呉 達仁 桐建材株式会社代表取締役
桐のやさしさを伝え、ぬくもりのある空間生活を提唱する匠


撮影/本誌記者 張桐

桐(キリ)は1000年前、唐の時代の中国から日本に伝わったもので、日本では「神の木」として祀られている。古都・奈良の正倉院の中にも保存状態が良好な、唐の開元年間に作られた桐製の金銀平文琴が収蔵されている。桐には日本の伝統文化の中で美しい寓意が込められており、古代において、鳳凰と桐はともに「瑞禽嘉木(吉祥の鳥と美しい木)」として誉れ高いものとされ、「桐竹鳳凰」は吉祥のシンボルである。日本には桐で作られたものも多く、神楽面、琴、タンス、下駄など、今でも随所で見かけることができる。桐の花は古くには皇室、大名、大臣、武将の家紋として用いられ、現代でも内閣総理大臣章、皇宮警察本部、法務省では五三の桐紋を使用している。天皇が社会的功績のあった人に贈る「旭日章」の一連の勲章の中でも最も高いステータスのものが、「勲一等旭日桐花大綬章」である。

精緻、細やか、優美を尊ぶ日本には、桐を深く理解し、愛してやまない匠がいる。彼は20数年間一日のごとく桐の木を研究し、「桐を最も愛し、最も理解している」と言われている。彼の目標は、ぬくもりのある優しい桐の製品を人々の生活空間にもたらすことである。この桐の匠がデザインした桐製品は日本の業界でいくつかの賞を受賞している。そのうち「桐らくね」ブランドの折りたためるベッドは美しいデザインと精密な製作により匠の国・日本を魅了し、2018年にはグッドデザイン賞を受賞、2014年から2020年までの間にIDSデザイン賞の各賞を3回受賞している。日本の桐の匠として知られ、日本で30年間努力し続けた新華僑、呉達仁を紹介しよう。

来日後、匠の故郷で縁を結ぶ

匠は日本社会で尊敬を集め続けている。しかし、来日当初の呉達仁は桐の匠になるとは夢にも思っていなかった。中国・湖南師範大学美術学部を卒業後、彼は1990年に日本留学を決意し、1992年新潟大学大学院教育学研究科の美術教育専攻に入学した。

新潟に着いた当初、彼は卒業後に東京で仕事をしようと思っていた。しかし、当地では数少ない外国人留学生として2年余りの大学院生活を送る間、彼は積極的に各界の日本人と付き合い、人情の厚い新潟で多くの友人を作った。

卒業後、呉達仁は友人の紹介でツインバード工業株式会社に就職した。同社は家電の生産と販売をする企業であり、彼の専門とは合わなかったが、同社の外国人社員の第一号となった。彼は「白紙の気持ち」で仕事に取り組み、社内で認められ、先輩や同僚は皆彼と喜んで付き合い、仕事を教えてくれた。

ご存知のように、日本企業の仕事は厳しくテンポも速いが、彼の担当した業務はさらにハードだった。毎日1000を超える製品の部品の在庫を調べ、すぐに追加発注をし、調達のほか中国、韓国、香港、台湾など海外の顧客との連絡も担当した。仕事の内容は煩雑で、精神的プレッシャーも大きかったが、彼はその出色の仕事ぶりで、会社の上司や同僚から絶賛された。彼はこの時期の仕事を振り返り、「この日本企業での経験は自分にとって非常に大きかった。ここで素晴らしい仕事の習慣を身につけただけでなく、全てを計画的に行うようになったし、日本の企業文化や勤勉な精神も学べた。ここでの4年間は、4年間大学で学ぶよりも多くのものを学べた」と語っている。

桐を知って安定を捨てる

4年間のハードワークを続けた結果、呉達仁は心身ともに疲れを感じたものの、仕事がもたらす充足感も得ていた。しかし、彼の個性の中にある自由洒脱さとイノベーションを渇望する天性を伸ばすことはできなかった。

たまたまその頃、商品開発部の同僚から桐の家具工場への転職を誘われた。その家具工場を訪れる前、彼は桐について調べ、大変驚いた。桐は中国の内陸部の広い地域で普通に見られるが、その材質が軽く柔らかいことから、中国の歴代の家具材としては重用されておらず、重視もされていなかった。しかし、この桐は日本では伝統的な高級タンスに用いられている。さらに室内装飾の材料にもなっている。彼はにわかに祖国の木材に敬意を感じたのであった。熟慮の結果、心に生まれた桐に対する興味が彼の転職を後押しした。これが彼を桐の匠の道へと踏み出させるきっかけとなり、第一歩となったのである。

今の視点から振り返ると、多くの人は彼が「使命に呼ばれた」と思うだろう。中日両国の経済発展の差が大きかった1999年当時は、一人の外国人が大企業の正社員としての安定した仕事を捨てて、未知の分野の小さい会社、工場に転職するのは不思議に感じられた。

桐の家具工場で、彼は生産の第一線に配属され、新しく開設された桐床を生産する工場の工場長となった。工場長といえばリーダーであり、一般の労働者でもある。新任の工場長を迎えたのは、全く触れたこともなかった様々な木工機械であった。彼はノートを手放さず記録した。専門的な絵画のトレーニングを受けていたおかげで、脳内にはスムーズに物体の三次元効果を構築できた。その能力によって、彼は1カ月も経たないうちに、工場内のすべての木工機械の操作に熟達できた。特に、床材加工のための切り刃を正確に調節、組み立てられるようになった。一般にはこれには半年以上の時間が必要だという。

 
撮影/本誌記者 張桐

起業失敗後、

問題解決で再出発

桐の家具工場で、呉達仁は桐材の特性を基本的に理解した。優しく純朴で自然な桐は彼を魅了し、彼は桐を深く愛するようになった。

桐で作った床材は、表面の木目が細かく、光沢があり、質感はシルクのように軽く滑らかで、柔軟な材質は人々に優しい感触を与える。また、桐の持つ断熱防火性によって、桐を敷いた居室は生活する中で理想的な温度と湿度をもたらし、省エネ、安全と共に、夏は涼しく冬は暖かい快適さを感じさせる。桐に囲まれた空間は、母の懐に抱かれているような優しい感じで、彼はこれを「愛の手触り」と呼んでいる。

優しさは、いつの時代も人々の生活の中で最も大切な要素であり、これがすなわち桐の最大の魅力なのだ。

桐の家具工場で4カ月働いた後、自分はもっと有効に桐を生かせるのではないかと思い、初めて独立し事業を始めることを決めた。中国から輸入した桐材を日本市場で販売しようと、意気盛んに始めたものの、初めての独立起業は失敗に終わった。

まず、日本の流通分野には製品本体価格の4倍以上の資金が必要であり、資金の回収には2カ月から1年かかる。さらに、建築資材の販売会社と建設会社とは固い家族のような結びつきがあり、独立したばかりの彼に入り込む余地はなかった。たとえ桐材の品質が良くて安くても、建築市場に進出するのは難しかったのである。

次に、彼は自身の桐に対する知識が不充分であると認識した。特に建築の知識が足りなかった。「私はただ、この桐の材質が良いということしか知らず、さらに建築の中でどのように使えばよいのかも分からなかった。そしてどのように人々に桐の良さを知ってもらうかも分からなかった」と彼は語った。

桐のセールス活動が進まないまま半年が過ぎた。彼はその間に、ある建築会社の社長と出会った。彼の桐に対する情熱がこの会社社長に伝わり、自分の建築会社に入って才能を伸ばすように誘われたのである。1999年12月、彼は在庫を潔く処理し、純木造ハウスメーカー夢ハウスに入社した。

この会社で、彼は時間の大部分を会社の建築現場で過ごし、日本建築の大工に住宅建築の施行方法を教わった。建築現場で、桐床のさね加工のヒントを得て、桐床材のための特殊なさね加工用刃物をデザインした。彼のデザイン、加工した桐床材は非常に使いやすく、現場の大工たちから称賛された。

建築会社での2年近くの仕事で、彼は桐の特性にさらに理解を深めた。桐は熱伝導率が低く、独特な植物繊維構造で、繊維導管が繋がっていなくて、内部に空気層があり、温度の影響を受けにくく、表面に結露せず、空気の湿度調整の役割を持ち、室内のインテリア建材としては、非常に理想的な経済的な省エネのエコ材料である。彼はこの自然の桐材をさらに愛するようになり、桐は他の木材とは違うため、桐に合う設計と加工方法を模索した。

桐タンスは百年以上の歴史を持つ伝統である。しかし、桐タンス職人は、桐で建材と家具を作る発想がなかった。一方、建材や家具のデザインに通じた専門家たち、彼らは桐の特性をよく知らず、桐の建材と桐の家具を加工技術もなかった。だから両方の世界にまたがる人材がいなかったので、伝統的な桐タンス製造技術を日常生活の中に活かせなかった。

呉達仁は研鑽と学習を続け、桐に対する知識と加工技術により、この二つの世界を融合し、この空白を埋める新華僑の桐の匠となった。2004年、彼は桐建材株式会社を設立した。

光が差し、出色の

「桐の匠」となる

桐の家具工場と住宅建築会社に勤務していたとき、彼は日本全国の有名な建設会社の優秀な一級建築士や大工たちと接し、知り合った。“いつも桐の話は切りがないと言う”、桐への愛に溢れ設計家たちが送って来る平面図を理解し立体図面に描き起こしてくれる中国人は、日本の同業者たちに敬服され、「彼は建材を売るだけでなく、どのように建材を使って建築するかをよく分かっている」と、深い印象を与えた。

呉達仁は独立後も、設計士たちと依然として密接な関係を保ち続けた、日本インテリアプランナー協会(JIPA)の霜野隆会長もその中の一人である。彼の紹介により、2005年、積水ハウスが建設した名古屋市内のあるリハビリセンターでは、呉達仁がデザインした桐床と製作した室内ドアが採用され、室内のインテリアも全て桐材が使われた。2006年、著名な在日フランス人デザインナーのグエナエル・ニコラは東京・渋谷区の住宅兼事務所に呉達仁から提供された桐床を採用した。

なぜ呉達仁の提供する桐床はこれほど人気があるのか。それは、彼が単純に桐を売っているだけではなく、一つ一つの建築物の実際の状況に基づいて独自の匠の精神で設計し製作し、特定の環境で桐の優しさ、美しさ、快適さ、耐久性を最大限に発揮させるからである。この呉達仁の細やかで真面目な態度が、クライアントに認められ、さらには日本社会にも認められたのである。会津大学が、いかに福島県の桐産業を振興させるか呉達仁に尋ねにきたこともある。伊豆の木材市場も彼を招いて桐の特性と加工方法について講義を受けた。

 
桐の折りたためるベッドをデザインした呉達仁

時代に応じて、軽い

折りたためるベッドをデザイン

呉達仁の夢は桐による生活環境の快適さを人々に感じてもらうことだ。毎年4月には、高校の卒業生が大学に進学し、大学の卒業生が入社する。この時期には、新しく部屋を借りて家具を購入するので、生活に必要なベッド、テーブル、テレビなどがよく売れる。そこで、彼は桐のベッドの設計に取り組んだ。消費者の視線から出発し、ベッドは軽く、畳や床に傷つかない、引っ越すときには軽くて運びやすいのがいい。日本の生活空間は小さく、ベッドも折りたためる収納ができればスペースも広げられる。何事にも極めて真剣に取り組む呉達仁は、この製品の開発にも心血を注いだが、市場への参入は難しかった。

折しも2011年の東日本大震災の時、避難所で暮らす人や疎開した人々も多かったが、その生活環境は厳しく、床に寝たり、段ポール箱をベッドにして寝たりしていた。呉達仁は心の中の責任感に再度呼び覚まされ、さらに努力して桐の折りたためるベッドを普及させ、今後の社会に奉仕しなければならないと考えた。

研究を経て、彼は設計に改良を加え、国際特許を持つアップダウンキャスターを採用し、ベッドを広げて使用する時は床に固定でき、折りたたんだ時もスムーズに移動できるようにした。またベッドの力学構造設計を改善し、最大限にベッドの耐荷重を向上させた。ベッドの設計が完成した後、新潟県工業技術センターに工業製品の耐荷検査認証試験を申請し、結果としては重さわずか13.5 kgの桐のベッドの耐荷重は200 kgだという驚くべき結果を得た。そして、彼はこのベッドをニイガタIDSデザインコンペティションに出品した。

改良を続けた結果、ブランド名「桐らくね」は、日本一軽い桐の折りたためるベッドとして、2011年に登場し、2014年にはIDSデザイン審査委員賞を受賞し、当時は彼が唯一の外国人受賞デザイナーであった。その後2回受賞し、   2018年には日本グッドデザイン賞を獲得した。


2018年、日本グッドデザイン賞を受賞

2020年、新潟IDSデザイン特別賞を受賞した際には、主催者が「桐の折りたためるベッドは研究開発、製作、販売まで9年間かけて、桐の軽さを最大限に活かした発想、着眼点がとても優れたプロダクトである。長年に渡り耐久性や使い心地を追求し続け、絶えずアップデートを行う企業姿勢も高く評価できる。この実用性の高いベッドはまさに桐の優しさを表現し、現代日本社会に様々な消費者、特に高齢化社会のニーズに合った商品であり、日本社会に特別な貢献をしている」と紹介した。この評価は桐の匠・呉達仁が日本社会に認められたということである

優れた製品設計も市場から認められる必要がある。今日まで、日本の500以上のホテル・温泉旅館でこの桐の折りたためるベッドが採用されており、その中に有名な老舗旅館の加賀屋も含まれている。JTB商事は直接桐建材株式会社と提携し、日本各地の温泉旅館に桐の折りたためるベッドを導入している。

高島屋百貨店や東急ハンズでもこのベッドを店頭販売している。通販生活でもベストセラー商品として4年連続掲載販売している。


2020年、新潟IDSデザイン特別賞を受賞した呉達仁(前列右から2番目)

三大支柱、

エコと経済と脱貧困

新潟の地に足を踏み入れた呉達仁は、20数年間桐産業の中でイノベーションを続け、ものづくりで事業を起こし、自分の夢と情熱によって自身の桐事業を作り上げた。

桐建材株式会社の桐床材、桐の折りたためるベッドは日本で高く評価されている。呉達仁はさらに生活に欠かせない必要な桐家具を開発し続け、BINSTLYEという桐製家具ブランドを立ち上げた。桐の床材、折りたためるベッド、BINSTLYE家具を桐建材株式会社の三大支柱として今後の事業を展開していく。同時に、同社は北京、上海、広州など多くの都市で優しい桐の空間生活を体感できる場所を設け、多種多様な桐製品のぬくもりに触れる機会を提供している。

桐について話す中には、呉達仁の祖国への愛、社会への愛がある。「桐は成長が早く、十数年で木材になる。経済林として、社会の中で桐産業チェーンを整備できれば、発展から取り残された地域の経済発展を推し進め、人々の生活水準を向上させることができる」と彼は話す。

中国経済の飛躍的な成長は、中国の消費者の概念も変え続けてきた。今後、消費者の生活空間と家具の選択に対する着眼点は、人重視、快適、環境保護、安全に置かれるだろう。このような本来の自然な状態への回帰というトレンドはすでに多くの分野で体現されている。

呉達仁は以下のように語った。「私はずっと経済環境に優しい桐を私たちの日常生活の中で有効利用させようと努力している。冬は暖かく夏は涼しく、快適で省エネの居住空間を作りたい。桐は日本では伝統文化の影響で広く人気があり、現代社会の日本人には自然に対するハイクオリティな生活を追求するニーズがある。また今の中国は、経済成長が人々にさらに居住空間の個性化、快適化を重視させるようになっており、同時に自然環境に優しい生活も追求するようになっている。私は、長年蓄積してきた桐加工技術と優しい桐製品を中国に持ち帰り、今の豊かになった中国で経済的環境保護、自然で純朴な生活理念を提唱し、さらに多くの人々が健康で安全な桐の生活空間を享受できるよう、桐で中国に幸せを作り出したいと思っている」