古月 海光 中国景田百歳山公司日本支社顧問
「中国製造」で世界をさらに幸福にすることを決意して

現在の安定した生活を望む人もいる。古きを打ち破らなければ新しきを打ち立てられないと強く信じる人もいる。新型コロナウイルスの感染拡大が収まらないなか、経済が再建されつつある今、先に海に漕ぎ出した水先案内人もいる。

頑健な体格に鋭い眼光、この目の前にいる不惑の年をすぎたプロの経営者、古月海光は3回企業の成功に携わった。まさにゼロからスタートして成功を収め、またゼロに戻った彼の人生の歩み、経営のコツは多くの伝説に彩られている。取材する中で彼は、「われわれの努力によって『中国製造』で世界をさらに幸福にすることを心から願っている」と語った。

 

自分との競争

不可能を可能にする

上海の黄浦江は東へと蕩々と流れる。軍人の家庭に育った彼は、小学校5年生から陸上競技を始め、堅忍不抜、負けず嫌いの精神が書き込まれたDNAによって、優秀なスポーツの成績を収めたため、小学校、中学校、高校と上海市の重点学校に推薦入学することができた。

しかし、トレーニングと試合があったため、たくさんの宿題を出されても、勉強の時間が足りず、学業においては万年ビリという状態だった。もし、意中の彼女から「大学に合格しなければ付き合わない」と言われなければ、彼の人生は全く違ったものになっていただろう。

エネルギーは心の底から、そして自身の身体から湧き出てくるものだ。なぜ勉強するかが明確になり、目標ができたら、後は足を動かして前進することだけだった。

両親に心配をかけないよう、彼は両親が寝た後ひそかに起き出して勉強した。アスリートであったゆえに、頑健な体質は、発奮して成績を上げて行く体力を与えてくれた。

短期間で迅速に成績を上げるため、彼は「睡眠学習法」を自分で編み出した。高校3年生の受験生のとき、彼は睡眠を静坐で代替させる効率の良い睡眠法によって数時間の勉強時間を作ることができた。

大学入試で全力を尽くした後、疲れた彼は3日間眠り続けた。ある日、彼の父は「合格通知書」を受け取った際、「いいニュースと悪いニュースがある」と言った。いいニュースとは、名門の復旦大学に合格したことで、悪いニュースとは、彼が合格したのは中国が誇る大数学者蘇歩青を輩出した、世界に名高い数学部であったことだった。

一般的には、非常に難しい、「致命的な専攻」と言われ、卒業できない学生も多かったのである。しかし、彼は無事に卒業しただけでなく、一流銀行に就職し、当時から勢いが出つつあったアルゴリズム研究とシステム開発に従事した。

中国の銀行で数年間働いていた頃、彼は自身の視野と知識が狭いことを感じ、先進国に行ってさらに学びたいという思いが芽生えてきた。そこで、多くの人が羨望する高収入の安定した職を捨て、人生をリセットして、日本の古都京都へと向かったのである。

静かだが狭さを感じさせる京都では、上海の水で育った若者に、「なぜここに来たのか、自分の目標を忘れるな」という思いを抱かせた。周りの留学生たちが必死でアルバイトをしてお金を稼いでいるとき、彼は「アルバイトは自分のためにする」というルールを決めた。そして、節約のため、郊外の山中に家を探して住んだ。

持ってきた5000元の人民元が3カ月後に尽きた時、日本語専攻の優等生だった妻は皿洗いのアルバイトをして生活費を稼いだ。京都の冬は湿っぽくとても寒い。ある吹雪の夜、アルバイト初日の妻の帰りが夜遅くなり、彼は心配でいても立ってもいられず、何度も山を降りたり登ったりして迎えに行ったが、誰にも出会わなかった。

そうこうするうちに、不安でいっぱいになった彼がようやく目にしたのは、玄関のドアから入ってきた「雪だるま」だった。雪だるまは口を開き、「あなた、お給料をもらったわよ。もう大丈夫よ」と言った。この吹雪の夜の雪だるまを見て涙が止まらなかった。

また、彼は最短期間で日本語をマスターすると決心した。来日の際に、平仮名すら覚えられなかったが、必死な猛勉強で半年後日本語の初級クラスから上級クラスへと飛び級し、1年後には念願通り日本語能力検定1級を取得した。

 
写真/本誌記者 王亜囡

自分を超える

目標はずっと未来に

京都大学大学院を順調に修了した後、古月海光は東京に本社を置く大企業に就職した。日本社会を深く知っていく過程で、彼は日本のビジネスモデルの長所と短所を詳細に理解し、祖国でのビジネス交流と市場開拓のため、日本と中国を頻繁に行き来するなか、「中国製造」と「中国創造」の盛んなエネルギーに感化されていった。

しかし、「中国製造」の強みが、日本の買い手市場にスムーズに伝わっていないことに気づいた。日本市場の消費者ニーズは、中国のメーカーにフィードバックされにくい。そこで、彼は中日間の架け橋としての役割を積極的に引き受けた。

まず彼は、日本に進出したい中国企業の某社に参画し、中国の技術と「中国製造」を日本に導入することに成功した。それは、沖縄市内の750教室への教育関連のマルチメディアシステム導入であり、まさに、在日中国人ビジネスマンが日本社会に深く入り込むことができたのだった。

日本は依然として安定した伝統的な供給関係を維持しており、外国人、つまり部外者は必要ないと日本のビジネスパーソンが考えていたため、すでに発展し成熟した業界に参入することは非常に難しいということがわかった。

この数年間の経験について彼は、「全ての『中国製造』が日本に参入できるのではない。だから、われわれは品質を重視し、責任感が強い中国企業しか協力しなかった」とはっきり話す。

以前、彼は「中国製造」の不合格品を見た日本の小売業者に、「案の定だ、中国人の作ったものに期待しちゃダメなんだ」と大声で言われた。自分が横っ面を張られたような気持ちになった辛い経験を、万感を込めて語ってくれた。

苦労をものともせずに祖国の大地を飛び回ってぴったりの生産ラインを探し求め、なおも彼が選んだメーカーに様々な建設的提案と改善プランを提供した。一回一回の軋轢と交流を繰り返すことで内容は改善され、日本に輸出するこれらの「中国製造」は次第に完全なものになっていった。

数年後、かつて彼に厳しくされたことを恨み、辞めると騒いだ生産ラインの責任者は、「もしあの時に人情味のない厳しさだったなら、会社はとっくに潰れていた」と深い感謝の念を示した。

彼は今、来日してから20年間の輝かしい経歴について話す時、成功に言及するのはまだ早すぎると考えている。人生のプロセスは自分を超え続けることであり、人生は長く果てしない旅路なのであるから、目標はさらに遠い未来にあるのだと言う。

彼は、こうすると言えばその通りに実行する。はじめて参画した会社の運営が軌道に乗ってから、彼は次第に経営の中枢から身を引いていった。彼は、イノベーションによって、35年以内には現在の製品は優位性を失い、価格競争の膠着状態に陥ると予測したからだ。それは一人の水先案内人が見たい景色ではない。彼は決然とコースを変え、再出発した。

相互補完し、両国のビジネス

のDNAを統合する

「『中国製造』は世界をさらに幸福にする」と言う考えに関して、古月海光は日本市場を非常に重視していると率直に語る。中国企業が海外進出しようとすれば、まず日本市場での成功が不可欠だと言う。

「中国製造」と日本を比較しても、現在の中国企業のスピード、イノベーション、創造力は絶賛されている。しかし、いかにさらに実力のある中国企業を発掘するか、さらに高い付加価値を持ち、高い技術力を持つ「中国製造」を日本市場に参入させるか、解決しなければならない課題は山積している。

彼は、中国の「優秀製品+優秀なビジネスモデル+優秀な投資家」という三つのリソースを統合させ、独自の特色ある中国のビジネスモデルの日本版を構築したいと考えている。

取材の中で、現実に対する覚めた認識を持つ彼の、次の話には深く考えさせられた。個人の能力について言えば、中国人は日本人に優っているかもしれないが、チーム力について言えば、3人の日本人チームで10人の中国人チームに勝てる面が多い。しかし、日本企業内の決定の冗長なプロセスや責任分担方式は、日本企業に多くのチャンスを失わせている。

一方、中国人は大局観を持ち、さらに決断するスピードが速いので、「1+3」の組織構造ならば、1人の中国人経営者のもとで3人の日本人が管理職について企業経営を支えれば、有利に市場の主導権を獲得することができ、成功の確率が上がると考えている。

 

心に留め続ける

「中国製造」を偉大に

少年時代のアスリートとしての経歴は古月海光に、高いレベルの競争は、相手ではなく自身に対する絶え間ない挑戦と改善であることを悟らせた。

彼は若者と話すのを好む。新入社員の在日中国人の後輩に対して、たとえ大企業や成長企業に入っても、自身と競争をしている緊迫感を持ち続けなければならない。「ゆでガエル」のように変化に鈍感になれば、潮が引いた後苦境に陥るかもしれないとアドバイスをしている。

彼は語る。「われわれの祖国は日進月歩であり、国民は日増しに豊かになっており、われわれの製品は日々グローバルに進出している」。

そして最後に、「われわれの努力によって『中国製造』で世界をさらに幸福にすることを心から願っている」と微笑んだ。