中国の著名画家・佟育智をしのぶ
「伝説の才能」で中国一を創造

2017年2月15日、本誌編集部に65歳になった佟大成先生をお迎えした。「日中国交正常化45周年記念 佟育智絵画展」(会場:日中友好会館、会期:3月28日~4月2日)の招待状を受け取ると、佟大成氏は次のように話した。「私の父・佟育智はかつて中国の著名な洋画家である衛天霖画伯に師事し、1982年に日中国交正常化10周年を記念して東京で『衛天霖遺作展』を開催しました。今年は日中国交正常化45周年で、同様に東京で『佟育智絵画展』を開催することは私と妹の宿願でした。天国にいる102歳の父が師の志を継いだことを知ったら、きっと喜んで感激してくれると思います」。故郷への思い、家族への思い、師弟の情。暖かい冬の日、さまざまな思いが渦巻く中、佟大成氏と一杯のお茶を手に、中国の著名な画家・佟育智の物語をお聞きした。

 

二人の泰斗が取り合った天才少年

佟家は満州族である。「小さい頃、民族欄を記入する時に、いつも父に『漢族』と書かせられた。父は私たちに家柄のことを知らせたくなかったのです。大人になってから自分が満州族出身で、祖先はかつて満州八旗の鑲黄旗に属していたことを知りました」、又「父はあまり自分を語らない人だ」と、佟大成は言う。

佟育智は欧米に留学した経験こそないが、中国画の大家だけでなく、西洋画の大家たちにも認められた高弟であり、彼はその時代における数少ない傑出した西洋画家であり、さらに卓越した肖像画家でもあった。しかし、彼は生前たいそう謙虚で腰が低く、自分を宣伝することもなかった。

佟育智は中国初の高等芸術学校である国立北平芸術専科学校の出身である。彼は幼い頃から絵が好きだった。当時、西洋画はまだ一般的ではなく、中国画と書を独学し、青年時代には画家になることを決め、大家のいる国立芸術専科学校を受験した。絵画科の中国画クラスを志望したのである。

当時、絵画科の入学試験には中国画専攻でも西洋画専攻でも、絵画の基礎であるデッサンがあった。まず見たこともない石膏像を見ると、続いてイーゼルの脇にいくつかのパンの塊が置いてあるのも見た。一瞬、彼は「受験生が絵を描く時にお腹がすかないようにするものかな」と思ったのだが、先生の説明を聞いて、パンはこすって画面の陰影をつけるため準備されていると知った。はじめてそのようなものに触れたのだが、彼は自分の才能を信じ、試験に臆さず、心を静め、細かく観察し、「完全写実」の心で、はじめての石膏像デッサンを完成させた。

その結果、佟育智は希望した中国画クラスに合格した。しかし、絵画科西洋画クラスの衛天霖画伯は彼が入学試験で描いた石膏像デッサンを見て、「このような西洋画の天才がなぜ私のクラスに入ってこないんだ」と嘆息した。そしてすぐに、斉白石画伯に佟育智を自分に譲れないかと談判しに行った。

才能を愛する心は皆同じだ。斉画伯は申し入れを断ったが、衛画伯はあきらめず、何度も交渉した。しかしどうしても解決せず、ついに二人の画伯は本人の意思を聞くことにした。

佟育智は、それを聞いてぼう然とした。「あ、あのデッサンですか。あれは私が入学試験のためにはじめて描いたものですよ」。衛画伯はそれを聞くとさらに喜び、驚いて「なんだって? はじめて? 斉先生、聞きましたか。彼がはじめて描いた絵は、私が数年間教えた弟子よりもうまい。こんな得難い天才を西洋画クラスに入れないというのですか。彼は天性の西洋画の人材ですよ」と詰め寄った。

このようにして中国画を学ぼうと志した若者は、その極めて優秀な天賦の才により、中国画クラスから西洋画クラスに引き抜かれたのである。特筆すべきことは、衛画伯に師事した後も、斉画伯は時間があると自宅に招き、臨書をさせて学ばせた。

斉画伯の自宅に何度も通ううちに、門番もこの優秀な若者の顔を覚えた。ある日、佟育智が画伯の家を訪れた時、門番から、「先生はたった今引っ越した。君が来たら渡すようにと残していかれた」と、斉画伯が自ら包んだ一枚の絵を渡された。包みの上には「佟育智君へ」と書いたメモも残されていた。時代の流れの中で、斉画伯の自筆の残る包装紙はすでに失われてしまったが、幸いなことにこの時の絵は佟家に残されており、往年の交わりのしるしとして、伯楽と名馬の故事にふさわしい物語となっている。

佟家のコレクションには、斉白石画伯から贈られた作品以外にも、張大千画伯の作品も収められている。中国画、西洋画の泰斗が同時に争った学生、佟育智の存在はもちろん張画伯も無視できなかった。当時、張画伯はいつも佟育智をアトリエに呼び、絵を描いているところをそばで見せた。一枚の絵がうまく描けると、佟育智に模写させた。張画伯は佟育智の才能を信じていたので、多くの言葉は伝えずに、ただ見せて描かせるという自由な環境を与えた。

人生にはさまざまな道があり、さまざまなチャンスがある。しかし、人生の節目に教えること、ヒントを与えること、導くことに長けた師にめぐりあえれば、人生の変化と成就は輝かしいものになる。佟育智は幸いにも、人生の成長の節目に一人ではなく何人もの師に恵まれたのである。

 

伝説の才能で中国一に

二人の泰斗から争われ、同時に張大千、関広志などの先生たちから「伝統の才能」を受け継いだ佟育智は、自身の名声と地位にその才能を使いはせず、歴史的遺跡を記録するため、また英才を教育するため、そして中国美術作品の世界的地位の向上のために心血を注いだ。

1953年、中国鉄道部鉄道出版社に勤務していた佟育智は、創作した油絵「北京正陽門列車駅」が新中国初の列車時刻表の表紙に選ばれ、北京正陽門列車駅という歴史的建造物の貴重な記念となった。

1954年、佟育智がデザインした「武漢長江大橋」は中国鉄道部によって長江大橋の初の国際的PR作品に定められたが、特筆すべきは佟育智が武漢長江大橋の未竣工時に、現場の状況や設計図から絵を構成したことである。

1956年、佟育智は何も参考となる画像のない情況で、史料文献の徹底的な研究と肖像画の技能により、中国の世界文化名人大会を記念する「インド古詩人カーリダーサ像」を創作した。この絵は『人民日報』や『世界文化名人』画集など多くの国のメディアや外国の雑誌に採用された。

1958年、すでに成功を治めていた佟育智は中央政府の厚遇と職を捨て、地方教育戦線支援という政府の号令に呼応し、普通の美術教師として北京第一師範学校で教鞭をとった。ちょうどこの頃は、北京市工芸美術学校が設立されたばかりで、美術界の重鎮を教壇に招く機運が高まっており、中央工芸美術院の張振仕先生の推薦によって、佟育智はこの学校に異動することになった。異動するやいなや、彼はすぐに教育プログラムをつくる仕事を担当した。まず、教育大綱を制定し、各科のカリキュラムを編成した。また透視学、芸術用人体解剖学、色彩学、デッサン、水彩画の技法理論など、絵画に関する課程はほぼすべてそろえた。また、自身もいくつかの科目を教え、忙しい教育活動のほかにも若い教師の育成も担当した。彼はこの学校で芸術を学ぶ学生たちのために、全心全力で最高の教育環境を構築したのである。

人生は山道のようで平らな道はない。文革時の1969年、佟育智は北京絨毯工場に「下放」された。10年間心血を注いだ学校は解散させられ、教育ができなくなっただけではなく、自身も絵を描けなくなり、一般の労働者と同様に絨毯織機の前に座って絨毯を織る作業を繰り返した。1972年になって知識分子への改造が緩和され、「臭老九」(インテリ)は才能を発揮できる部門の仕事に異動させられた。佟育智も絨毯工場を離れ、絨毯会社のデザイン室に異動した。

まもなく、上級機関が大型の美術工芸展の開催を決定したので、絨毯会社も作品を出展することになった。このデザインの仕事は当然佟育智に任された。出展する作品の芸術性を高めるため、佟育智は油絵をベースとして、万里の長城をタペストリーに折り込むアイディアを出した。当時、まだなされたことがない試みであり、それまでのタペストリーのデザインのアイディアを完全に超越していたので、最初は大きな抵抗に遭った。しかし、幸運なことに専門知識のある上司が、佟育智の風景画をベースとしたタペストリーのデザインを認め、西洋画と中国伝統のタペストリー芸術との巧みな結合で、タペストリーで油絵を再現する先鞭をつけるものだと支持したのである。

上司がゴーサインを出したので、佟育智は学生とともに八達嶺でスケッチを開始した。数カ月かけてさまざまな角度から多くの長城を描き、最終的に一枚を選び、拡大して制作に入った。制作過程で彼は、色彩に関してまったく妥協しなかった。すでに30センチ以上織り上がった作品を捨てて、新しく作り直すこともあった。文革がまだ収束していなかった当時、これは大変勇気のいる行動だった。

その結果、大型タペストリー「万里の長城」がついに完成した。近くに寄れば触れられるが、遠くから見ると果てしなく巨大な油絵のモザイクが額縁の中に現れた。実はこの額縁の部分も木の色をした絨毯で編んで作成されたものであり、完全に平面なのである。長城の内外は青々としており、一陣の北風が吹き抜けたかのように、草や木の葉ものびのびとして明瞭である。

このタペストリーは全国の美術工芸展に出展された。有徳の人、朱徳委員長は杖をついて2回鑑賞したが、いつもタペストリーの前にしばらくたたずみ、子細に眺めていた。この後、中国が国連に復帰した際、国連へのはじめての贈呈品を選ぶにあたり、朱徳委員長はすぐに「タペストリー『万里の長城』は中国を代表する」と話した。現在、このタペストリーは万国郵便連合のスイス本部のロビーに飾られている。

周恩来総理はこのことを知ると、北京絨毯工業総公司にさらに1枚をオーダーし、オーストラリア首相に贈呈して国交樹立の証とした。現在、このタペストリーはオーストラリア国立博物館に展示され、世界でも貴重な美術工芸品となっている。

佟育智は多くの名誉を得ても、依然として公僕に甘んじ、1973年からまたもくもくと元の職場で働いた。文革中に閉じられた北京市工芸美術学校の復活に尽力し、数年間の苦労の末、1977年にようやく再開された。彼は教師としてまた教育に携われるという願いがかない、万感がこみ上げた。

 

弟子は恩師に仕え、長男は父に孝行する

1978年は佟育智にとって心に深く刻まれる年となった。恩師・衛天霖画伯との永遠の別れが訪れたのだ。老齢となり病弱になっていた衛画伯はそれでも創作を続けていたが、畢生の大作『孔雀』は完成できそうになかった。そんな情況の中、衛画伯が代筆を頼んだのは、他でもなく斉白石画伯と取り合った愛弟子の佟育智であった。

佟育智は師の恩に報いるため衛画伯が亡くなる前に「孔雀」を完成させた。画伯は感動し、この作品を師と弟子の共同作品として後世に残すと言い張った。佟育智は固辞したが、衛画伯はゆずらなかった。佟育智は仕方なく目立たない場所に小さくサインをせざるを得なかった。

1986年は佟育智の長男である佟大成にとって忘れ難い1年となった。その年、彼は軍隊に入って学校を離れた6年間を補なうため日本留学のチャンスを得た。しかし、彼が最も敬愛する父、著名な画家佟育智はリンパがんを患い闘病していた。

彼は留学のチャンスを放棄し、父のそばに付き添おうとしたが、父は何といっても納得せず、息子を計画通り日本に留学させようとした。そして、佟大成が日本に赴いてまもなく巨星は墜ち、佟育智が画壇に残した伝説が広く知れ渡った。

歴史に名を残す天才が世間にはどれほどいるだろうか。われわれは佟育智画伯を忘れることはないだろう。2015年は佟育智生誕100周年であり、北京工業大学芸術設計学院(旧工芸美術学校)は、創立55周年を記念して佟育智画伯の記念展覧会を開催した。

佟大成は親孝行のため、「大紅袍」と称されている『中国近代名家画集―佟育智』と『佟育智生誕百周年記念作品集』を出版した。今回の記念展覧会と作品集の出版がなければ、あるいは多くの人が、中国にかつてこれほど卓越した芸術家がいたということを知らないままだったかもしれない。