くに感じることはない。イベント開催の際には、大阪総領事館の館員たちが苦労を厭わず指導しに来てくれ、愛媛華僑華人連合総会が困難に直面するといつも面倒を見てくれる。新型コロナウィルス感染対策では、大阪総領事館は終始タイムリーなサポートと指導をしてくれ、物資を送り、情報をシェアし、援助してくれました。」

 

取材後記

インタビューの最後に、林全南氏は「私が海外で頑張ってきた年月は、祖国が豊かになった年月だ。我々は祖国を誇りに思うと同時に日中友好の使者でもあると自覚している。」と話した。

「祖国が引き続き成長し、豊かになることを期待していると同時に、日中両国民が末永く平和且つ幸せであることを願っている。」という林全南氏は、コロナ禍で長い間故郷に帰っていない。近くて遠い故郷には年配の父親が息子の里帰りを待っている。林全南は二年近く会ってない親の傍にそして自分の生まれた故郷に今一度「帰りたい」、とつぶやいた……。