朱峰 玲子 株式会社エム・エイチ・グループ代表取締役兼執行役員社長
華人女性がフランスの有名ブランドを中日に展開

1985年、27歳で来日した彼女は、コンピュータプログラミングを独学で学び、日本の大手IT企業ユニシスで従業員研修を担当した。2005年、47歳で日本の有名化粧品メーカーシーボン化粧品の上級管理職となり、同社の東証一部上場に貢献した。2016年、58歳でフランスのファッションブランドであるエムエイチグループの社長として招聘を受ける。2019年、彼女はフランス議会の演壇に立ち、世界の女性に向かって声を発した。眩いばかりのシルエットは自彊不息、堅忍不抜の華人女性の姿と重なった。彼女とは、株式会社エムエイチグループ代表取締役兼執行役員社長の朱峰玲子である。

 

ITの名師は独学で身を起こした中国人女性

滔々たる長江の流れは、夔門を勢いよく過ぎると漢江と出逢い、傑出した人物を生み出した江漢平原の肥沃な大地をつくった。1958年の晩夏、朱峰玲子は江漢平原の一般家庭に生まれた。長江は昼夜を分かたず流れる。朱峰玲子の人生の旅路にも休息はなかった。

朱峰玲子は上山下郷運動(文化大革命期、都市の知識青年が農村に赴き農業生産に参加する運動)を経て、大学入試復活後の最初のチャンスを掴んで進学し、その後、国の手配に従い就業した。そして1985年、国費派遣留学生の夫について来日した。

彼女の第一印象は、その明快な話しぶりと親しみ深い笑顔である。さらに、彼女は学習能力に非常に秀でており、日本語もコンピュータプログラミングも独学で身に付けた。日本のコンピュータ国家資格を独学で取得し、IT講師を務めただけでなく、日本の大手IT企業ユニシスで新入社員研修にも携わった。

彼女の実力と人間性は生徒たちを魅了した。研修のカリキュラムが終了すると、新入社員たちは初めての給料で朱峰玲子にデザインが美しい有名ブランドの腕時計と花束を贈り、この出来事はユニシスの社内ニュースとなった。

日本では、初めての給料を両親に贈り感謝を表す慣習がある。朱峰玲子は、この特別な腕時計を今も大切に手元に置く。それは彼女の能力に対するひとつの評価であり、これまでの奮闘に対する報酬でもある。

 

日本の美容界のトップ企業で上級管理職に

朱峰玲子がシーボン化粧品に入社したのは42歳の時である。日本では、この年齢の女性の人生コースはすでに確定されたようなものである。未知の未来に対して、彼女は決して臆することはなかった。「諦めなどあり得ない。学ぶのみ。活路が無いなら見出せばよいのだ」と。

シーボン化粧品は全国に80以上の店舗を展開しており、朱峰玲子は自身が培ったITの知識を活かし、店舗毎の売り上げ記録、各顧客の肌の状態、各商品の原材料成分効能等を管理する情報システムの構築を急ぐ課題に対応した。

当時、日本の通信会社であるNTTは無線通信技術の普及を進めていたが、多くの人々は慎重な態度を示し、安全性に疑いすら抱いていた。朱峰玲子は、この市場の空白をチャンスと捉え、調査研究を経て無線通信技術の実現可能性の確証を得た。そして、NTT-MEと交渉し、最初の大型多店舗のテスターとして取引を成立させた。企業はコストを削減することができ、NTT-MEの市場の開拓にも一役買ったのである。

最終的に、NECやIBMといった大手企業であれば高額な管理システムを、朱峰玲子の専門知識によって、わずか10分の1で成し遂げたのだ。科学的かつ包括的な経営管理システムと高収益、低コストの運用プロセスに、会社の経営陣は朱峰玲子の手腕を見た。彼女は管理部門のスタッフから営業部門の責任者へ、さらには取締役の一員にまで昇りつめた。わずか5年の間の出来事である。彼女は「ヘリコプターに乗っているようだったわ」と笑う。

朱峰玲子はよく笑う。笑うと、目は一対の湾曲した月のようになり、ひときわ親近感を覚える。しかし記者は、一人の外国人、一人の女性が日本で刮目すべき仕事を成し遂げたその笑顔の裏には、想像を絶する辛労があったことを知る。ところが彼女は、苦労だとは思っていない、角度を変えて考えれば劣勢も優勢に転じられるのだと言う。そして、あるドラマチックなエピソードを紹介してくれた。

当時、岡山の店舗に、通信会社がインターネット工事のために来店したが、事業主はこれを拒み、両者は譲らなかった。致し方なく朱峰玲子自ら現場に足を運んだ。それはとても寒い冬の日だった。彼女は6人の年配の男性がいることを確認し、近所で温かい缶コーヒーを6本買い、懐に抱えて交渉の部屋へ持ち込んだ。

彼らがそれを受け取り、フタを開けた時、コーヒーはまだ熱かった。一人の中国人女性から受け取った熱いコーヒーは、彼らの喉を温めただけでなく、彼らのわだかまりをも解いたのである。朱峰玲子は、女性がもつ特有のきめ細やかさと中国人が大切にする人情味で、600万円もしくはそれ以上のトラブルを、わずか600円で解決したのであった。

 

エムエイチグループを率いて再び頂点へ

朱峰玲子は業界大手のシーボン化粧品で、キャリアのピークを享受するだろうと誰もが思っていたとき、彼女は驚くべき行動に出た。フランスのファッションブランド、エムエイチグループから招聘を受け、社長に就任したのである。

この件に話が及ぶと、彼女は、自然な流れであったと語る。中国経済の成長に伴い、多くの企業が国外に進出するようになり、中国のファンドがモッズヘアにブランド価値を見出し、親会社の上場会社エムエイチグループを買収したのである。

ところが、モッズヘアの技術力には定評があり、技術力と個性をもったヘアスタイリストたちを如何に管理するかがスポンサーの頭痛の種であった。経営を理解し、イノベーションを敢行し、コミュニケーションに長け、美容業界に詳しく、さらに中国文化に精通した人物として、朱峰玲子が候補者にあがったのだ。

モッズヘアは極めて高いブランド価値を有し、商品にもサービスにも定評があった。口コミや名声にも恵まれ、ヘアスタイリストたちは向上の意欲を蝕まれがちであった。朱峰玲子は就任後、一店舗ごとに分析を行い、彼らの長所と弱点を掌握し、彼らのパフォーマンス改善のための具体的なプランを立てた。

彼女は、訪日中国人旅行者はショッピングだけでなく、美容にも興じ、限られたスケジュールの中でできるだけ多くのサービスを体験する傾向にあり、これらのビギナーは日本の常連客よりもニーズが高く、躊躇なく消費している点に注目した。

ところが、日本人ヘアスタイリストたちは英語が苦手で、外国人の接客をしたがらない。朱峰玲子は、彼らが言葉の壁を乗り越えて中国人客を接客するよう励ました。各店舗を巡って彼らを啓発し、一つひとつ丁寧に進めた。さらに、従業員の憂慮を払拭するために、「うまくいけばあなた方の功績です。うまくいかなかったら私が責任をとります!」と鼓舞したのである。

朱峰玲子の激励と具体的な指導が功を奏し、多くの若いヘアスタイリストたちが挑戦を開始し、市場の反応は良好であった。目に見える売り上げ実績を前にして、モッズヘアのヘアスタイリストたちは、朱峰玲子に全幅の信頼を寄せた。

朱峰玲子は、毎月オンライン予約を通してランダムにモッズヘアのヘアスタイリストを選び、髪を切ってもらった。彼女自身が歩く採点機、歩く看板であった。彼女は、大衆から、ヘアスタイリストとブランドに対する評価を勝ち取りたいと思った。「異なるヘアスタイリストが同じヘアスタイルをいつでもどこでも作り出すことができ、その技術は常に世界トップレベルである」と。

こうして、一方ではモッズヘアのブランド力を高め、一方では新人の成長を促しベテランの慢心を打ち砕き、グループ全体の仕事に対する情熱を喚起したのである。

50年以上の歴史をもつ有名ブランドとはいえ、国と国、民族と民族との間には文化の違いがある。モッズヘアは中国市場の開拓に当たって困難に直面し、皆の期待はおのずと朱峰玲子に向けられた。

長江の水で育った女性は、再び長江の如くしなやかで鋭敏な思考で問題を解決し、皆の期待に応えた。彼女は直営店とフランチャイズ店を増やして大きく門戸を開き、中国国内のヘアスタイリストに日本で学ぶ機会を提供した。敷居を設けず、学ぶ意欲のある者はみな日本での研修に志願することができるようにした。すでに研修は数十回行われ成功を収めている。

彼女は自信をもってこう語る。「私は、他者がモッズヘアの技術を学びに来ることを恐れません。彼らはモッズヘアの技術だけでなく、ブランドイメージも中国に持ち帰り、目に見えない形でモッズヘアを宣伝し、その影響力を高めてくれます」。

一中国人、一中国人女性として、日本でここまでの成功を収めたにもかかわらず、朱峰玲子は自身の弱点を隠すこともしない。実はカタカナを読むのが苦手だという。彼女は、完璧な人間などいない、自身の強みをいかんなく発揮し、得意なことをしっかりやりさえすれば成功できるのだと話す。

日本の経営陣も従業員を戒める。「朱峰玲子がどのように話したかは重要ではない! 重要なのは君たちが、彼女が望んだ通りにやることだ。彼女の言う通りにやっていれば間違いない!」と。彼女はここまでの信頼を勝ち取ったのである。

事業で次々と成功を収めた後、朱峰玲子は自身の時間とエネルギーの一部を知識と資源の生産に費やし、チャネルを開拓しプラットフォームを構築し、華僑団体に奉仕するとともに郷里に恩返しした。そして、在日華人、特に日本に来て日の浅い中国人に支援を行った。

世界が注目する銀座に「珞珈壹号」という名前の湖北料理のレストランがある。ここは日本湖北総商会の活動拠点である。朱峰玲子は有識者とともに湖北総商会の発展に尽くし、推されて執行会長の任に就いた。多くの在日湖北省出身者が困難に直面したとき、まず頭に浮かぶのが湖北総商会である。皆が「呉姉さんがいるから安心だ!」と、朱峰玲子に信頼を寄せる。

異郷の地で奮闘すること三十余年、朱峰玲子が従事してきた職種は常人の想像を超え、成し遂げた事業に肩を並べる者はいない。2019年初夏、朱峰玲子は中国、フランス、アフリカによる国際婦人フォーラムに招待され、フランス議会の演壇で演説を行った。

取材中、朱峰玲子の今日の成功は、チャンスを掴み、勇敢に挑戦し、活路を見出す姿勢にあるのだと感じた。この一見穏やかに見える女性は、無限のエネルギーを秘めている。長江の水で育った彼女は、長江の如き不屈の精神と、長江の如く大きく開かれた視野を持つ。