劉 万民 東和貿易社長
運転できない北京男子が日本の中古車市場で大活躍

「年月を重ね、苦難を重ね、時代の激流に飲み込まれ、辛酸をなめたとしても一途に思い続け、初志を忘れず弱音を吐かない……」。今年、来日して29年目となる劉万民は、今は若い時の夢がかなったと率直に語る。運転免許を持たず、運転もできない一人の北京男子が、日本の中古車市場で「新航路」を切り開いたのである。


撮影/本誌記者 洪倩

率直

「勉強は得意ではなかった」

1980年代に中国全土で大ヒットしたドラマ『便衣警察』(私服警官)を覚えている人も多いだろう。しかし、劉万民がこのドラマの撮影助手をしていたことを知っている人は少ない。撮影は彼の得意分野であり、撮影チームは彼を成長させてくれたゆりかごだった。しかし、若く血気盛んだった彼は出世したいという気持ちを抑えきれず、1988年2月10日、撮影チームを離れ東京行きの飛行機に乗り込んだ。ここから彼の日本での漂流が始まったのである。

首都師範大学(当時は首都師範学院)を卒業してはいない劉万民は、日本で一橋大学の研究生となった。研究生というのは中国の大学院生に当る。一橋大学は学生に対して高いレベルの学識、教養を求めているため、劉万民は学業のプレッシャーにあえぐ結果となった。ついに続けられなくなり、彼はこの日本の最高学府を放棄して日本大学に転校した。日本大学は社会的にも一橋大学にははるかに及ばない。面接官の教授の中国人留学生に対する「人は低きに流れる」というような接し方に対し、劉万民は疑問を抱いて「この大学は国名をつけているので、中国人はとっては日本の最高学府だと思えるのですが」と聞いた。その答えは、「まさか! 」であり、こらえ切れずに笑い出してしまった教授は彼を受け入れてくれた。

ほどなく、彼は日本大学を退学した。インタビューの際、彼は「勉強は私の得意とするところではないんだ」と率直に答えてくれた。これには感動させられた。成功者たちは自身の長所や強みを語ることには長けているが、自身の短所や弱みについては率直に認めようとしないものだからだ。

古人は結婚してから事業を起こせと言っている。劉万民も大学を離れた後、早速家庭を持った。家庭があると、家族を養うという負担も背負わなければならない。彼はまず日本の商社で働いたが、安定した環境にはどうしても魅力を感じなかったので、2年間勤務して退社した後、さまざまな貿易の仕事に着手した。彼にとってはやむにやまれぬ事情の下での挑戦であった。

恩返し

ビジネスを教えてくれた人

来日して10年目の1998年、彼は偶然に日本の中古車市場ビジネスに進出した。彼は自身の事業について、気持ちを込めてこう語った。「偶然、北京で自動車ビジネスをしている香港人と知り合ったが、この香港人は私が日本で貿易の仕事をしていたことを高く評価してしれ、提携して日本で中古車ビジネスをやりたいと言ってくれた。私は運転できないし、自動車に興味もなかったので、当時はなんとか言い逃れた。しかし、この香港人はあきらめず、いっしょにやるべきだとあれこれと言ってきて、その誠心誠意に動かされたんだ。今思い返しても、このビジネスに引っばり込んでくれた香港人のことは忘れられない」。この話を聞いて、心にさざ波が立った。恩を忘れないことが、成功する人の資質かもしれない。

開拓

アフリカの中古車市場

会社の最初の拠点はアフリカのボツワナに置いた。当時、ボツワナには中国人の中古車の会社は1社しかなく、中古車のニーズは極めて大きかった。結果として、数年間でボツワナには百社以上の華人経営の中古車会社ができるほど市場は急速に成長し、中古車市場は飽和状態に近づいた。劉万民は時期や情勢を判断し、ボツワナへの投資を減らし、蓄積した販売経験を機敏に活用して、事業をニュージーランド、アイルランド、イギリス、タイ、マレーシア、オーストラリアやアフリカの半数ほどの右ハンドルの国々に展開した。彼の中古車ビジネスは拡大しつづけ、偶然巡り合った中古車事業は17年間続いている。

いかなる事業も順風満帆の時ばかりではなく、簡単に成功はできない。この業界に入ったばかりの劉万民は、まったく経験がなく、毎日USS(日本の中古車オークション)などの大きなオークション会場を回ってはいたものの、発注しなかった彼は毎日大きなスクリーンを眺め、美しい中古車を見ては途方に暮れていた。彼は自身の不備な点を理解し、いかに情報社会のリソースから自己の知識を拡充するかを模索し始めた。彼はデータを集め続け、新しい顧客を開発し、普通の人の十倍以上の努力をして自身の事業を経営した。ニュージーランド市場で、彼は面倒な海運や税関手続き、税金支払いの説明、運送の路線、ガソリン使用量、ナンバープレート取得の細かい説明を含む、日本で購入してから顧客に届けるまでの全プロセスを系統的に顧客に伝えることができた。顧客はみな、劉万民は長くニュージーランドに住んでいる華人だと誤解したのだが、実は彼はニュージーランドに行ったこともなく、ただ努力して集めた情報に頼って自身の専門知識を高めたのである。

劉万民は自身の蓄積した経験と口コミにより、日本における中古車販売分野の新航路を切り開き、この業界の華人の第一人者となったである。自動車に本当に興味を持っていないが、生計を立てるために何も知らない門外漢から中古車業界の大物となったのであり、この過程での苦労と努力はとても普通の人間には経験できないと、彼は率直に口にした。

真心

サービスの中でさらに回収できる

今、日本で中古車ビジネスを手がける華僑華人は百人を下らないが、安い価格で提供し、多くの中国企業や右ハンドルの国の中国大使館・領事館の館員に厚く信頼されているのはもちろん劉万民である。彼は中古車ビジネスを始めて以来、走行距離メーターを改ざんしたこともなく、事故車を販売したこともない。顧客が彼から車を購入するということは、品質がしっかり保証された中古車を買うことに等しいのである。自動車を運転せず、自動車のことも分からない劉万民は日本で一級整備士を高給で雇い、売りに出す1台1台の中古車に全面的な検査と審査を行い、その品質を厳しく保証している。彼はさらに販売した自動車に対して全面的なアフターサービスを提供し、顧客の安心、快適のために安くて優秀な修理センターを用意している。

このような全方位型の販売方式により、劉万民は当初年間10台しか販売できなかった普通の販売員から現在では毎日30台から70台を販売するという業界の伝説的人物となったのである。

しかし、このような伝奇的人物でもだまされた経験があるのだ。アフリカ市場に乗り込んだころ、彼は6000万円分の中古車を現地の合作パートナーに託して販売させた。しかし、そのパートナーは車を売り代金を手にすると、その巨額の金とともに逃げてしまったのである。この事件に彼は打ちのめされた。自分は顧客を信用し、優れた自動車資源を彼らに提供したのに、結局は裏切られた。無念と悔しさにより、劉万民はしばらくの間ビジネスを続ける気力もなくなったが、ある友人が松下幸之助に学んで、自分を傷つけた人に「ありがとう」と言うようにと教えてくれた。この話に劉万民は、自身はこの過程で成長しなければないのであって、意気消沈してはならないと悟ったのである。彼は「時間は真理を経験する唯一の基準」であり、時間の流れにより辛いことも薄らいでいき、自身もさらに細心で慎重なビジネスマンとなるだろうと信じたのである。

だまされた経験は彼にとっては深刻な打撃であったが、同時に彼はだまされたつらさを骨に刻み込んだのである。「だまされた味というのは受け入れ難いものであり、だからこそ私もお客さんにそれを味わわせない」と彼は言う。現在の中古車市場を分析すると、以前とは違い、同業者がますます多くなっており競争が激しくなっているというが、たとえそうであっても、劉万民は被害に遭った経験者として、自身の顧客には同じようなことが起きないよう、初心を忘れずに誠心誠意、顧客のために働きたいと語っている。

いつも微笑みをたたえている劉万民の表情からは、運転免許もなく運転もできないこの北京男子が日本の中古車市場に疾風を巻き起こしたとはとても想像できない。思い返すと、若いころに世界に出ていくと決めたことが、彼の現在の事業の成功の礎となっており、まさに当時の『便衣警察』のテーマ曲「年月を重ね、苦難を重ね、時代の激流に飲み込まれ、辛酸をなめたとしても一途に思い続け、初志を忘れず弱音を吐かない」という歌詞そのものである。

現在、劉万民は会社を率いて中古車市場で活躍するほか、時勢に乗じて中国経済改革という大船に乗り込んでネット取引とレジャーの分野へと事業を拡大した。長い経歴を持つものの、彼の心は依然として青年のままであるが、当時よりも責任感と固い意志は強くなった。ビジネスをさらに拡大させていくほか、異なる業界における模索を通してさらに消費者のためになる仕事を続けていきたいと劉万民は希望している。