王 秀徳 源清田商事株式会社代表取締役社長
華商の絶え間ないイノベーションが新局面を開く

「安全と安心の源は、清らかな田畑から」。これが、日本人の食卓でお馴染みの食品ブランド「源清田」の社名の由来である。2021年の今年は、源清田の創業からは17年である。この17年で、日本の新華僑企業――源清田商事株式会社は、中央工場、多良貝物流センター、前林低温倉庫、九州倉庫、海外工場等の専門施設を擁する8大倉庫、工場に発展し、数十品目の農産物、食品の開発と生産を手掛ける、日本人の記憶に残る優れた有名ブランドに成長した。

初夏のある土曜日、われわれは車を駆って、千葉・九十九里浜近くの源清田商事の中央工場に向かった。そして、活力漲る工場内の「和敬清寂」の情緒豊かな茶庭で、源清田商事株式会社の王秀徳代表取締役社長にインタビューを行った。それは新境地を開く取材となった。

 

技術革新によって危機を克服

新型コロナウイルスとの闘いが始まって一年余り、われわれの話題は、自然と、コロナ禍が世界経済と国際貿易に与える影響へと移っていった。

王秀徳は言う。「危機=危険+機会であり、機会は準備を怠らない人に訪れるのです。それは、危機にあっても、強靭な意思をもち続け、転機を探りながら『三心』を保つ人です。『三心』とは、ぐらつかない心、人をいたわる心、平常心です。カーブで他の車を追い越すことができれば道は開けます。しかし、カーブが渋滞していたら、どうやって追い越せばよいでしょう? 企業家に求められるのは、三つの優れた能力です。即ち、独自の視点、鋭い嗅覚、迅速な行動です」。

危機は転機でもある。当然、転機だからといって、行動を起こさなければ何も変わらないし、経営者の思い通りにもならない。事前に予測を立て、技術力とイノベーションを維持していれば、危機に直面した時に、スピード感をもって困難を乗り越えることができる。

源清田商事を例に挙げよう。十年前、近代農業、食品の高付加価値加工と倉庫物流業は、企業を牽引する「トロイカ」であった。源清田商事は、源流から支流まで、農地から食卓までの完全なエコロジカルサプライチェーンを打ち立てたと言うことができる。

王秀徳が事前に配置した複数の倉庫は、自社製品の物流管理に使用するだけでなく、他社へのリースサービスにも活用することができ、閑散期か繁忙期かに左右されず、経済状況の影響も受けることなく、安定した収入を確保し、従業員の基本的な生活を保障することができた。

すでに万全の準備を整えていた王秀徳であったが、イノベーションの歩みを止めることはなかった。十年後、源清田はさらに、食品安全検査事業にも乗り出した。王秀徳は、中国と日本に、サードパーティーに食品安全検査を提供できる機関をつくり、源清田の従業員が自主経営できるよう、権限を委譲した。

かつて、渋沢栄一の「左手に『論語』、右手にそろばん」理論が、近代の日本経済に影響を与えた。当時は、富を蓄え基盤を整える近代文明発展の初期段階であった。新時代の在日華商にとって、勇敢さや忍耐や決意は、もはや商戦に勝ち残るための決め手とはならない。

王秀徳は「左手にそろばん、右手に『論語』」であるべきだと言う。「左手では、そろばんはうまくはじけませんから。中国はこれから、儒商の時代になります」。事業の発展の度合いに関係なく、余地を残し、他者と利益を分かち合い、市場全体の健全で秩序ある発展を支援することが、長く栄えていく道である。

危機に直面した時は、先ず減速し、焦らず内を固めることである。「外部環境に危機的状況が訪れる度、われわれは内部建設に取り組みました」。コロナ禍に見舞われてからの一年、王秀徳は従業員たちを従えて、千葉にガーデンスタイルの中央工場を建設した。古典的な中国スタイルあり、日本スタイルあり、モダンカジュアルスタイルありの庭園を有する工場である。

絶え間ない技術革新

業界内での価格競争ほど愚かなものはない。どの業界も、イノベーションを口にし、真にイノベーションに注力するのであれば、自己自身を見つめ、改善を繰り返し、イノベーションを成し遂げ、より優れた製品を世に出し、企業の生産力と先進性を維持すべきである。

「モノづくりの精神」は、もはや新しい概念ではないが、製品の研究開発と生産の過程で、それを貫き通すことは簡単なことではない。

源清田が半加工食品の開発に成功し、日本市場に展開すると、模倣する企業も現れ、源清田は自社の商品と技術を、一つひとつ特許申請した。特許を取得したのは、知的財産権と発案者の権益を保護するためであったが、源清田は一度として、訴訟を起こしたことはない。

王秀徳は、他社の模倣は、一種の広告宣伝だと考えている。訴訟に労力を費やすより、模倣して、源清田を宣伝してもらった方がよい。源清田は、人的資源と物的資源をすべて、商品と技術の向上に傾注し、常に業界の最前線を走ってきた。

黒にんにくと甘栗で日本市場を開拓し、現在では、数十品目の主力商品が日本人の冷蔵庫や食卓を占拠する源清田は、常に、商品開発を企業経営の主眼に置いてきた。

王秀徳は、ほどなくして、次々に現れる模倣品に悩まされるようになった。しかし、思考を「模倣品防止」から「絶え間ない革新」に転換し、一貫して食品加工技術の革新に取り組み、技術革新はすでに3段階目に至っている。市場に出回っている商品のほとんどは2段階でとどまっており、源清田の商品開発には、さらに拍車がかかる。

別の見方をすれば、進取の姿勢を貫いてきた源清田は、業界のリーダーに成長し、他社の模倣と改善を促すとともに、業界全体のレベルアップを喚起し、側面から業界のアップグレードを促進した。それは、源清田が創出した一つの社会貢献でもある。

一人ひとりが人間本位の職場づくりに参画

源清田の中央工場には様々なレジャー施設が完備されている。バーベキュー場、ゴルフ練習場、テニスコート、卓球場、トレーニングルーム、カラオケと、すべて揃っている。そこは、休日になると、子どもたちの楽園になる。従業員は勤務時間中、いつでも、必要に応じて、これらのレジャーエリアを使用することができる。

働き方改革が盛んに議論される昨今、源清田の働き方モデルは驚天動地であり、にわかには信じ難い。「優秀な従業員は、自己と仕事に責任をもっているので、決して怠けるようなことはありません。時間とともに好循環が形成され、従業員の素養が培われていきます」。王秀徳が長年の経験から導き出した結論である。

工場施設の建設に当たっては、巨額を投じ、人力と物資を結集し、庭園のスタイルから床面タイルの形状まで、従業員と共に話し合った。化粧室の内装が満足のいくものではなかったため、皆で話し合った末、取り壊して造り替えた。

細部にまでこだわった「モノづくりの精神」は、生産ラインだけでなく、職場環境にも反映されている。「一流の職場環境によって、人材は育ち、人材は職場に留まるのです」。

「源清田では、普段スーツを着ているマネージャーやシニアマネージャーも作業着に着替えて、労働者、農民、庭師、設計士と、何でもやります」。王秀徳は、誇らしげに語った。

調和と互恵が発展の原動力

王秀徳は、かつての出来事を感慨深く語ってくれた。日本の、あるスーパーマーケットの本部長は、常に色眼鏡で中国を見ていた。売り場に中国の商品を置くことは決してなく、華人企業や中国の要素を帯びたものは、頑なに拒んでいた。源清田は、繰り返し彼を視察に招いたところ、最終的に、30分だけならと応じてくれた。

結果、午後1時に始まった視察は、30分では物足りなくなり、終わったのは夕刻で、このスーパーマーケットの責任者は、源清田の工場に4時間滞在した。整然とした清潔な作業場、合理的で高効率な生産ラインを目にし、篤学で誠実な王秀徳に触れて、彼は中国に対する認識を一新したのだという。

記者は、源清田の中央工場の加工作業場で目にした光景を思い出した。床は、青、緑、オレンジで色分けされ、それぞれが一次洗浄、二次洗浄、無菌生産ラインの工程を表していた。床の色が異なるだけで、驚くほど清潔で整然としていた。工場の敷地を、庭園やレジャー施設にすることを神話と称さないとしても、精美な芸術品のような職場空間は、間違いなく企業管理の奇跡である。

 

「安全と安心の源は、清らかな田畑から」。源清田は、人と自然との融和を常に追求してきた。自然な温度と湿度、手作業による除草、機械による除虫、安全な施肥によって、「安心・安全」な有機食材はもたらされる。源清田は、人と自然の調和と互恵によって、優れた商品がもたらされ、企業は時代の最前線に立ち、長足の発展を遂げることができると確信してきた。

源清田は、周辺文化との融和、地域社会との融和も大事にしてきた。工場の敷地内のレジャー施設はすべて、無条件に無料で地域住民に開放している。次第に、近隣住民から評判が広まり、「中国人社長の工場は本当にきれいだ!」「清潔で整備され、近代的だ」と、工業団地内の日本企業は、中国および中国人に対する認識を一変させた。

海外華僑の一人ひとりが、中国の広告塔であり、すべての華僑企業は中華民族のバイタリティを体現している。さらに、中日民間交流の感動の物語はすべて、両国の外交を推進・強化するための礎である。

取材後記

源清田商事株式会社の王秀徳代表取締役社長とは、知り合って久しい。記者は、源清田の発展をずっと見守ってきたといってよい。源清田の製品の多くが、何年も連続してモンドセレクションの金賞を受賞している。源清田の食品は、日本人の食卓に記憶され、国内外の華僑同胞の誇りにもなっている。

王秀徳の謙虚で控えめな物腰は、長年変わることがない。黙々と故郷の学生に奨学金を贈り、同胞のために、橋を架け道路を敷設するなど、精一杯の資金援助を行ってきた。恩を忘れることなく、故郷に活水を注ぐ華人企業家がさらに多く現れることを願っている。