郭 聯輝 華人企業家
分かち合うことも喜び 中華居酒屋創業の先駆け

「成功はコピーできる」。これは、日本で12店舗の中華居酒屋と1店の蕎麦居酒屋を経営し、年商14億円を誇る郭聯輝の言葉である。創業を夢見る在日華人たちが、実際にこの言葉に励まされ「阿里城」グループに加盟している。

 
撮影/本誌記者 呂鵬

友人には自分より多く

郭聯輝は福建省福清市の出身で、日本に来てから数年間は昼夜働きづめだった。朝は日本語学校の授業を受け、昼は小さなレストランで皿洗いの仕事、夜は物流センターで貨物を運び、朝まで仕事をして疲れた体を引きずって電車に乗り学校へ行く。彼が目を閉じて体を休められるのは、学校まで電車に乗っている時間だけだった。

ある朝、彼は同じく留学生である同僚たちと貨物を運んだ後、電車で登校しようとしたが、一人の同僚が切符を買うお金を持っておらず、改札の外に残されてしまった。同級生は彼に500円貸してほしいと頼んだが、彼もポケットには750円しかなかった。しかし彼はためらわなかった。彼は残った250円で飲み物とおにぎり1個を買い、朝食とした。

昼に皿洗いのバイトをしていたレストランはチェーン店で、規則では1食無料のまかないが付いていた。しかしこの日、レストランの店長は彼にまかないの食事を用意しておらず、ほかの従業員は食べていたが、彼だけはまかないがなかった。当時、まだ日本語がうまくなかった郭聯輝は「軒先を借りているんだから、腹が減っても我慢しよう」と自分に言い聞かせた。

仕事の後、空腹を抱えて倉庫の仕事に出た郭聯輝は、同僚に貸した500円を返してもらって夕飯を食べようと思っていたが、休憩時間になっても返してくれる気配はなかった。郭聯輝は催促もできず、空腹を我慢するしかなかった。同僚は彼になぜ何も食べないのかと聞いたが、昼ご飯をたくさん食べたからと嘘をついた。

その夜は特別長い夜になった。空腹を我慢しながら、貨物を運んで体力を消耗した郭聯輝は、水を飲み続けて食べたつもりになるしかなかった。

この経験から、湯気の立つ食事は人生の中で毎日欠かすことのできないものだととうことが彼の心に深く刻みつけられたのである。

 
出国前、祖母と叔父と記念撮影

いつかきっとその日が来る

つらい月日の中、彼のそばにはいつも助け合う妻がいた。郭聯輝の妻は日本に来たばかりの時、台湾料理店で働いていた。コック長は彼女が落ち着いていて、勤勉であるのを知って料理も教えてくれた。

彼の妻には夢があった。彼女はよく郭聯輝に「自分の店が持てたらどんなにいいかしら」と語っていたが、郭聯輝はそのたびに「いつかきっとその日が来る」と答えていた。

「いつかきっと」という言葉は、彼が妻のため、妻の夢のためがんばった月日そのものであるといえる。

2000年11月、郭聯輝ははじめての「いつかきっと」をかなえた。友人が貸し出した小さな店を借りて妻に経営させたのである。しかし彼は毎日外でアルバイトをしていた。「開いていなければ店ではない」と言うが、この小さい店はオープンしてすぐに閑古鳥が鳴くようになった。しかし、月末になると妻はにこにこして郭聯輝に「利益が出たわ」と帳簿を見せた。彼はその帳簿を見るとすぐに偽物だと気づいた。妻は彼が後悔しているのではないかと心配し、偽物の帳簿を作って見せたのだ。彼は妻を責めなかっただけでなく、ますますアルバイトに精を出すようになった。毎日4時間しか寝ずに、稼いだ金で妻の店の赤字を補填し、コックを雇った。

惨憺たる経営が1年半続いた後、郭聯輝は突然、店の経営を簡単に考え過ぎていたと気づいた。四角いテーブルを並べただけでは客数も限られるし、店も狭すぎて大規模な宴会もできない。毎日数人の個人客に頼っていてはとても経営が立ち行かないのである。

彼は同じ商店街に場所もよく、面積も広い店舗が貸し出されているのを見つけた。彼の店のコックはここに引っ越してくれば店の経営もよくなると言う。彼は、いつかきっとこの店を借りよう、と答えた。

 
妻の翁李琳と彼らの第1号店で

紙袋の中の800万円

はじめて不動産屋に店を借りることを相談しに行った時のことである。事務所内には椅子が2脚しかなかった。不動産業者は郭聯輝に椅子にかけるよう言ったが、その時、銀行員が二人入ってきたので、椅子を銀行員に譲らせてこう言った。「帰ってくれ。用があればまた来なさい」。

次に不動産業屋に行った時、郭聯輝が用件を話したところ、「中国人が店を借りる金を持っているのか」と言われて店を追い出された。

三度目に不動産屋を訪ねて店を借りたいと話すと、再び郭聯輝が中国人だと言いがかりをつけ、「あんたみたいな中国人を信用できるか」と言うので、彼は猛然と店を飛び出した。

何度も不動産屋から言葉の暴力を受けた郭聯輝は、心の中で屈辱をかみしめ、もう絶対にあの不動産屋には行かないと自分に言い聞かせた。しかしいつも彼に付き添い、不動産屋の前で彼を待っていたコックは、彼が不動産屋から出てくるのを見るたび、結果はどうだったのか熱心に聞いてきた。今回、郭聯輝はコックが口を開く前に、「もう不動産屋には頼まない。いつかきっと、不動産屋を頼みに来させてやる」と告げた。

半年後、店を借りたいという客が現れなかった不動産屋はいてもたってもいられず、本当に郭聯輝のところに店の賃貸借について相談しに来たのである。

店を借りる話は進んだが、資金の問題があった。郭聯輝は「自分はどんな屈辱でも甘んじて受けるが、金を貸してくれとはどうしても言えなかった」と述懐する。

郭聯輝夫妻が困り果てている時、友人夫妻がやってきた。手にはぼろぼろの紙袋を下げていた。「店を開こうとしていると聞いて、わが家の全財産を持ってきた。800万円ある」。

800万円とは当時どんな金額であっただろうか。この友人夫婦はともに日本でアルバイトをしていたが、時給はわずか800円だったのである。

郭聯輝は借金を申し込むことなく、また友人も彼に借用証を書かせることなく、800万円の現金が提供された。この時、郭聯輝は何年か前にポケットに750円しかなかった中から500円を同僚に貸した自分を思い浮かべた。

 
「阿里山城」第7号店

中華居酒屋創業の先駆け

「台湾風居酒屋阿里山」は郭聯輝にとって得難い二度目の開店チャンスだった。友人の800万円と篤い友情と信頼にはどうあっても背けなかった。彼は絶対に失敗できなかった。

「阿里山」を成功させるため、郭聯輝は話題のレストランを食べ歩いて勉強し、経営者講座に出席し、メニューを研究した結果、日本の居酒屋のやり方を取り入れることにし、「阿里山」を中華料理の居酒屋とした。各種の小皿のオードブル、炒め物をさまざまな飲み物と組み合わせ、お客の選択肢を増やし、自由に組み合わせられるようにした。独自の道を歩み始めたのである。

「阿里山」開店以降、郭聯輝は同業者内の不文律を重視し、悪性の価格競争をやめた。「私の店は排他的ではなく、同業者内の競争を避けている」。

郭聯輝は勉強の期間中、日本の老舗の中華街を研究したが、店同士の競争は完全に価格競争であり、価格を押し下げていた。郭聯輝はこれを残念に思った。「価格を無理に下げればコストも圧迫されるから、味の低下は避けられない。そうなれば万里の長城を壊すのに等しい。中華街はわれわれ中国人の海外におけるシンボルのようなものなのに」。

その後、「阿里山」、「阿里城」、「阿里山城」などの店は連日満席、千客万来となり、生え抜きではない郭聯輝ができたのに、自分ができない道理はないと、彼の知り合いの多くも続いて中華レストランを創業した。

しかし、盛大にオープンした店の多くが静かに閉店していくのを見て、郭聯輝は黙っていられなかった。これらの創業の苦労や失敗に見舞われた人の中に、郭聯輝は昔の自分を見るようだった。

「日本で開業するには、パターンが必要だ」と郭聯輝は、華而実商事の中に、創業加盟本部を立ち上げ、開業を希望する在日華人に、自身に合う業態の店を探してやっている。また熟練の従業員を養成し、熟練の経験と理念を伝授している。開店から経営まで、本部ではマンツーマンで全プロセスを追跡サポートし、加盟者のために店を探し、開業プランを提供し、管理システムを運営し、技術訓練サポートをおこなっている。加盟店には開業後、不定期に専門指導員を派遣して巡回指導をおこない、加盟者が経営のなかで遭遇するさまざまな問題に随時対処し、徹底的に加盟者の後顧の憂いをなくしている。

彼は言う。「人は本来自分のためだけに生きるべきではない。分かち合うこともまた喜びだ」と。