龍 潤生 WWB株式会社代表取締役会長
「3•11東日本大震災」から日本を救った「命の恩人」

2016年のある日のことである。小泉純一郎元首相が、在日新華僑であるWWB株式会社の龍潤生代表取締役会長を夕食に招いた。食事を終えて、龍潤生が支払いに立とうとすると、小泉元首相は彼を制止して言った。「私は日本の一政治家ですので、人を食事に招待することはほとんどありません。でも、今日は違います。今日はあなたに支払わせるわけにはいきません。あなたは日本人にとって命の恩人ですから」。

「命の恩人」。小泉元首相のこの言葉に龍潤生は感激した。この言葉は彼の過去を物語るものであった。龍潤生は語った。「当時、私は日本に留学に来て就職し20年になろうとしていました。それまでに多くの日本人に助けられてきました。ですから、私は当然のことをしたまでです。同時に、私は中国の三一重工の日本代理の法人の代表を務めていましたので、自分の会社と三一重工代理店としての行いであり、また中国がとるべき行動でもありました。ですから、『命の恩人』との評価は、同時に、三一重工と中国に対するものとも言えます」。

「3·11東日本大震災」発災10年を目前に、本誌は、WWB株式会社の龍潤生代表取締役会長を訪ね、当時の忘れられない物語をうかがった。


東京電力福島原発の事務室の壁に掛けられた「大キリン」での作業現場の写真

「命の恩人」の物語の背景

2011年3月11日、日本時間午後2時46分、三陸沖を震源とする、この千年来経験したことのないマグニチュード9.0の大地震が発生し、列島を震撼させた。当時、中国の三一重工の日本代理の法人の代表であった龍潤生は、同僚と共に東京の地下鉄に乗っていた。しばらくすると交通は遮断され、携帯電話の電波は届かなくなりナビゲーションも使えなくなった。彼らは漠然とした記憶を頼りに歩いて会社へ戻るしかなかった。オフィスのドアを押し開けて腕時計に目をやると、既に8時間近くが経過していた。テレビのスイッチを入れると、地震の後に起こった巨大な津波が、竜巻のように民家や工場や施設を吞み込んでいく見たこともない様な光景が次々と映し出され、衝撃と戦慄が走った。今日まで日本の各テレビ局は、津波のシーンを映さないという「業界ルール」を守っている。津波によって身内や家を失った被災者を刺激しないためである。

ほぼ同時に、地震と津波の影響によって、福島第一、第二原子力発電所に放射能漏れの危険性があることをメディアが報じた。1945年の敗戦前、アメリカが落とした二つの原子爆弾に苦しめられてきた日本人は、「核」という言葉には特に敏感で、忌み嫌う。この情報はあっという間に巷に広まり、放射能漏れの危険から逃れるため、一部の日本の大財閥のトップは香港やシンガポールに逃避し、本社を海外に移す準備を始めた大企業もあった。アメリカの空母艦隊は被爆を恐れ、日本の被災地の救助活動を取り止めた。

メディアから次々に伝えられる報道を、日本の全国民が固唾をのんで見つめ、日本列島は前例のない恐怖とパニックに陥った。

龍潤生は中国・三一重工の日本代理の法人の代表として、この「地震後の核危機」を、より専門的見地から見つめていた。彼らは三人で監視チームを結成し、毎日昼夜を分かたず福島原発の動向を把握した。そして、大地震による強烈な津波は福島原発に甚大なダメージを与え、原子炉の冷却装置が正常に作動していないことに素早く気付いたのである。早急に冷やさなければ、核燃料が燃焼を続けることによって生まれた巨大なエネルギーが甚大な被害をもたらすことになる。彼らはテレビで、政府が消防車を使って放水しているのを見て、高さが充分でないと感じ、ヘリコプターで散水しているのを見て、全く効果が得られていないと感じた。今、最も必要とされているのはコンクリートポンプ車だ! コンクリートポンプ車で高い位置から放水して、損傷した原子炉をとにかく冷やさなければ!

日本のコンクリートポンプ車市場を熟知していた龍潤生は、当時、日本国内にはドイツ製の「大象」と呼ばれる、54mのアームを持つポンプ車が一台しかないことを知っていた。しかし、このポンプ車では長さが全く足りず、福島原発4号機の危機を解決することは不可能に思えた。福島原発を主管する東京電力に、もう残された時間はない!

この時、龍潤生と三一重工のチームは、ドイツに輸出されることになっている、中国の三一重工が設計・製造した62mのアームを持つポンプ車が上海港にあることに思い至った。このポンプ車は、元々建築物の最上部を完成させる際にコンクリートを流し込むためのものであるが、アームの長さは正に福島原発4号機の現場の厳しい条件を満たしていた。これを使って放水、冷却すれば焦眉の急をしのぐことができると思った。

東京電力にその旨を伝えると、彼らは切羽詰まった様子で言った。「そのポンプ車をわれわれに売ってください!どんなに高くても構いません。今すぐ必要なんです!」。三一重工の在日担当がそれを電話で本社に報告すると、梁稳根董事長からはこんな返答があった。「売らないで! 売らないで! 一流の社会貢献をすることが、わが社の経営理念の一つだ。日本は一衣帯水の隣国だ。今こそ支援の手を差し伸べたい。そのポンプ車は日本の被災地に贈ろう!」。

緻密かつ専門的な観察によって、日本の大地震発生後の「核危機」の急所を押さえ、日本を危機から救い、自らの商業利益を放棄するという重大な決断によって、日本列島の上空を覆っていた暗雲は振り払われた。三一重工の前線は、このポンプ車を発注したドイツの顧客と掛け合い、ポンプ車を直ちに「蘇州号」に載せ替えた。日本に精通した龍潤生と三一重工のチームは、日本の行政官僚の障壁を巧みにかわし、ポンプ車が日本赤十字社に渡るよう手配した。


「大キリン」での作業現場の写真(東京電力がWWBに提供)

中国・三一重工の巨大なポンプ車が大阪港に到着すると、日本側は龍潤生と三一重工のチームと協力し、関連する全てのプロセスで連係し、通関、消防、警備、交通管理等の関係各所で便宜を図った。ポンプ車を大阪から東京に輸送する際には、警察が前後で護衛し、運行が妨げられないように先導した。当時、その光景を目にした人々は、それが日本を救うために中国からやって来たポンプ車であることは知る由もなかった。

三一重工のポンプ車は、被災地に向かう途中、千葉県に二日間滞留した。この二日間は、随行してきた三一重工のエンジニアが東京電力のスタッフを訓練する時間に充てられた。先だって、ヘリコプターで上空から散水した際には、パイロットの被爆と突然の爆発事故を懸念して、低空飛行することができず、小雨が斜めに降り注ぐような形になり、全く効果が得られなかった。また、アームの長さが足りない上に、ドライバーが搭乗して操作をしなければならないポンプ車も数台見つかったが、命の危険を冒してまで乗ろうとする者はいなかった。三一重工のポンプ車は遠隔操作様式であったため、オペレーターをトレーニングする必要があったのである。

二日後、ポンプ車は福島原発の被災現場に到着した。62mのアームが天空に向かってゆっくりと伸ばされ、号令一下、オペレーターの操作によって、待ちに待った冷却水が土砂降りの雨のように降り注いだ。中国・三一重工のポンプ車は疲れを知らない労働者の如く、毎日24時間、トン単位の水を噴射し続けた。

今日まで、東京電力はこのポンプ車が稼働した日数や時間、使用した水の量を公開していない。龍潤生は言う。「日本の立場を尊重し、私もそれは伏せておきましょう。ただお伝えできることは、原子炉の温度が下がった瞬間、被災地の現場も東京電力も、首相官邸の対策本部も喜びに沸きました」。

当時、民主党政権の重要人物が龍潤生と会った際、秘かにおしえてくれたことがある。中国のポンプ車が到着する前、日本は巨額の資金を用意し、手厚い報酬があれば手を挙げる勇者も現れるだろうと、60名の決死隊の闘志を募集しようとしていた。ところがそれはうまくいかなかった。やむを得ず日本政府は、自衛隊から20人、警察から20人、専門知識を有する消防士から20人を出すよう通達した。ところが、当時の菅直人首相がこの震災を「想定外」と称したように、決死隊の60人を募ったところで、根本的な問題は解決できないということは誰もが理解していた。核の殺傷力はあまりに強大で、原子炉に近づくことなどできない。なしのつぶてであることは誰の目にも明らかだった。死を覚悟した数名のスタッフが遺書をしたためていたことも「想定外」の出来事であった。

この危機を乗り越えるのに、多少の損失はやむを得なかった。福島原発でポンプ車が必要とされていることを知って、東京電力には企業や仲介業者が多く訪れた。ある者は、5000万円で買った二本のアームを持つポンプ車を2億円で転売し、ある仲介業者は、この機に乗じて3倍、5倍の利益を得たが、結局効果は得られなかった。民主党政権のある大臣はユーモアを込めて言った。「ドイツ製のポンプ車は『エレファント』と呼ばれているそうですから、中国のポンプ車にも名前を付けましょう。『大キリン』でどうでしょう」。

ここで、どうしても触れておきたいことがある。長い間、コンクリートポンプ車は、設計においても製造においてもドイツ製が世界をリードしていた。「エレファント」がその代表である。「エレファント」を製造していたドイツ企業は、既に中国の三一重工に買収されている。10年前、三一重工は62mのアームを持つポンプ車を製造していたのであるが、今では101mのポンプ車の製造が可能になっている。

間もなく、2011年の「3·11東日本大震災」から10年を迎える。「大キリン」は今も福島原発の被災現場にそびえ立ち、地域の平安を守り、最後の解決策を模索している。そこを通り過ぎる人々はこう話す。「見てごらん。あれがあの時、中国から贈られた『大キリン』だよ」と。あれから十年、龍潤生の会社は今も「大キリン」の修理とメンテナンスを無償で行っている。彼は、条件が許す限り、良いと思うことは最後までやリ抜くのだと言う。


千葉県で行われた「大キリン」の訓練

異例の留学生生活

ここまで、中国の「大キリン」の物語を語ってきたが、われわれは、その陰の立役者であった龍潤生の存在を忘れてはならない。

1993年、龍潤生は日本に留学し、中部地方の中核都市にある名古屋市立大学の経営学部に学んだ。名古屋と言えば、「戦国三英傑」の一人である徳川家康を思い浮かべる人もいれば、世界トップの自動車メーカーであるトヨタを思い浮かべる人もいるだろう。ところが、龍潤生は、この地を「ピンポン外交」発祥の地として見ていた。彼は「小さなピンポン玉が世界を動かす」という壮大な戦略的外交思考に大きな刺激を受け、中国留学生として得たものは大きかったと言う。

龍潤生は、名古屋市立大学を卒業すると日本企業に就職した。日本には「石の上にも三年」という諺があり、中国では「学問する者は十年辛抱せよ」と言う。辛抱すれば必ず成功するとの教えである。ところが、龍潤生はそうはしなかった。そこでは三年しか働かないと公言した。彼には他に明確な目標があった。

龍潤生には、来日して初めて中国に帰国した際に上海に降り立った時の忘れられない光景があった。その夜、彼は外灘の高層ホテルのバルコニーに立ち、勢いよく発展し、色とりどりに輝く黄浦江の対岸の浦東新区を窓越しに眺めていた。眼下に目をやると、まばゆいばかりの車の流れと、「三菱」、「東芝」、「松下」の巨大な看板が目に映った。それらは全て日本の有名メーカーで、改革開放後に入って来たことも知っていた。企業名は、そこで生産される全ての商品を包括し、それらの企業群がその国の企業イメージとなる。龍潤生は、中国企業の看板が東京の大都会の街角で見られるようになるのはいつだろうと思いを巡らせた。

龍潤生が待ち望んだその日は間もなくやってきた。彼は東京・銀座四丁目の繁華街の高層ビルに、中国の「ハイアール」の看板を見つけた瞬間、目は潤みぼんやりとしか見えなかった。看板の下で立ち止まり、しばらく見上げていた。街中を行ったり来たりしながら、異なる角度から看板を眺めると胸は高鳴り、中国企業の立派な看板が増えていくことを願った。

龍潤生は自身の人生設計に従い、3年後に辞職し、日本の私立大学の両雄の一つである早稲田大学の経営学修士課程に学んだ。この頃の龍潤生は、少しばかり社会経験も積み、手にした学びの時間を無為に過ごすことはなかった。ある時はキャンパス内を散策し、中国共産党員の先駆者である李大釗がかつて学んだ政治経済学部の学部棟に立ち寄り、またある時は、図書館で中国共産党の創設者である陳独秀と早稲田大学の歴史を学んだ。日本で真理を探求したこれらの近代中国の志士たちの精神と勇気は、龍潤生の探求心を高め、心の扉を大きく開かせた。

名古屋市立大学で机上の学問を学び、日本企業で3年の経験を積み、再びキャンパスに戻ってきた龍潤生は、「学んだことを生かす」ことをより重視した。元々、機械系エンジニアを目指していた龍潤生であったが、視野を広げ、日本の建設機械レンタル市場に関心を持つようになった。

龍潤生は特に、日本の「オリエント・リース」の創業者で、現在、金融サービス大手のオリックスでシニア・チェアマンを務める宮内義彦氏の創業の歴史に注目し、氏を「心の師」と仰ぐ。かくして彼は、大学で学びながら日本企業数十社のトップを訪ね、机上での知識と第一線の知識、理論上の知識と実践の知識を融合させ、リース市場をテーマにした学術論文を書き上げ、早稲田大学で修士号を取得した。リース会社数社からは、この論文を高額で買いたいとの申し出もあった。龍潤生はまた、在学中に創業の準備をし、人脈を築いていった。

現代の中国人留学生の歴史に、龍潤生の成長の記録が記されることはないかもしれない。しかし、彼の経歴は、未来の中国人留学生に新たな道を切り開いた。

学びと就業経験の蓄積によって、2011年の「3·11東日本大震災」発災後、福島原発が放射能漏れの危機にあった時、龍潤生は市場の情報を正確に把握し、当時、日本には54mのアームポンプ車が一台しかないことを正確に言い当てることができたのである。この正確な情報が、日本を、人類史上稀な地震・津波・放射能漏れという「複合的危機」から救ったのである。


2020年2月初旬、中国大使館、中国駐札幌総領事館および中国の武漢、珠海、江西、上海にマスク、
消毒液、防護服等を寄贈

中日エネルギー交流の新たなモデルを確立

2011年の「3·11東日本大震災」は、龍潤生にとって一過性の出来事ではなく、彼の終生の事業を決定づける出来事となった。

世間では原発に関して様々に議論されているが、論調は収れんされている。つまり、100%原発に依存することはできず、安全でクリーンな再生可能エネルギーの開発が必要であるということである。

龍潤生は二つのことに注目していると言う。一つは、中国のリーダーが提唱した「緑の山河は金山・銀山に他ならない」とする「両山理論」であり、開発の視線が、未来の人類の生産と発展に向けられている。もう一つは、原発推進派であった小泉純一郎元首相が、天然資源の有効活用を訴えていることである。政治リーダーたちの認識は明らかに世界の共通認識となり、「人類運命共同体」の理論的基盤ともなっている。

龍潤生は「CO2削減、地球温暖化を食い止めないと地球が人類によって破滅する」と認識し、転身してWWB株式会社を設立し、太陽光エネルギーに代表される新エネルギーの開発に注力した。感動的だったのは、自身が開発に係わった農業・太陽光相互補完発電プロジェクトの定礎式のテープカットに、小泉純一郎、細川護熙、菅直人の三人の異なる政党の元首相が揃って祝福に訪れたことである。小泉元首相は、三名の元首相が揃って民間企業の定礎式に参列するのは、日本史上初めての出来事だと語った。

事業を遂行する上で、龍潤生が特に注意を払っているのは、環境保全と地域住民の利益を守ることである。彼は言う。「環境保護事業に携わりながら、一方で現地の自然環境を破壊しているケースが多くあります。さらには、従来通りの買収、合併であると言いながら、地域住民を追いやっているケースもあります。開発に当たって、われわれは最大限に荒廃した土地を活用し、その土地を緑化しながらエネルギーを生み出しています。そうすることで、土地資源の利用価値を高めることができます。さらに大事なのは、地域住民に対して、『畏敬の念』と『尊敬の念』をもつことです。さらには、彼らが提示する要求と対立するようなことがあってはなりません。彼らは代々に渡ってその土地に住んできたのですから。自分たちは『救世主』だというような顔をして、彼らを敵と見るようなことがあってもなりません。将来的にどのような恩恵が受けられるのか、子や孫の代までどのように継承し、生活し、発展させていくのかを共に考えるべきです」。

人々に利益をもたらすという明確なビジョンの下、彼らの太陽光発電プロジェクトの多くは、農地に太陽光発電システムを設置して発電を行いながら、農作物も作れるという形をとっている。農家は農作物による収入に加えて太陽光発電による収入も得ることができるのである。過去の「土地収用難」は解消し、代わって現れたのは「農民による企業誘致」であった。

さらに興味深い話がある。日本のある右翼メディアが、中国系民間企業が再び土地買収を進めていると報道すると、現地の農家から「あなた達はわれわれの収入が増えるのを邪魔するつもりですか?」と苦情が相次いだという。

龍潤生は、同社が開発した太陽光発電システムの発電量を、2030年までに1000メガワットにしたいと夢を語る。これは原発一基分の発電量に相当する。

彼の事業展開は日本に止まらない。現在、WWB株式会社は世界十数か国に支社や工場を設立し、太陽光発電装置の生産、スマートグリッドの開発を行い、太陽光などのグリーンな再生可能エネルギーで発電した電気を蓄電し、世界の人々、特に発展途上国の人々も利用できるようになった。

「太陽光で貧困国の子供も毎日照明の下で勉強が出来て、電気で汲み上げたきれいな水を飲める。」「また、現在人類のほとんどの戦争や戦いはエネルギー資源や食料の争いによるものであり、ソーラー農業シェアリングでエネルギー問題も食糧問題も同時に解決することによって、戦争も戦いもなくなるのを期待出来る」とも彼が語った。

ここまで話すと、龍潤生は少し興奮気味に語った。「『人類運命共同体』の構築は壮大な目標です。その大目標の下にサブ目標を立てる必要があります。新型コロナウイルス感染拡大以降、世界全体が『生命健康安全共同体』構築の重要性を感じています。『3·11東日本大震災』から10年となる今、われわれは改めて『再生可能エネルギー開発共同体』構築の重要性を感じています。これらは、戦略的関連性を有する戦略的利益であり、戦略的利益が一つになった時、この世界は間違いなく変わるでしょう」。


梶山弘志現経済産業大臣(右)に「大キリン」の模型を贈る。
中央はWWB株式会社顧問で元農林水産大臣の岩永峯一氏

取材後記

実のところ、龍潤生氏とは知り合って十年になる。氏の仲介で、後に「大キリン」と名付けられた中国・三一重工のポンプ車が日本の被災地に贈られた際に取材させていただいた。当時の程永華駐日大使は、氏によって中日の「地震外交」が切り開かれたと称えた。今日、氏は華やかに転身して新産業を創出し、中国と諸外国の経済協力の新たな道を切り開いた。

社会が混乱しているときにこそ、本物の英雄は現れる。