周 斌 元中国外交部通訳
中日国交樹立『共同声明』表現の内幕

2012年6月23日、上海国際問題研究院などが合同で開催する『中日国交正常化40周年記念国際シンポジウム』が上海の錦江飯店で行われた。筆者はこのシンポジウムの間に、元中国外交部新聞処処長の周斌氏から中日が国交を回復した歴史的なひと時に関する貴重な思い出に耳を傾けることができた。

今年81歳になる周斌氏は1972年に中日が国交を正常化した交渉の全過程に中国側の通訳として参加している。彼の紹介によると、当時林麗?(中国共産党中央対外聯絡部)、王効賢(中国外交部アジア局)が周恩来総理の通訳を務め、周斌氏と唐家?(中国対外友好協会副処長)が姫鵬飛外交部長の通訳を務めたという。

周斌氏は当時、日本の田中角栄首相、大平正芳外相と二階堂進官房長官を北京空港で出迎えてから上海虹橋空港で見送るまで、幸いにも中国での中日国交正常化交渉の全ての活動に参加できたことは今日に至るまで全てが感慨無量だと次のように回想した。

 

緊張していた田中角栄首相

中国政府が事前に公明党、社会党や一部の自民党国会議員を通じて多くの調整を行っていたとはいえ、飛行機を降りて来た田中角栄首相らはやはり非常に緊張し、態度もぎこちなく見えました。タラップのそばまで出迎えた周恩来総理に田中首相が最初に発した言葉は「私は田中角栄です。54歳で日本の首相になりました」というもので、同じ言葉を二度繰り返したのです。

周恩来総理は田中首相を北京の釣魚台国賓館の中でも最も条件のよい18号楼まで送りました。空港から釣魚台国賓館まで同行するというのは周恩来総理が田中角栄首相に対して特別待遇を与えたことを意味しており、しかも周恩来総理は到着後もしばらく賓館内に留まったのでした。このような厚遇はきわめて稀なことです。

田中首相の来訪前に、訪中した当時の佐々木更三(元日本社会党委員長)先生に、周恩来総理が「中国は田中角栄首相のご来訪を歓迎します」というメッセージを託したことを覚えています。この時の通訳は私が勤めたので、周恩来総理が「田中角栄先生のご来訪を歓迎します。2月にアメリカのニクソン大統領が来訪された時と同様の待遇を準備しているので安心してお越し下さい。話がまとまれば良し、まとまらなくても構いません」と話したのを覚えています。

釣魚台国賓館の18号楼に到着した後、周恩来総理が自分のコートを脱ごうとした時のことはいまだに新鮮な記憶に残っています。周総理は戦争中、手に負傷を負ったのが原因で、コートを脱ぐ際に多少の不自由を感じていました。その時、田中首相は私たち通訳の前に進み出て、自ら周恩来総理がコートを脱ぐのを手伝ったのです。

周総理は「いけません、いけません。あなたにコートを脱ぐ手伝いをさせるなんて」と言いましたが、田中首相の答えは「周総理が私に国賓館の18号楼をご手配くださったので、この数日はつまり私がこの屋の主人です。ならば、周総理は私が最も尊敬するお客様であり、私がお客様にサービスするのは当然です。どうぞ、お手伝いさせてください」という心のこもったものでした。

続く数日間は交渉です。当時主に話し合われたのは三つの問題だったと記憶しています。この三つの問題がまとまったのは全て、互いに理解し合い、互いに譲り合い、小異を残し大同につくことに基づいた結果です。交渉の過程では、相手の意見がそのまま通ったり、一方が従わざるを得ない、同意せざるを得ないといったことは一度もありませんでした。

 

「迷惑をかけた」発言が波紋

存知のように、9月25日の周恩来総理主宰の歓迎宴で田中首相が答礼の挨拶を述べた際、彼は周恩来総理への感謝を述べ、こんなに多くの中国の友人が歓迎してくれたことに対する感謝を述べたのに続いて、日本政府を代表して過去に日本政府が中国人民に及ぼした迷惑についての謝罪の意を表したのです。

「迷惑をかけた」という言葉で謝罪の意を示したことについて、その場にいた私たち日本語の分かる人間は大いに驚きました。

交渉に参加した外交部の喬冠華副部長が部に戻ってから、「日本は長年にわたって中国を侵略し、中国にかくも大きな経済的損害を与え、あんなに多くの中国人を殺しておきながら、どうして『ご迷惑をおかけした』なんて言えるのか。戦争責任をどうして『迷惑をかけた』なんて言葉で表現できるのか、と激怒していたのを覚えています。

翌日、両国の首脳会談の際、周恩来総理は「日本軍国主義による戦争は中国人民に甚大な災難をもたらし、日本国民も大きな苦しみを受けた。『迷惑をかけた』というだけでは中国人民には通用しないばかりか、強烈な反感を引き起こします」と厳かに提起しました。

この表現の問題を解決するために、9月27日、大平正芳外相と中国外交部の姫鵬飛部長が八達嶺長城への道すがら『車中会談』を行ったのです。その日、元々の予定では姫鵬飛部長は田中首相の車に同乗し、大平外相の車には北京市革命委員会の呉徳主任が同乗することになっていました。

出発間際に大平外相が突然、「姫部長、やはり我々は同じ車で行きましょう。相談したいことがあるので」と言い、そのため呉徳主任が田中首相の車に同乗し、姫鵬飛部長が大平外相の車に乗って、私が通訳を務めたのです。

私たちの車には前列に運転手と警備担当者が乗り、私は後列の大平外相と姫鵬飛外交部長の間に座りました。当時は北京市内から八達嶺長城までの道路状態は非常に悪く、往復にかかる4時間の間、揺れっぱなしで、私は車酔いになりました。

大平外相と姫鵬飛外交部長との話はとても感動的で、二人とも最後には目に涙をためていました。大平外相の次のような言葉が姫鵬飛外交部長の心を打ったのです。

「私たちは同い年で、互いに自らの国のために奮闘し、自らの国のために努力しています。しかし、中国側の要求を全面的に受け容れたのでは私と田中首相は日本に帰れません。もし『共同声明』に完全に中国側の意見に沿った内容を書き入れたら、交渉失敗とは言いませんが、帰国後に責任を負うことが非常に難しく、私と田中首相は辞任しなければなりません。もし二人が辞任すれば、つまりこの『共同声明』を実行出来る人間が誰もいなくなるのです」

大平外相はさらに、「はっきり申し上げて、私個人は中国側の観点に賛成です。あの戦争は明らかに中国に対する日本の侵略戦争でした。はっきり覚えていますが、私自身、大蔵省から興亜院(日本の対中国政策の調整・執行機関)に移って、三度にわたって張家口付近で社会調査に赴いています。当時は、まさに戦争が最も激しい時期で、私は侵略戦争を自ら目の当たりにしたのです。実は当時、田中首相も出征し、中国の牡丹江にいました。ただ、彼は実際に戦ったことはなく、歩兵病院で勤務していましたが。彼のこの戦争に対する認識は私と同じです」と語りました。

 

周総理の最終判断でまとまる

大平外相は話を続けられました。「ただ、現在の日本の立場、つまり日本と台湾の関係、特に日本と米国との関係を考えると、私は今、中国側の主張を全面的に受け入れることはできません。中国側の考えを可能な限り汲み取ろうとするのはもちろんですが、もし完全にあなた方の考えに沿った表現をさせようというのなら、それは困難です」。話し終わった後、二人は抱き合わんばかりに感動していました。

姫鵬飛外交部長が長城から戻るとすぐ、周恩来総理に報告したのを覚えています。翌日の午前10時には『共同声明』の調印が控えていたので、この問題はその日の夜までには必ず解決しなければならなかったからです。

当時は現在のように便利ではありませんから、北京外文印刷廠の職員は全員、組版のために待機していました。当日の深夜2時、交渉に参加していた人々が皆、コーヒーで眠気を払い緊張を維持していた時、大平外相が1枚のメモを取り出しました。私はそのメモの形まで覚えています。

大平外相は「姫鵬飛外交部長、これが日本側の最終案です。もしこれでも中国側が受け容れられない、ダメだとおっしゃるのであれば、私と田中首相は荷物をまとめて帰国するしかありません」と語りました。そのメモには日本語で「日本国政府は日本が過去に戦争を通じて中国人民に重大な損害をもたらしたことに対し、責任を痛感し、深く反省する」と書かれていました。

結局、『中日共同声明』にはこの表現が採り入れられたのです。当時、外交部の一部の職員はこの表現では同意出来ないと考えていました。何故なら『侵略戦争』の四文字が含まれていないからです。

最後にはやはり周総理が口を開き、「日本側が中国人民に対して重大な損失をもたらしたことを認め、彼らも責任を痛感し、深く反省しようとしている以上、これはつまり『侵略戦争』を認めたことなのではないか。何故どうしてもこの文言を入れなければならないのか。今、田中先生と大平先生は困難に面している。私たちは、問題を解決しようとしている友人たちを困らせるべきではない」とおっしゃいました。当時、中国は『文化大革命』の最中でしたが、外交面では周恩来総理が絶対的な権力を持っていたため、周総理がこうおっしゃったことで議論が収まったのです。