劉 炳義 日本テピア株式会社代表取締役社長
「月光族」が「人脈長者」に

最近、国内外の華僑華人がチャイナドリームを熱く語っている。在日華僑企業家で、日本テピア株式会社の劉炳義代表取締役社長は、“平凡な夢を大切にすることの大事さ”を説く。「チャイナドリームとは何か? それは一人ひとりの中国人が思い描く夢の総体としての民族の夢でしょうが、個々人の夢というのは必ずしもスケールの大きなことでなく、ごく平凡な夢が大切なのです。」と劉社長は語る。母親を喜ばせ、友人に認められ、社会のために何かする。彼は平凡な夢を抱きながら、真っ直ぐに希望の大道を歩んでいる。

 

母を喜ばせた

貴州の“ちびっ子”

1980年9月1日、当時まだ16歳にも満たない劉炳義は、二日二晩列車に揺られ、武漢水利電力大学(現武漢大学)の門の前に立った。大学に入学するためだ。「ここは大学の受け付けです。附属中学の受け付けは向こうです」と職員に言われ、最初の屈辱を味わった。身長154cm、体重40kgの小さな身体は、どう見ても大学生には見えなかった。合格通知書を差し出してやっと信用してもらえた。そして“ちびっ子”が彼のニックネームとなった。

“ちびっ子”は常に栄養不良であった。一家は農村で生活していた。家には頼れる大人もいなかった。父親は働きに出ており、年に一度しか帰って来ない。小さな村にある学校に通うには、数里の山道を歩かねばならず、幾つもの村を越えなければならなかった。

彼は「母が病気になると寄る辺もなく、自殺を考えるほど苦しかった」と話す。彼には生活苦に喘いでいる母を喜ばせたいという夢があった。その夢が彼を支えた。彼は必死に勉強し、中学でも高校でも大学でもトップの成績を修めた。ただ母の笑顔を見るためだった。「母親を心の底から笑わせること、それが少年時代の夢でした」と噛み締めるように語った。

 

“本業に就かない”

学内活動家

1985年10月、ずば抜けて成績優秀で品行方正だった劉炳義は、中国国家教育委員会の派遣留学生として、日本の名門京都大学に留学した。共に留学に来た仲間は、すぐに図書館や研究室にこもって必死の勉強を始めた。しかし、劉炳義の考えは違った。中国の文化と強い結びつきのあるこの島国が、なぜこんな驚くべき発展を遂げることができたのか? 日本人と中国人の考え方は近いのか? 彼らとどのように付き合えばよいのか? 生活の中で遭遇した文化の違いが彼の疑問をさらに深めた。閉じこもって勉強だけしていては、こうした疑問に対する本当の答えが得られようはずがない。

劉炳義の最初の社会活動家としての成果は、日本に来て2カ月の頃開催された、年に一度の京都中国留学生忘年会で、彼が編集した中国人留学生のための月刊誌『留学生活』(後に『嵐山』に改題)を発表したことであった。「日本語を学び始めて1年にもならないのに、日本の中日友好人士に取材に行きました。正に“生まれたばかりの子牛は虎を恐れない”とはこのことです」と回想する。

彼には、日本の学生と友達になり、中国人を真に理解してもらいたいという新たな夢が芽生えた。まもなく、日本人の社交サークルに、一人の楽観的で豪快な中国人が加わった。中国人留学生と交流するだけでなく、彼は余暇を利用して、日本人を招いてお酒を飲んだり、歌を歌ったり、ボーリングをしたり、お金をかけて誕生日パーティーや様々な友好活動もした。多くの人の目には人との付き合いに浪費する「月光族」のような彼の姿が“本業を忘れている”と映った。しかし後になって、彼が付き合いに熱中していたのは、人生で最も重要な財産である人脈をつくるためだったのだと知ることになる。

学生時代に友情を結んだ日本の友人たちは、彼の事業発展に力を貸してくれただけでなく、彼に日本の社会と文化を正しく理解させてくれた。「これらはみな、私が夢を実現しようとした時に得た無形の財産です」と語る。

 

企業の総帥として

事業で国に報いる

80年代はまさに日本経済の絶頂期であった。当時の中国はといえば、改革開放の初期段階にあり、すべての面において日本からは大きく遅れをとっていた。

京都大学で中国人留学生会副会長を務めていた時、常に劉炳義の頭にあったのは“国のために何か貢献しなければならない”ということであった。国に報いることが彼の新たな夢となった。中国国内で災害が起きると、街頭で募金活動を行い声が枯れるまで訴えた。大変であったが、彼の心は感激で満たされていた。

大学院の博士課程修了時、彼には三つの道があった。帰国して教師になること、帰国して政治に関わること、帰国して事業を起こすこと。いずれも“帰国”がキーワードだった。ところが、「国に最大限に貢献したいなら、厳しい試練に耐えた技量が必要だよ。自分には何かあると思う?」と、ある日本の友人の言葉に心を動かされ、日本に残ることを決めた。そして、関西電力グループで技術コンサルティングの仕事に就いた。「あれは運命的な出来事でした」と、当時を振り返る。

入社間もなく、彼は再び奇跡を起こした。部門で唯一の外国人が最年少の課長となった。彼が率いるグループは4人で、毎年5億円を売り上げ、年俸は1000万円を超えた。彼は会社の伝説となった。ところが2000年、36歳の時、退社して起業するという決断を下す。

当時の中国では、高度成長に伴い様々な環境問題が露呈し始めていた。彼はそこに着目し、“事業で国に貢献する”という夢の実現に動き出した。彼は、環境技術の導入、環境評価コンサルティング、環境産業への融資などを一体化した、日本テピア株式会社を設立した。先進的環境エネルギー技術を中国に導入し、多くの環境関連の日本企業が中国に進出できるようサポートし、中国の環境保護事業に参画するため、毎年、一年の半分は中国の広大な大地を奔走している。

設立から13年を経て、日本テピアは中国と日本に足場を固め、アジアのグローバル企業にサービスを提供するなかで、業務を、環境保護、水、エネルギーから第一、第二、第三次産業へと拡大した。日本テピアはテピアグループの中核企業として、日本に3つの子会社、中国に6つの持ち株・出資会社を持ち、シンガポール、ベトナム、タイ、インドネシア等に海外事務所を有する多国籍企業グループに発展した。

彼は、国に貢献するという夢に向かって突き進み、事業はすでに中国からアジアへと広がっている。

「生きていく上でのプレッシャー、どうすることもできない現実、多くの人がそれでも前を向いて生きていかなければならない中で、どれだけ前に進めるでしょう? 人を前に進める力、それが“夢”なのです。それはどんなに平凡な夢でもよいのです」。劉炳義は落ち着いた口調で語った。 (敬称略)

 

*俗語で月給を使い切ってしまう人々の意

 

<Profile>

1984年、武漢水利電力大学(現武漢大学)卒。85年10月、中国政府派遣留学生として来日。92年3月、京都大学大学院工学研究科修了、工学博士。同年4月、株式会社ニュージェック(関西電力グループ)入社。2000年3月、同社を退職し、テピア環境デザイン株式会社(現日本テピア株式会社)と株式会社ハイドロソフト技術研究所を設立。