黄 斯偉 東山商事株式会社代表取締役社長
日本の老舗企業に中国人消費者の売れ筋を指南する90後の新華僑

初冬の午後、本誌編集部で、せわしなくスーツケースを引いてやって来た黄斯偉青年と会った。スーツケースの中には、東山商事株式会社のグループ企業が日本各地の老舗加工食品メーカーと共同開発した食品、調味料、各種アルコール製品が詰め込まれていた。コロナ禍が続く中、彼はいつも通り新幹線で大阪から東京にやって来た。90後(1990年代生まれ)の新華僑企業家の真剣な仕事ぶり、事業に対する熱意、商品に対する自信に深い感銘を受けた。


撮影/本誌記者 呂鵬

創業当時の挫折

「私の片言の標準語を聞けば、すぐに広東人だと分かりますよね」。黄斯偉は自嘲的にそう言って、初対面の距離感を打ち破った。

日本との縁に話が及ぶと、彼は冗談めかして、「日本語が一番金儲けになるという記事をたまたま目にして、日本語を勉強しようと思ったんです」と語るのであった。当時、中日関係が長い氷河期にあったことは、全く意に介していない。90後の鼻っ柱の強さとフロンティアスピリットを表しているのかもしれない。

広東外語外貿大学南国商学院に在学中の2012年3月末、黄斯偉は北海道文教大学に留学する機会を得た。経済的に恵まれた家庭に育った彼は、留学生活を満喫し、帰国後は両親の期待通りの安定した職業に就くこともできたであろう。ところが、彼は躊躇することなく、アルバイトをしながら、日本社会と人々の生活を学ぶ中で商機を探った。

生まれたばかりの子牛は虎をも畏れない。最初に手掛けたのは、生鮮品の輸出入を試行するビジネスだった。当時、北海道の特産品であるタラバガニが中国で消費されるようになり、深圳の大手海鮮料理店がタラバガニを必要としていると知ると、黄斯偉は大胆にも両親が用意してくれた学費を「流用」し、15匹のタラバガニを24万円で仕入れ、運送会社を介して深圳に発送した。

生鮮品の特殊性を考慮して、黄斯偉は先輩を訪ね、資料にも目を通して、万全の準備をした。ところが折悪く、2011年の東日本大震災の福島原発事故により、日本からの海鮮品には、通常の輸出検査の他に放射性物質検査が課され、数日で深圳に届くはずだった貨物は、様々な書類に阻まれ、到着までに半月を要してしまい、タラバガニは壊滅状態となり、元手は無に帰してしまった。

社会に出たばかりで経験も少なく、彼の初めての商売は失敗に終わった。大抵の人はそこで諦めるであろうが、彼は全く怯まなかった。この経験を教訓として、生鮮品の輸出入は当時の自身の資金力とチャネルでは不可能であることに気付き、包装済み食品に方針転換した。2013年以降、中国人の生活が豊かになると、食事の選択肢も増え、日本食が持てはやされるようになり、家庭における日本料理や日本の食品の需要は急激に高まった。日本産の調味料は口当たりが良く料理も簡単で、生鮮食品よりも貯蔵期間が長く、輸送条件もさほど厳しくなかった。このニッチ市場での方向性を探っていた黄斯偉は、この道で次第に活路を開いていった。

日本の商文化を尊重し、地方の魅力を発掘する

2014年、留学を終えて広州に戻った黄斯偉は、じっとしていられず、両親に薦められた仕事も断り、日本での経験を活かし、広州で再び商売を始めた。

小さな事業であったが、他人に拘束されることのやるせなさも学んだ。高品質低価格で中国の消費者に人気のある商品の多くは、輸出国の売り手によって管理されており、市場にタイムリーに提供することができなかった。黄斯偉は根本から問題を解決し、市場を主導し、サプライチェーン全体を手中にしようと決めた。日本に戻りたいという気持ちは日増しに強まった。しかし、一人の力では生き残れないということも深く理解していた。日本人の民族文化として、集団意識を大事にし、同じ組織に属さない部外者は日本社会のどの組織にも溶け込むことは難しい。外国人は尚更である。

広州での二年間、彼は研究と準備に余念がなかった。2016年に再来日した際には、前回の教訓を十分に活かし、基本的なビジネスマナーから始め、大手のメーカーや販売業者を全て訪問し、業界のことを謙虚に学んだ。一年のうちに全てが軌道に乗った。

玄人は仕事の勘所を見、素人はうわべの派手なところに気を取られる。黄斯偉は基本に忠実に一つひとつの仕事に取り組み、終に、業界のベテランたちに「彼は我々の仲間だ!」と認めさせたのである。そして、彼らは、この一生懸命な中国の若者と取引することを承諾したのである。

一部の同業者は、商品の価格にのみ気を取られ、コストを下げるために、長年仕事を共にしてきたメーカーやサプライヤーとの取引を躊躇なく中止したが、黄斯偉はそれには納得がいかなかった。日本人と商売をする時は、日本のルールと道徳を尊重すべきである。徹頭徹尾、信義を守る黄斯偉は、益々多くの地方のメーカーから認められるようになった。

受託販売者のためのプラットフォームを構築し好循環の生態圏を確立

現時点で、東山商事はキッコーマン、キューピー、伊藤園、味の素をはじめとする日本の著名なメーカー数十社と安定した協力関係を築いており、取り扱う商品は、普通前処理食品及び調味料が1000品目以上、固形粉末飲料が300品目以上、酒類及び日用雑貨が100品目以上、更に自社ブランド「久意」の商品が20品目ある。

東山商事は既に多くの優れた経営リソースを有しているが、「己の欲せざる所は人に施す事なかれ」を貫く。かつてサプライヤーに苦しめられた苦い経験をもつ黄斯偉は、中国国内の受託販売者と提携する際、相手の権益を守ることに注意を払い、彼らの販売と発展を支援し、指導している。彼は、手を取り合って共に発展、成長することによってのみ、健全で補完的で双方に利益のある産業生態圏を形成できると信じている。

創業からわずか四年であるが、大阪本社と広州支社を結ぶ強いチャネルを活かして、一方で日本の伝統技巧を触発し、日本の地方企業を発掘保護し、一方で国内の販売受託者をリードし、安全安心の価格と、供給のクローズドループを形成し、双方の利益の最大化を実現している。東山商事は既に、輸出、輸入、通関業務、倉庫保管、物流等の多機能一体型の産業チェーンを構築している。

日本の地方文化を守り、中国市場の振興に努める

インタビューが終わりに近付くと、黄斯偉は切迫した心情そのままに、伝えて欲しいことがあると繰り返し記者に懇願した。彼が懇意にしている日本の伝統的企業に、少し思考を変えてもらいたいと言うのである。彼曰く、中国市場の最大の特殊性は消費者であり、中国のインターネット産業が世界をリードしているのは、eコマースによるところが大きい。日本人がよく利用する楽天市場やアマゾンと、中国のタオバオモールや京東商場を比較すればすぐ分かることであるが、日本のネット通販のページは少し面白味に欠け、商品の情報も単一的である。ところが、中国のものは、商品を詳しく紹介するページ、実物の写真、ビデオ、購入後の消費者の体験写真やビデオ、オンラインでのカスタマーサービス等の多くのサービスがあり、タイムリーな反応とユーザーの目線に合わせたサービスが可能である。こういった体験は日本のeコマースではできない。中国の消費者に認めてもらいたいのであれば、先ず、eコマース産業と、濃いショッピング体験は既に中国人消費者の心に浸透していることを認識し、中国市場と中国の消費者が望む商品を販売することである。

黄斯偉は地方の伝統的企業の職人たちが、自分たちの商品にどれほどの心血を注いでいるかを知っている。彼らが次第に疲弊していくのを見ているのは忍びないが、ブランドやビジネスモデルが永存しないことも知っている。新ブランドの「久意」には二つの意義があるのだと言う。一つ目は当然のことながら、事業が「久しく」続くように。二つ目は、自らを鼓舞するためである。この数年間、彼は数十年乃至百年以上の歴史をもつ老舗企業が、モデルチェンジすべき時にチャンスを逃し、産業構造が大きく変化する中で、音を立てて崩れていくのを目にしてきた。彼は、「久意」によって絶えず自身を成長させ、時代の変化と発展に適応していきたいと願っている。

コロナ禍で舵を切り、IP(知財)を発掘して再出発を果たす

2020年の新型コロナウイルスの感染拡大は、国際物流と人の流れを大きく阻害し、特に国際物流に大きな打撃を与えた。早期に手を打ち、強力な物流網を構築したが、東山商事もその影響を免れることはできなかった。黄斯偉は、その責任を一手に引き受ける。「コロナ禍に対する予測が不十分でした。国の内部循環政策の影響を軽視していました」。

2020年の下半期、日本の原材料を中国に持ち込めない状況が続く中、東山商事は思い切って内部循環の流れに参入した。浙江省の生産ラインと中国の有名なアニメ配信会社である漫聯集団が提携して、中国産の日本調味料を開発生産したのである。生産ラインは中国国内であったが、日本企業の味と品質を復元し、黄斯偉は市場の一応の反応に自信を抱いた。

取材後記

初めての商売で大失敗したことも、コロナ禍の襲来に不意を衝かれたことも、黄斯偉は何事もなかったかのように話す。彼の率直さと楽観主義、自信と朗らかさに、90後の新華僑企業家の、他とは異なる人間的魅力を感じる。彼はまだまだ若い。未来には無限の光彩が待ち受けている。