趙 龍光、里 燕 画家
日本画壇で活躍中の水墨画家カップル

水墨画を鑑賞する時、中国人は墨の色にすがすがしく優雅で、悠然たる雰囲気を感じ、長久の風情を味わう。一方、西洋人は不整合なモノクロの線と細々とした模様と色彩しか目に入らず、その感想は要領を得ない。鑑賞の場では、文化の違いが突出して現れるのかもしれない。「真に迫った1枚1枚の水墨画の背後には、確たる文化と歴史の蓄積があり、文化的背景がなければ、その真意は理解できない。しかし、西洋人とは違い、日本人は中国の水墨画に一家言あり、中国人に大変近い見解すら持っている。日中両国には文化上多くの共通点があり、それが民衆の思想や意識に根付いているからだ」。在日華僑の水墨画家であり、華僑華人文学芸術家連合会常務理事も務める趙龍光は感慨深げに話した。そして、妻の里燕も日本画壇の大物である。夫は一筆もおろそかにせず、緻密で落ち着いた雅な画風で知られており、妻は筆の先に情熱を込め、深い表現、大胆な手法で称賛されている。

 

 

技巧を教える前に人を育てる

「特異な先生」

趙龍光は安徽省霍邱出身で芸術家の血筋であり、父は著名な画家の趙不仁である。1986年、趙龍光は見聞を広めるために日本に留学し、多摩美術大学と東京学芸大学の美術教育専攻で学んだ。多くの留学生が勉強とアルバイトに明け暮れている時、早くも趙龍光は日本画の分野で頭角を現し、日本の芸術界の注目を集めている。その後、日中友好に携わる人々のサポートによって、趙龍光は「龍光水墨画院」を設立、素晴らしい水墨画の創作、教育、展示によって、中国絵画芸術を大いに発揚し、この学校は日本でも有名な美術学校の一つとなった。

多くの人は趙龍光の成功を、彼の画家としての実力によるものと認めている。人物画はもちろん、花を描いても山水を描いても、墨色の濃い部分には深い感情を、薄いところは淡い感情を、墨が置かれていないところには情が尽きていることを感じさせて素晴らしい。しかし、趙龍光自身、こういったことはおそらく一番重要ではなく、良い絵を描くには良い人品が必要だと言う。

趙龍光はかつて多くの画廊を見て回り、千篇一律ではなく自由奔放な水墨画もあることに気づいた。中国伝統の水墨画を発展させるには、伝統を継承するだけでなく、新機軸を打ち出すべきだ。しかし、描き始めるとすぐに疑問を抱いた。「バランスをとるのがこんなに難しいとは」。彼は細かく作画の技法を研究したが、結局アンバランスになる原因は分からなかった。

絵画そのものの原因ではなく、絵画の外に原因があるのではないか。趙龍光はいろいろと調べた結果、一部の画家は「世俗化」して、金のために描いており、その作品は工場の生産ラインのように生み出され、完成前からプロモーションを行う……、そのような作品のどこに芸術的価値があるというのだろうか。千篇一律の感覚は免れないではないか。

そして、趙龍光は日本の画家の多くが一つの作品を完成させるのに長い時間をかけることに感動した。より良い効果を出すため、たとえ経済的に苦しくても用紙、材料などには多額の費用を惜しまず、少しのごまかしもしない。彼らは、作品が自分を必要としていること、紙の上で作品と添い遂げることしか考えていない。真の芸術的価値を持ってこそ共感と承認が得られるのであり、これは金銭とはあまり関係がないことなのだ。

作品の緻密さゆえに、ひたすら個性を強調し、艶やかさを浮き立たせる人たちがいる。趙龍光は、一部の人たちは艶やかさが芯にあるので、表現すると可憐に感じさせるが、もしこういった潜在的な能力がなければ、わざとらしくなり、見る人を不快にさせるという。日本の優秀な画家には往々にして高い文化的素養があり、創作の前に半年以上も図書館で絵画のテーマについて下調べすることさえある。どの時代か、どの場所かにかかわらず、優秀な画家になるには、歴史、哲学、詩歌など多くの本を読んで自分の頭の中を豊かにし、思考を広げなければならない。

趙龍光は自らの行動で規範を示し、一枚一枚の作品に精根を傾け、自分が満足できない作品は、くしゃくしゃに丸めて捨ててしまい、絶対に出展しない。生徒たちには絵画の技巧を教える前に、何度も「絵はその人自身であり、品格が低ければ、作画も高いレベルには到達できない。集中できなければ大成しない」と戒めている。技巧を教える前に人を育てる趙龍光は、日本人の生徒たちに「特異な先生」と呼ばれている。

 

仏教を理解した

「個性的な画風」

女性画家といえば、花鳥風月を描くものと想像するが、この視点から見ると、里燕は画家の中では「男勝り」に属する。彼女が得意とするのは高山、そして仏画だからだ。

夫の緻密で細かい南方人の性格とは違い、陝西省出身の里燕は身体に黄土高原の強い風が吹き抜ける豪快な性格を持っている。さらに育った環境によって形成された独特の個性と気質が、彼女の絵の中に現れている。

明るい性格の里燕が絵を描く時には、思い切って筆をふるい、あまり深くは考えない。まず見て、考えた画面を一気呵成に描く。修飾していく時には、墨痕が途切れたところに、自然に空白が留まり、濃密かつ重厚、世界の果てをかすめて風景を見ているようだ。彼女の作風は意気軒高である。そして、この特長が山から仏画へと里燕を導いたのである。

彼女は中国にいる時には仏画は民俗的なものと思い、興味を持っていなかったが、来日してから山を描くためにチベット一帯の風土や風俗に注目した。かの地の濃厚な仏教文化の雰囲気が彼女にインスピレーションを与え、頭の中には連なる山々だけでなく、さらにさまざまな仏のイメージが加わった。

仏教、禅は難解である。仏画を描く時に里燕は禅を理解し、さらに人生への悟りを開いた。日本滞在が長くなると、中国と日本の仏画はよく見ると異なることにも里燕は気づいた。

中国人の描く仏画は往々にして威厳があり、厳粛だが、日本人の描く仏画は慈愛に満ちて優しい。これはなぜだろうか。日本人は仕事をしている時は上下の別が厳しいけれども、生活の中では平等である。家でお客を接待する時には、どんな人に対してもお茶を出し、分け隔てしない。まさに中国の古い言葉「君子の交わりは淡きこと水のごとし」である。日本人の心の中の仏は人々に安寧をもたらす年長者であり、友人のようなものであり、中国人にとって仏は危機から救ってくれる守護神と見られている。このほか、中国は昔から多民族国家であり、仏画は各民族の特徴を融合させており、仏像と人間の像とはまったく違う。しかし日本は単一民族国家であり、仏像と人間の像は同じようである。つまり仏画から見ると、中国の仏は神に近く、日本の仏は人に近い。

同じ仏画でも日中ではこれほど異なる。これは共通の文化の中にも違いが含まれていることを物語っていると里燕は考えた。「私はよく『個性的な画家』と言われます。中国人には私の描く仏は日本の仏だと言われるし、日本人には中国の仏だと言われます。これは私が日中両国に染まっていることと関係あるかもしれません」と里燕は笑う。

 

ライバル同士の火花を喜ぶ

「特異」な趙龍光と「個性的」な里燕は、それぞれ独自の個性によって相思相愛となり最後には家庭を持った。しかし、安らかであるはずの家庭生活にも時には火花が散る。

「同業者は仇も同然」ということわざがある。夫婦ではあるが同じ画家である。「家庭内戦争」が起きれば敵対してしまう。里燕は冗談好きで、「彼の名前はいいわ。龍も光もあるから、学校の名前にも彼の名前を使ったのよ」。だが、里燕にも「自己満足する」時がある。女子大が彼ら夫婦に授業をしてほしいと希望したが、結局、里燕を非常勤講師として招いたのだ。彼女は「彼は男だから引き下がるべき時もあるわ」と笑った。

夫妻は通常、各自のクラスを持っている。しかし、趙龍光は時間があると教室に来て生徒たちの作画を見るのが好きで、見ていると我慢できず、注意をしてしまう。そうすると里燕はいつも怒って、「規律」を守るように言わずにはいられない。画風が違うため、それぞれにクラスを開講し、相手のクラスに口を出して教えることはできないのだ。生徒たちは里燕のクラスが終わると次に趙龍光のクラスに出て、自分で比較したり、同級生たちと話したりした結果、次第に里燕の生徒は趙龍光よりも多くなっていった。しかし、女性には絵の才能があるし、妻には高い素質があり、絵も素晴らしいことを趙龍光は認めている。

里燕の創作中、趙龍光はアドバイスするのが大好きだ。画風も違い、一人はしゃべるのが好きだが、一人はそれに屈せず、家庭内はいつも火花が散っている。こういった場合、里燕は筆を止めて絵を投げ出してしまう。しかし、2、3日たって、趙龍光の言うことももっともだと思うと、里燕は彼の意見を取り入れて絵を完成させる。

月日が経つにつれて、二人の画風は次第に融合してきた。多くの展覧会で、友人たちは彼らの作画が「夫婦の区別がない」と言う。とはいえ、二人が家庭内でどんな火花を散らしていても、ある一点については争うことはない。それは日中民間交流を全力で促進するということである。二人は連続11年間日中友好画展を開催し、華僑華人界の活動に積極的に加わっており、皆に高く評価されている。昨今の厳しい情況のもとでの日中文化交流について、里燕は生き生き語ってくれた。「二人がケンカをして頭に血が上っている時には、両方をよく知る中間にいる人が活躍してなだめる必要があります。日中両国にとって、その中間にいる人とは“文化”なのです」。     (敬称略)