王 效賢 周恩来総理の日本語通訳
中日友好は国益で単なるスローガンではない

1972年9月27日の夜、北京で毛沢東主席と田中角栄首相が初めて握手をかわした。この歴史的な会見によって、両国の国交正常化が決定した。二人の指導者は何を語ったのであろうか。当時を知る、会議に参加した中日双方の指導者たちは、すでに亡くなっている。このとき、毛主席、周総理らの指導者の日本語通訳を担当した王效賢氏は、この首脳会談の生き証人である。

特記しておきたいのは、80歳を過ぎた今も中日友好協会の副会長として活躍する王氏は、もう長い間メディアの取材を受けていないことである。今回、『人民日報海外版日本月刊』が在日華人の起業家、楊嘉麗氏をとおして取材を申し込むと、王副会長は喜んで応じてくださった。「楊さんのお父様は中日漁業協会の初代会長で、わたしの上司だった方です。そのお嬢さんの頼みとあればお引き受けしないわけにはいきません」と記者に話された。心あたたまる思いがした。

中日友好協会で王副会長に、中日国交回復以前の20年間の民間友好活動から、1972年の中日国交正常化実現にいたるまでを、また1978年の中日平和友好条約締結にまつわる紆余曲折を語っていただいた。

関係を発展させるには相手の関心あることをすべき

―― 王副会長は対日外交の仕事に長く携わってこられ、1972年の中日国交正常化の重要な証人でもあります。当時の中国政府というか周恩来総理が、中日の国交回復のためになさったことを思い起こし、お話しいただけますでしょうか。

王效賢 中日国交回復については、1972年から話す方が多いですが、実に、20年の準備期間があったのです。1952年でしたか、モスクワで国際経済会議が開かれました。中国からは経済界の指導者、南漢宸氏と雷任民氏も参加しました。出発前、周恩来首相がお二人に、日本からは国会議員が参加すると思うが、中国に来てもらうようにと命じたのです。当時、日本からは高良とみ参議院議員、宮腰喜助衆議院議員、帆足計衆議院議員がその会議に出席しました。周総理はその人たちを中国に招待するように指示したのです。

中日間には外交関係がなかったので、高良とみ氏らはヨーロッパ経由で来ました。新中国を初めて訪れた日本の方たちです。わたしはその頃から中日関係の仕事に携わってきました。

その当時、日本人がもっとも懸念していることが二つありました。一つは中国に拘留された日本の戦犯がどうなるのか。もう一つは中国に残った日本人がどうなるのかということでした。早くから総理はそのことに気がついていました。そこで、1951年に中国赤十字会の李徳全会長をとおして日本側に次のように伝えました。3万人に近い日本人が中国に残っているが、日本に帰りたいのなら、中国は応じましょう。しかも居住地から日本の船に乗るまでの旅費を中国側で出しましょうというのです。日本側はもちろん喜びました。そこで、1953年の初め、当時の吉田内閣は初めて中国で交渉する三団体(日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会)の代表団に中国へいくパスポートを発行しました。中国側は廖承志氏を団長とする中国赤十字会代表団が交渉に応じました。この事業は成功しました。このように中日関係は周総理の指導のもとに進展したのです。

1954年、周総理はまた、上述の三団体の答礼訪問に応じた李徳全会長に、戦犯全員のリストを日本側に渡すように命じました。双方による協議を経て、1062名の日本の戦犯中、1017名が釈放されました。処分の重い40名は8年から20年の有期刑に処されましたが、死刑判決を受けた人はいませんでした。これらは日本側が最も懸念していたことでした。

中国は日本に対して礼をもって交渉

―― 田中角栄氏が北京に来てから、中日は国交正常化交渉を4回も行いましたが、そのなかで、とくに印象に残ったのはどんなことでしたか。

王效賢 周総理は日本側を尊重し、失礼のないように気をつかわれていました。それで、交渉場所は中国側の人民大会堂で、日本側は田中首相の宿泊先となった釣魚台国賓館で行いました。

国交正常化交渉は歴史の認識問題から始まりました。田中首相は総理の歓迎宴会でこの問題を提起しました。そして、中国を侵略したことを承認せずに、ただ「中国にご迷惑をかけました」とだけ言いました。「迷惑」という言葉に中国側はひっかかりました。総理は第1回の会談でこのことに言及し、「『迷惑をかけた』という言葉だけですませられるのですか」と話したのです。女の子のスカートに水をかけてしまったような時ならいいですよ。日本による侵略戦争で中国はあれほど大きな損害を受けたのです。迷惑をかけたという言葉ですまされるものでしょうか。これが一番印象深かったことです。

それから次は、賠償についてでした。中国はたいへん友好的に戦争賠償を放棄しました。しかし、思いがけないことに、日本側の交渉メンバーである高島益郎条約局長が「これは話し合う必要がない」、蒋介石との日台条約で解決しているからだと話したのです。総理は激怒しました。ふだん総理はとても冷静な方ですが、あの時はほんとうに怒っていました。「それはどういうことかね。蒋介石は台湾に逃げたんだ。賠償を放棄する権利がどこにあるのか。他人のふんどしで相撲をとるようなことだ」。「他人のふんどしで相撲をとる」この言葉を一生忘れられませんね。

その後は台湾問題が話されました。日本は台湾問題を保留にして中国と国交を樹立しようとしましたが、無理な話です。この問題には長い時間が費やされましたが、最終的に解決にいたりました。

1972年9月27日の夜、毛主席は中南海の書斎で田中首相の一行と接見しました。大平正芳外相、二階堂進官房長官も同席しました。会談は1時間近くにおよびました。主席は前に進んで、田中首相と握手しました。「毛沢東です。わたしは官僚主義者で、お会いするのがこんなに遅くて」とユーモラスに話しました。毛主席のこの言葉を聞いて、みんな笑いだしました。田中首相が大平外相を毛主席に紹介すると、毛主席は「まあ天下太平に」と洒落を言いました。

それまで緊張していた空気が一変になごみました。毛主席は田中首相の隣に座りました。腰をおろすと、またユーモアを交えて「喧嘩はもう終わりましたか」と言ったのです。そして、「例の『迷惑をかけた』はどうなりましたか」と聞きました。唐聞生さんを指して「田中首相の『迷惑をかけた』に、彼女はかなりご不満らしいな」と冗談をいいました。田中首相が「中国側の要望にそって改めました」と答えると、毛主席は「喧嘩をしなければ駄目です。喧嘩して、はじめて仲良くなるのです」と言いました。

その年の9月29日、中日両国政府の首脳は北京で『中日共同声明』に署名し、両国の国交正常化を宣言しました。

中日の国交交渉では釣魚島問題には触れず

―― 今、一部のメディアは釣魚島問題を報道する際に、当時、田中首相は外務省の役人を伴っていなかったので、「あの島のことはどうしますか」と周総理に尋ねると、「今回、この問題はやめておきましょう」と周総理が答えたと言っています。こういうやりとりがあったのでしょうか。

王效賢 田中首相はさりげなく持ちだしました。周総理は「今回はやめておきましょう」と言いました。ですから、話し合っていません。平和友好条約の署名の時も話しませんでした。前後二回とも話していません。その後、1978年頃に問題になってきたのです。当時、鄧小平が訪日した際の記者会見で、ある記者の質問に対し、「この島については、双方の呼び方も違います。中国では釣魚島と呼びますが、日本は尖閣諸島です。双方は立場も異なります」と答えました。また、「この問題は急がなくてもよい、われわれの世代で解決できなければ、次の世代で、次の次の世代はより聡明になって、解決策をみつけてくれるだろう」と話しました。

若い人は中日関係の歴史を知るべき

―― 今年は中日国交正常化40周年です。しかし、この40年間には紆余曲折があり、最近はまたうまくいっていません。この40年をどのようにみておられますか。

王效賢 中国と日本は社会制度も異なりますから、両国の間に少しも問題がないということはありえないと思っています。夫婦でさえ喧嘩しますから、これは避けられないことです。ただ問題が起きたら、どう解決するかが大事なのです。以前にも問題がありました。例えば、岸信介氏が政権に就いてすぐに新中国の国旗が毀損されるという事件が起こりました。大きな問題です。ですが、当時は解決しました。それは問題が起きた時、先を見通すことのできる政治家が出て問題を解決したからです。

中日関係を改善するには二つのことがあると思います。一つは政治家や有識者がきちんと発言をする。一つは民間の往来を多くするということです。民をもって官を促すです。特に若い世代が中日の関係史を知り、古い世代の政治家が中日関係のためにいかに力を尽くしたかを理解しなければなりません。古い世代のことを若者は知るべきです。

中日友好は国益です。両国の国益に合致し、アジアと世界の平和に有益であって、単なるスローガンではないのです。

日本の政治家は国益を第一に

―― 日本の政界は少し変ってきています。大阪の橋下徹氏、名古屋の河村隆之氏、東京の石原慎太郎氏らのいわゆる「地域政党」が強くなっています。このことが中日関係に影響すると思いますか。

王效賢 心配でないとはいえません。今、理解できないのは、例えば松下政経塾です。1978年に鄧小平が訪日した時、松下幸之助先生とお会いし、「中国は近代化を進めなければなりませんが、電子産業がなければ、ただ人の後ろについて行くだけです」と話しました。松下先生はそれを聞いて共鳴し、中国の近代化を支持しようと決心したのです。そこで、数社の大手電子企業と組んで中国を支援しようと考えたのですが、誰も協力しようとしませんでした。その頃は、日本の大手電子企業は台湾を相手にしていました。結局、松下先生はご自分で1979年に中国を訪問され、中国の工業化を支援することを決めたのです。松下先生は中日友好を促進した方です。しかし、先生が出資し設立した松下政経塾出身の政治家は、なぜ中国を理解しないのでしょうか。この点がどうしてもわかりません。このような政治家は日本の国益を考えずに、いったい何を考えているのでしょう。

松下先生は中国に友好的で、中国を何回も訪問しました。もちろん日本の国益も考えていて、中国への支援は日本の国益のためでもありました。そして、これまでずっと松下(パナソニック)は中国を支援しており、中国には支店がたくさんあります。ですから、松下政経塾出身の政治家たちのことを、わたしは理解できないのです。このままでは、中日関係はよくならないでしょう。

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王副会長は取材が終わってから、「歴史を忘れてはいけません。中日友好協会で働いている若い人たちに、まずは中日の関係史をきちんと勉強しなさいといっているんですよ」と記者に話した。帰る時も、門まで見送ってくださった。やさしく、礼儀深い態度に心打たれた。