方 徳輝 琉球経済戦略研究会理事長ビンコウHD株式会社社長
沖縄を拠点に日中貿易の新時代へ

2019年4月、日本国際貿易促進協会訪中団の一員として中国に赴いた玉城デニー沖縄県知事は、胡春華副総理と会談した際、中国政府が提唱している広域経済圏構想「一帯一路」において沖縄は日本の玄関口としての役割を果たせるとして、習近平主席の沖縄訪問を要請した。胡春華副総理は、沖縄を「一帯一路」の日中間の中継地にするという玉城知事の提案に賛意を示した。

同席していた琉球経済戦略研究会理事長、ビンコウHD株式会社社長である方徳輝は気持ちの高ぶりを禁じ得なかった。はじめて沖縄の地を踏んでから23年が過ぎていた。琉球経済戦略研究会を設立してから7年がたち、日本のメディアに沖縄を「一帯一路」に対する窓口とした「琉球大交易時代の再建」の提言をしてから2年がたっていたのである。


撮影/本誌記者 呂鵬

 

沖縄留学の先駆者

方徳輝は福建省長楽の出身だ。鄭和は7回大航海を行ったが、うち6回は長楽の太平港から出発した。福建省は古くは閩と呼ばれ、昔から大物華僑が輩出している。閩という漢字は古代の福建のシンボルである蛇の神様を意味する。ヘビは竜の原形であり、水の中でみずちに変身することで竜門を越えられ、機会があれば本物の竜になれる。そのせいか、福建人は生来海を渡り、成功を目指す精神を持っている。方徳輝もその冒険を愛する海の子孫の遺伝子を引き継いでおり、「あえて先駆者となる」精神の実践者である。

1992年、鄧小平の南巡に伴って春風が中国の大地に吹き始め、ビジネスブームがやってきた。まさにその年、方徳輝は福建教育学院に入学した。彼は英語を専攻し、卒業後はかつての母校で教師となった。英語は当時、世界に関心を持ち、世界を理解する窓口として人気の専攻であった。まだテレビでは外国を紹介する番組は少なかったが、その中で彼は福建と沖縄が友好都市の関係を締結した番組を見た。沖縄の紺碧の海が彼の目を引き付け、沖縄という2文字が彼の心に刻み込まれ、留学の夢を実現させる土地となったのである。


撮影/本誌記者 呂鵬

1996年5月18日、方徳輝は希望通りに沖縄の地を踏み、沖縄国際大学に留学した。在学期間中は先駆者となる信念を持ち続け、積極的に現地の人たちの中国に対する理解、福建人に対する理解を深める努力をし、いつも『琉球新報』に投稿していた。まだ故郷を出たばかりの青年ではあったが、その頃すでに人に勝つ眼力と遠大な抱負を持っていた。当時福建省省長であった習近平が沖縄を訪問した際、中国沖縄留学生協会の副会長であった方徳輝も留学生の代表として、福州園の見学に随行し、昼食会に同席した。

大学卒業後、方徳輝はビンコウHD株式会社を設立した。彼は早い段階で沖縄と中国の経済貿易提携の重要性に気づき、「琉球大交易時代の再建」という提言を打ち出した。この提言を実行可能な計画にするため、彼はさらに、当時日本で唯一、日中ビジネス分野のMBAコースを設置していた京都の龍谷大学へ進学した。

 
習近平福建省省長(当時、写真中央)が沖縄を訪問(2001年1月、習氏の左が方徳輝氏)


沖縄訪問時の習近平福建省省長(当時、写真左から3番目)と記念撮影する方徳輝氏(写真左)


方徳輝著「琉球史に輝いた閩人と今日の福建人」

琉球経済戦略研究会の設立

2012年、日本国際貿易促進協会の河野洋平会長の支援のもと、方徳輝は沖縄に琉球経済戦略研究会を設立し、初代会長となった。当時、日中関係は悪化しており、国と国との往来はすでに氷点下まで冷え込んでいた。しかし彼の信念は堅く、困難を乗り越え、ついに2013年には沖縄の企業10社を率いて大連での日本製品の展示会に参加した。その後は年間に2、3回のペースで訪中し、足を伸ばして泉州、福州、北京などにも赴いた。2013〜2015年、彼は自身の人脈を動員して、中国国内で影響力を持つ都市のテレビ局や新聞社を沖縄に招き、中国大陸における沖縄の知名度を上げていった。

当時を振り返り、「私はきっかけを作ったのです」と方徳輝は感慨深げに言う。交流は双方向のものであり、中国と沖縄をつなぐ架け橋、きずなとして、彼は力いっぱい働き、両地に花を咲かせ、結果を残した。沖縄の企業に対しては、離島の内向きの経営意識を変え、貿易の突破口を開くべく外に目を向けさせた。中国に対しては、多くの人びとに沖縄を認識、理解してもらい、受け入れてもらった。方徳輝は小さなエピソードを語ってくれた。彼がはじめて沖縄企業を引率して大連に行った時、大連の一般市民は「沖縄って何? 日本のお菓子? おいしいの?」という反応だったそうだ。今では笑い話であるが、沖縄が「無名のお菓子」的存在から、中国人観光客の人気の観光地となるまでに、笑い話の後ろで方徳輝がどれほど努力したことか、それは本人が一番よくわかっているだろう。

 

沖縄白酒を沖縄から世界へ

2018年、日本の内閣府は沖縄酒類製造業自立的経営促進事業プロジェクトの提携パートナーを公募した。日本で焼酎といえば、まず薩摩、つまり鹿児島を連想するし、泡盛といえばまず沖縄の特産だと思う。原材料と醸造方法により、酒類は広く醸造酒と蒸留酒とに分けられる。中国の「国酒」である茅台酒と沖縄特産の泡盛とは同じ蒸留酒の代表作である。『陳侃使録』の記載によると、明の冊封使陳侃は1534年に琉球に派遣され、琉球国王に泡盛で歓待された。1853年、アメリカのペリー艦隊が琉球王国に寄港した際、ペリーも泡盛を好んで飲み、その芳醇さはフランスのブランデーに匹敵すると絶賛したという。

泡盛は最初、中国から沖縄に伝わったものだが、そこでずっと古法での酒造りを維持しており、世界文化遺産に申請中である。しかし、悠久の歴史が盛況へと続いているわけではなく、47社ある泡盛メーカーの中で黒字の会社は16社しかない状況であり、どのメーカーも下降線をたどることは避けられない様相だ。

方徳輝は以前、泡盛をコンテナ3箱分中国に輸送し展示販売したことがあるが、製品の付加価値も認知度も低いうえ、輸送コストも高かったため、中国の白酒と同種同源の沖縄の特産品は蒸留酒のふるさとで冷たくあしらわれたのであった。

方徳輝はその失敗の体験を大切にし、迅速に反省し問題を分析し、たちまち泡盛が冷遇された本当の理由を理解した。理由がわかった後、彼は泡盛の「危機」を「チャンス」に転じるため、自身が積極的に前線に立つ必要性を感じたのである。

大学在学中から方徳輝は文化交流活動に積極的に関わった。経済的に自立した後は、さらに全力で沖縄と中国大陸との貿易交流の活動を推進した。長年にわたって実力が認められ、人望もあったことから、彼は平成30年沖縄酒類製造業自立的経営促進事業プロジェクトにおいて内閣府の提携パートナーに選ばれ、日本政府、沖縄企業とともに、泡盛を中国や世界に向けて紹介することになった。

沖縄の人たちが飲む泡盛はアルコール度数が30度から43度の間であるが、中国の白酒を飲む習慣に合わせて、53度の泡盛原液を採用し、製品の知名度を上げるため、中国人にも覚えやすいネーミングとして「沖縄白酒」と付けた。沖縄の泡盛メーカーのトップに立つ瑞穂酒造は1848年創業、琉球王国の古都・首里にある歴史の古い蔵元であり、かつては琉球国王に酒を納めており、製造された泡盛は多くの外国使節にもふるまわれた。良い酒は大きく宣伝すべきだと、ブランド意識を持つ方徳輝は瑞穂酒造の歴史も取り入れて製品に「王国貢酒」と名付けたのである。

 

沖縄版の「伊藤忠」へ

海賊版の製品を防ぐため、2018年11月、方徳輝は琉球経済戦略研究会の理事長として、沖縄の中国向け輸出品をめぐりCCIC(中検集団)日本株式会社と「TIC+トレーサビリティー」の全面的提携を行う戦略提携合意を締結した。「沖縄白酒」は今回の戦略的提携におけるはじめての製品となった。2019年3月、CCICのトレーサビリティーを通過し中国語のラベルが貼られた「沖縄白酒」の第一陣がアモイの税関を通り、中国市場へと出荷された。方徳輝の不断の努力により、沖縄白酒は中国の通関時間を当初の50日間から最速6営業日へと短縮できた。

プロジェクトを着実に前進させ続けていた方徳輝に、満足の気持ちはあるものの、悔いがなかったわけではない。「2016年、当時の翁長雄志沖縄県知事が国務院の汪洋副総理に対し、沖縄の対中輸出品の中国での通関時間短縮に関する要望を申し入れましたが、2018年8月に沖縄のために身を挺して頑張った翁長さんがついに病気のため、その実現を見ることなく亡くなられてしまいました」。

翁長前知事の遺志は実現できたが、方徳輝の「琉球大交易時代の再建」という宿願は、ようやく肝心な一歩を踏み出したばかりである。「沖縄には、海外進出や海外企業の誘致をサポートするための中心となる企業がない。私はビンコウHDを沖縄版の『伊藤忠』にしたいと思っている。中国企業が沖縄を日本進出のジャンプ台とし、日本企業が沖縄を中国市場に進出するための中継点にするお手伝いをしたい」。

沖縄と福建、中国との密接な関係とウィンウィンは、すでに各分野で証明されている。沖縄を訪れた中国人観光客は2013年には3.8万人だったが、2018年には60万人を超え、沖縄は訪日中国人観光客の増加スピードが最も顕著な地方都市となった。外国人観光客を迎えるため、沖縄では現在ホテルなどを160軒増やす予定であるという。日本は2011年の東日本大震災後、建築材料が高騰したが、高くなった価格と巨大な市場ニーズが海を隔てた福建の企業に貴重なビジネスチャンスをもたらしている。地理的な有利な条件と海運コストの強みを生かして、中国の建材メーカーは沖縄の観光業の好況を受けて受注が増えている。そのような変化の背景には方徳輝の姿が見え隠れしている。

個人がしっかりと大地を踏みしめる一歩一歩が寄り集まって、最終的には時代を前に進める大きな一歩となる。方徳輝は福建から来て沖縄に定住した華人として、日中関係を新時代へと進めるエンジンの一つとなった。彼個人の奮闘の歴史は、現代沖縄の発展の歴史に記され、歴史の一部分となるだろう。