中山 克成 ベース株式会社代表取締役社長
10年サイクルで素晴らしい人生が開ける

――「相互尊重」

日本社会に溶け込む

中山氏は上海で生まれた。1920~30年代には「東洋のパリ」と呼ばれた上海。東西文化の交流と衝突が、上海人の新しいものに対する受容力、異文化に対する包容力を育てた。彼はこの上海人のアドベンチャー精神と実務能力の両方を合わせ持っている。

1977年、大学に進学した中山氏は、人生で初めての重要な選択を迫られた。俗に「男は職業選びの失敗を恐れ、女は結婚相手選びの失敗を恐れる」とも言うが、大学での専攻は、往々にして人生の職業の方向を決める。この時、彼の前には、カラーテレビ専攻とソフトウェア専攻という2つの選択肢があった。当時はカラーテレビもまだ珍しかったが、ソフトウェアに至っては聞いたこともない代物だった。

だが、誰もが知らないということは、全く新しい仕事であり、将来性もあるということだ。中山氏は迷うことなく、ソフトウェア専攻を選んだ。そして、これが一生をかけて取り組む事業となったのである。30数年を経た今、カラーテレビは既に「斜陽産業」となり、片やソフトウェアは時代をけん引している。

大学卒業後、ソフトウェアの仕事に就いた中山氏は、5年目に壁に突き当った。当時の中国のソフトウェア業界はまだ歩き始めたばかりだったが、欧米と日本では既に産業として成り立っていた。やるからには最高のもの、先進レベルがどんなものかを見てみたいと考えた彼は、1987年、学費と渡航費をかき集め、日本へ渡った。高層ビルの立ち並ぶ東京の街角で30歳を過ぎた中山氏は、「人は『三十にして立つ』というが、自分はまだ何も得ていない。時は待ってはくれない。10年間学び、10年間で起業し、10年間で発展させ、日本に自分の世界を創ろうと思った」と感慨深く語る。

考えが決まると、中山氏は日本語学校に入学した。同級生たちが大学や大学院に入るため焦って苦労している時、彼は自分の人生について真剣に考えていた。「自分には中国で築いてきた業務経験と熟練した技術がある。進学して就職するという留学生の典型的な道は行かず、新しい道を切り開こう」と。

日本語学校で1年間学んだ後、中山氏はしどろもどろの日本語で就職活動に励んだ。「天は自ら助くる者を助く」の名言通り、彼は程なく日本のソフトウェア会社の面接まで進んだ。面接の際、彼は身振り手振りを交えて社長に「私には人生計画があり、この会社で10年間働き、その後は起業するつもりです。でもこの10年間は誠心誠意、会社のために働きます」と正直に訴えた。社長は黙ってしまった。経験と技術があるにせよ、日本語が不自由で10年間だけ働くという人を使えるだろうか。しかし、中山氏の瞳の中に見える誠意は、他の人とは比較にならなかった。社長は噛んで含めるように、「私はあなたの誠意が気に入った。誠意は私が最も尊重するものです。あなたが私を尊重するなら、私もあなたを尊重します。当社に来てください。一緒に10年間働きましょう」と中山氏に告げたのである。

中国人は「龍の子孫」と言う。入社当時、中山氏は一人で頑張った。会社のために利益を出したとはいえ彼の「孤軍奮闘」、会社の雰囲気には馴染めなかった。中国の会社は個人の能力を重視するが、日本の会社はチームワークを大切にする。彼が衝突したのは避けられないことだった。しかし、会社は彼を尊重し、長所を伸ばした。

日本の顧客からの電話を受けることは、大きな試練だった。いくら技術が分かっていても、日本語がうまくない中山氏にとっては、いつも「急須で餃子をゆでる(口から出てこない)」状態で、具体的な技術問題の説明もうまくできなかった。しかし、こんな時には日本人の同僚がすぐに彼を助けてくれた。しばらくして、会社のナンバー2が、「今日から君のプロジェクトグループに入る。君は僕の上司だから指示に従うよ」と彼に告げ、毎日中山氏の指示を仰いだ。

上司が、部下という身分となって中山氏を導いたのである。身をもって規範を示し、日本の会社ではどのように仕事をするのか、どのように同僚と協力するのかを教えたのである。中山氏は尊重され、信頼されていることを実感し、すぐにチームに溶け込んだ。

10年後、社内の3分の1が中山氏の部下となり、業績は以前の数倍になっていた。会社は彼に仕事の舞台を提供してくれ、彼も日本社会に溶け込んだ。これらが相互尊重のもととなった。

 

――「誠心誠意」

喜びのある会社を作る

1997年、中山氏は正式にベース株式会社を設立し、自身の事業を始めた。良い会社を経営するには何が一番大切か。それは「人材だ」という。どのように人材を引きつけ、引き止めるか。彼は誠心誠意、従業員を大事にすることだという。

ベースの大部分の幹部社員は10数年中山氏に従っており、初期の社員たちは現在では経営側に移っているが、この業界では珍しいことである。

昨年、iPad miniが発売され、多くのファンが並んで購入していた時、ベースの全社員はすでに1台ずつ手にしていた。中山氏は社員に「iPad miniは仕事用ではないので、好きに使ってよい」と言った。どういうことか。彼は、新しいものに触れなくては新しい考えも出ないし、学習精神も持てないからと説明する。彼は社員たちにずっと潮流に乗り続けてほしい、固定した思考モデルを作らないでほしいと願っている。なぜなら、会社には創造性が必要だからだ。

中山氏の会社には20以上の同好会がある。登山、ゴルフ、スキー、女性たちの美白研究まである。彼は、彼女たちに勤務時間に隠れて交流するよりも、堂々とさせたほうがいいと考えた。

同好会活動を応援するため、ベースは年間数百万円を投入している。同好会によって、お互いに触れ合い、理解し、良好な人間関係を作れるだけでなく、会社の求心力も増し、社員も心身の快適さを感じられる。この他、会社は各種の保養施設も提供している。

会社が社員のことを考えれば、社員は逆に会社のことを考えるし、社員に対して投資し続ければ、社員は一生懸命会社のために働く。会社が発展すれば、社員も喜びを感じる。このような良い循環が非常に重要だと中山氏は話す。

 

――「ベストを尽くす」

難関を乗り越える

ベースが誕生したころ、日本経済は低迷期にあった。中山氏は、激烈な競争の中に生存と発展があることを期待し、10年を一つのステップとして、一つひとつの仕事を確実に行おうと考えていた。この目標達成のためのキーワードは「ベストを尽くす」である。

中山氏の考える「ベストを尽くす」とは、顧客が期待するよりもさらにいいものを提供するということだ。ベースの社員は金額の多少を基準とせず、自身の努力によって顧客からの尊重を獲得しているのである。

中山氏は「ベストを尽くす」、つまり絶えず研さんを積むために会社は中国人と日本人の両方の思考を備える必要があると考えている。よって、同社の300余名の社員は中国人と日本人がちょうど半々である。しかし、時には1+1が2より大きくなるとは限らない。どのようにすれば中国人社員と日本人社員ともに役割を発揮させることができるか。それは「長所を伸ばし、短所を避けること」だと言う。

日本人社員は顧客との付き合いに長けており、顧客の潜在的需要を汲み取ることができ、文書の作成もうまい。中国人社員の長所は、新しいチャレンジをし続けることで創造力があることだ。中山氏は、日中の社員の能力を一つに合わせ、中国人社員が文書を作成する時は日本人社員が助けるよう、日本人社員が顧客の新しいニーズに応えようとする時には中国人社員が助けるように頼んでいる。日本人でも中国人でも、成績を上げ貢献すれば同様に昇級昇進でき、国籍による違いはない。

中国人社員と日本人社員の間に意見の相違があったときには、一緒に討論し、各自が出したプランを試し、効果が上がればみんなが心から敬服する。

コンセンサスが得られ、共に目標に向かって努力してこそ、真の「ベストを尽くす」が実現できる。そしてこの「ベストを尽くす」によって、ベースは創立時の4人の企業から、中国と日本に従業員500余名、年間の売上高45億円のソフトウェア開発企業に発展した。

現在、彼らは自動車運転データのクラウド・コンピューティングという、まったく新しい領域に向けて開発を進めている。2011年、中山氏はクラウド・コンピューティングの企業での運用を専門とするbbc株式会社設立に投資した。社員を率いて自主研究開発を2年近く行い、bbcは6月に初めての製品を世に出した。

「人生の価値を実現し、人生の素晴らしさを生み出すことは難しいことではありません。10年ごとのステップを自分に納得して引き継いでいけば、人生の答えを探し出せるでしょう」と、中山氏は感慨深げに語った。現在、彼は既に次の10年に向けて計画を立て始めている。

 

中山 克成

<Profile>

1957年、中国上海市生まれ。87年に来日。88年、中堅ソフトハウスでシステム開発に従事。95年、日本国籍取得。97年、ベース株式会社を設立し社長に就任。2002年、本格的に中国進出。08年、貝斯(無錫)信息系統有限公司を設立。11年、bbc株式会社を設立(現会長)。