郝 振傑 株式会社Y.S.D代表取締役
金儲けよりも祖国への貢献を若き在日華僑の思い

これはミッションだ! 中国の新型コロナウィルス感染症のニュースが大きく報じられると、日本で貿易事業を営む若き華僑――郝振傑はじっとしていられなかった。従業員を総動員し、東京を中心に北は青森県から南は北九州まで奔走し、50万枚のマスクを購入した。

従業員たちは、これでは仕事にならないと不安になり、思わず社長に尋ねた。「毎日こんなことをしていたのでは収益が上がりません」。郝振傑は答えた。「家が燃えているというのに、金儲けのことばかり考えていられますか?」。

インボイスに送り主の会社名を記入する必要があるのだが、郝振傑は手を振りながら、「会社の名前は書かなくていい。これは在日華僑華人としての務めだ」と言った。そして、送り主の欄には華僑団体の名前が書かれた。

そんな手がかりを辿って、私は来日して8年になる郝振傑を探し当てた。このエピソードを知って、私は31歳の郝振傑のことをもっと知りたいと思った。

初めての起業に
成功するも、挫折

郝振傑は山西省の生まれである。警察官であった父親は幼少期から我が子に公平・公正を教えた。父親の影響で、2007年、郝振傑は忻州の名門高校から中国政法大学へ進んだ。

苦しい受験勉強から解放された郝振傑は、キャンパスライフに没頭し、サークル活動やスポーツ競技に興じた。しかし、一見華やかに見えた生活も、両親や親戚・友人から優等生と呼ばれた彼を困惑させた。そんな生活に対する興味も次第に薄れ、時間を無為に過ごしてはいられないと、郝振傑は突破口を探った。学習能力に長けた彼は大胆な考えを抱いた。それは、両親の言い付けに背き、学びながら創業するという考えであった。

幸運と言えば幸運であった。眠りたい時に枕を差し出してくれるように、郝振傑の周りには、志を同じくする二人の同級生がいた。若者らしく、彼らはたちどころに行動に移した。郝振傑は炭鉱を探し輸送の連結を考えた。仲間はマーケットを探った。時あたかも、北京オリンピックの年に当たり、中国経済が大きく伸びた年であった。様々な物資に膨大な需要があり、時代の流れに乗った郝振傑は、起業してすぐに大金を掴んだ。

初めての起業は成功した。ビジネスは立て続けにうまくいき、彼は視野を大きく広げた。当時、国内では翡翠のコレクションがブームとなり、2010年、翡翠の価格は過去最高値を記録した。郝振傑は蓄えた資金を携えて雲南の翡翠市場に乗り出した。ところが、思いもよらず、一度の翡翠の鑑定に失敗してしまう。氷質翡翠とガラス質翡翠には価格に大きな差があった。20代前半の若者には大きな打撃であった。これが郝振傑にとって人生の生きた教訓となった。

苦境の時に人の真情は分かるものだ。郝振傑はどん底にあって、水のように純粋で巌のように確固とした愛情を得た。蓄えたお金も底をつき、周りにいた人間もいなくなり、失ったものは多かったが、得たものも多かった。派手やかで浅はかな幻影が消え去ると、ひとりの若い女性が傍で支えてくれた。彼女は在日華僑で、中国人民大学で学び、家族は日本にいた。日本の雅子皇后と同じく外交を専攻していた。家族は彼女に大きな期待を寄せていたことがうかがえたが、当時の郝振傑は多くを考えなかった。

数年後、彼は、若くして雲から落ちるような苦しみを経験できた運命に感謝しつつ、堅実に誠実に再び起業を果たした。あの失敗の経験を積んだがゆえに、どんな苦境に遭遇しようとも畏れるものはないと思った。

あっという間に卒業の季節を迎え、ガールフレンドはすでに帰国していた。遠く離れて暮らす二人は、将来のことも考えて円満に別れようと話し合った。畢竟、国内の名門大学を卒業した郝振傑は、インターンシップを継続して検察院で働く可能性が高かった。また、出国することも、馴染みのない環境や言語のもとで生活することも、親戚・友人と離れることも考えられなかった。

しかし、最終的に感情が理性に勝り、郝振傑は愛するガールフレンドに会いに行こうと決意し日本へ渡った。

夫婦で心を一つに
起業を果たす

日本に来てみると、すべてが彼の想像とは違っていた。穏和で控えめな彼女は有能だった。家族は日本の政財界に広い人脈があった。郝振傑は心ひそかに驚いた。それまでは、自身の家庭条件の方が彼女より多少なりとも勝っていると思っていた。当初、それらを捨てて日本で生活することにためらいも感じていた。

自身の意図とは大きく異なったが、郝振傑は少しも怯まなかった。日本に留まり、彼女のために頑張ってみようと思った。細心で心優しい彼女は郝振傑と話し合い、両親の助けを借りることなく、自分たちの力で成果を収めようと決めた。

当時、ちょうど「代理購入」熱が高まっていた。資源も人脈も持たない郝振傑は、そこから着手することにした。これが日本での最初の起業となった。

日本を初めて訪れた華僑は皆経験することであるが、保証人も後ろ盾もなく、部屋を借りることができない。多方面に問い合わせ、彼は最終的に川口市に倉庫としていくつかのコンテナを借り、初めての操業を開始した。

どんな時も苦楽を共にし、度重なる苦難にも、彼らの生涯を共にとの信念は一層堅固なものとなった。ほどなくして、二人は日本で挙式を挙げた。彼女は妻となっても、一般的な日本の「専業主婦」にはならなかった。日中は朝9時から夕方5時まで会社勤めをし、夜になると倉庫にやって来て夫を手伝った。

郝振傑の事業が着実な発展を遂げていた時、妻が嬉しい知らせを運んできた。二人に赤ちゃんができたのだ。郝振傑は嬉しくもあり不安でもあった。会社の業務は常に彼と友人の二人で行い、忙しい時は妻と友人の妹に手伝ってもらうしかなかった。業務量は増加したが、事業の拡大には更なる資金が必要であった。日本の人件費は高く、郝振傑は人件費への投資には踏み切れなかった。

心優しい妻は、彼の苦悩を知り手伝いに通い続けた。お腹が大きくなって荷物が運べなくなると梱包を手伝った。東京の夏の暑さは耐え難いものであるが、陽が当たると、コンテナ内は外よりも蒸し暑くなる。妻は毎日、900箱近くを梱包しなければならなかった。両親の苦しみを知ってか、赤ちゃんは予定日より一週間早く生まれた。母子ともに無事だったことに、郝振傑は感動で言葉を失った。

事業が順調に拡大し影響力を持つようになってきた頃、運送会社の倉庫が受け入れ許容量を超える事態が発生し、大きな損失を出してしまう。2014年、中国国内では日本の日用品がもてはやされていた。郝振傑は日本のサプライヤーとコンタクトをとり商品の準備に余念がなかった。国内の物流倉庫のリスクにまで頭がまわらなかったのだ。最終的に、倉庫の許容量を考えて、やっと手に入れた商品を投げ売りせざるを得なかった。この一件で、彼は国際取引のみに頼れば、他からの制約を受け易いということを思い知った。

2015年、郝振傑は自社ブランドを立ち上げることにした。彼は市場を熟知した上で、信頼できるサプライヤーの中から、高品質で潜在性のある生産ラインを選び、卵殻膜を使用した美白サプリメントやミラーズマジックフェイスマスク等、様々な美容商品を発売し好評を博した。それらの商品は確固たる地位を築き、高いコストパフォーマンスによってロングセラーとなった。

リスクに備えて先手を打つ

日本に来て間もない頃、郝振傑は日本企業の伝統精神に驚き、友人たちと語り合った。「なぜ日本では、国内の請負業者と同等の規模しかない小さな建設会社に、数十年から数百年もの歴史があるのだろうか。時代背景も、社会状況も、原材料も、人力も変化する中で、彼らはどうやって生き残ってきたのだろうか」と。

そんな疑問を抱きながら、郝振傑は起業し思索を重ねた。そして、気付いた。日本社会にはいくつかの伝統的役割と業界の掟があり、各業界には早くから一定のモデルやルートが形成されている。その過程において、誠実、信用、利益還元、助け合いを重んじ、時に杓子定規にも見えるやり方で、生産、営業、販売チェーンの安定性を確保しているのだ。
すべての疑問が解けると、郝振傑は金儲けにあくせくしなくなった。日本のサプライヤーからの信頼を勝ち取ることに重きを置いた。良好で堅固な協力関係を構築し、安定した日本の供給ルートがあれば、市場の変動に直面しても慌てる必要がない。会社は着実に実績を伸ばし、規模を次第に拡大し、年間売上高は100億円に達した。

2017年、中国で『電子商取引法』(電商法)が施行(2019年1月1日)されるに当たり、国際貿易に携わるすべての企業がモデルチェンジを余儀なくされた。常に先手を打ってきた郝振傑は、早くから業界に危機感を抱いていた。彼は一方で、日本で名の知れた小売商と提携を進め、一方で一部業務を少しずつ縮小した。誰もがネット販売で短期間のうちに収益を上げようと考えている時に、彼はいち早く中国国内に実店舗を展開すべく布石を打った。電商法が施行され、市場環境が変化する前に手を打ち、自社ブランド『和品集』を立ち上げたのだ。現在、『和品集』は山西、河北、山東、湖北、浙江、江西で36店舗を展開している。

中国で五台山は知恵を司る文殊菩薩の道場とされている。偶然であろうか、五台山の麓で育った子どもは細心で頭が切れる。彼はこんな話をしてくれた。中国の北方は冬の間乾燥する。郝振傑は北方の市場をターゲットにボディミルクを用意した。ところが思いがけないことに、気温が高く毎日シャワーを浴びる習慣のある南方の方が、北方よりも売れ行きが良かったのだ。彼はその情報を掴むと迅速に反応し、製品を調整して再配置した。市場からのフィードバックを綿密に追跡し、異なる地域の消費習慣の違いに注目したことによって、郝振傑は中国国内に順調に店舗を増やし、誇大宣伝にも虚偽宣伝にもよらず、評判は庶民の口コミによって広がった。

先輩華僑としての
感慨と喜び

私が感銘を受けたのは、郝振傑が中国国内に出店するに当たって、その多くを三線、四線都市に出したことである。彼は微笑みながら言った。「私は『農村から都市を包囲する』戦略を採ろうと思いました。生活水準が向上しつつある中国の地級市や県級市の人々に、さらに豊かさを感じて欲しかったのです」。それは、事業の選択と言うより戦略的選択と言える。

私が感慨を覚えたのは、郝振傑が往時を語る時、妻のことを「道案内人」と呼び、友人を「ビジネスパートナー」と呼び、自身のチームを「いなくてはならない人たち」と呼んでいたことだ。彼らについて語る時、郝振傑は幾度となく「恩がある」という言葉を口にした。

郝振傑は、1988年の生まれである。私はその年に私費留学で日本にやって来た。新世代の華僑が育ち、彼らが祖国への思いを次の世代に伝え、世界で自在に活躍できる知識能力と戦略的ビジョンを持ち、中国と世界を繋ぐ架け橋を開拓していることを嬉しく思った。

希望はこうして知らず知らずのうちに若き新華僑に受け継がれている。