漢学の里・諸橋轍次記念館を訪ねて

日本の漢和辞典で最大のものは、諸橋轍次博士(明治16年~昭和57年、1883~1982)が編纂した『大漢和辞典』(大修館書店刊)であり、企画から修訂版・語彙索引・補巻を含めた全15巻完結まで75年をかけ編纂された辞典で、世紀の大事業といわれている。その業績を称える記念館が諸橋博士の故郷である新潟県三条市にあり、毎年「諸橋轍次博士記念漢詩大会」を主催するなど、漢字文化の復興を世界に向けて発信している。在新潟中国総領事館を通じて中国とも交流する同館を訪ねて、関係者の方々にお話しをうかがった。

 

諸橋轍次記念館のこと

—— 最初に嘉代館長にお伺いします。諸橋轍次記念館は日中国交正常化40周年の平成24(2012)年にリニューアルオープンして今年は5年目を迎えます。今では年間、どのくらいの方が来館されていますか。

嘉代 記念館が開館したのは平成4(1992)年ですから今年で25年目になります。本館は、旧下田村(現三条市)が、世界的な漢学者・諸橋轍次博士の出身地であることから、博士の業績を顕彰し後世に伝えていくことを目的に博士のご生家の隣に建設しました。年間の来館者は概ね7,000~8,000人ですが、平成25年(2013)の博士の生誕130周年記念事業の年はリニューアルオープン後ということもあり、約15,000人の来館者がありました。

—— こちらでは「漢学の里」と言われているようですね。

嘉代 日本を代表する漢学者諸橋博士の生誕地であり、故郷をこよなく愛された博士への敬慕とともに、40年余わたり地元の小学校教育に尽くされました博士のお父様は、教え子や地域の方々から、当時の言葉で「訓導様」と呼ばれ、尊敬されていました。そういったことも含め、今なお諸橋博士が地元で敬愛されていることなどが背景にあるのではないかと思っております。

佐藤 あと、幕末から昭和にかけて、日本全国で非常に漢学が盛んだった地域というのが3つほどあり、その中に新潟県が入っていました。漢学の下地がまだぎりぎり残っていたのは大きいと思います。

—— 諸橋先生の御家庭でのことなどを諸橋達人先生にお伺いしたいと思います。

諸橋 私は学術的なことはわかりませんので、祖父(轍次氏)の普段の生活をお話させていただきます。

—— それを一番お聞きしたいです(笑)。儒学や漢学が生活の中にある御家庭では教育に関して非常に厳しいイメージがあるのですが(笑)。

諸橋 孫に対しては非常に優しく、いちいち勉強に口出しはしませんでした。むやみに可愛がるのではなくて、ちょっと距離を置いて、しかもちゃんと温かい目で見てくれているという感じでした。祖父は大体毎日2、3時間、書斎で勉強していました。部屋の中だけではなく、漢詩を吟じながら廊下を行ったりきたりしていたのはよく覚えています(笑)。また、よく字の練習をしていました。それも、普通の墨と紙ではなくて、日当たりのいい廊下で洗面器に水をたくさん入れて、その水で筆を使って字の稽古をしているんです(笑)。

 

記念館での漢詩大会

—— 佐藤(海山)先生にお伺いします。私が感動しているのは、今でも日本人が「漢詩」に触れていることです。中国では中学校で漢詩を暗記させたりしていますが、つくることはほぼできません。

佐藤 実は日本もそれ以上に、漢詩・漢文に関してはもう廃れています。しかし、諸橋記念館から何か諸橋轍次博士のお名前を世間に、できれば海外にまで広げるような行事ができないだろうかというお話があり、幾つか候補を申し上げた中で、漢詩が一番何とかなるかもしれないということで、三条市の全面協力もあって「諸橋轍次博士記念漢詩大会」をやることになったのです。これまで8回やらせていただきました。

—— 大会に参加する人が年々増えることで、地方の文化の雰囲気に影響することは考えられますか。

嘉代 海山先生にご指導いただいたりして、学校の先生方も喜んでいらっしゃるし、子どもたちも興味を持ってやっているみたいです。

—— 海山先生は中学、高校などでも講座を開かれているのですか。

佐藤 今まで添削も含めて3,000名ほどの小中高校生を指導しました。諸橋博士のことは新潟県の教育関係者はよくご存じで、博士の顕彰事業につながるのであればということで、講座を快く引き受けていただいています。

—— 3,000人は、孔子の弟子と同じぐらいの数ですね。

佐藤 孔仲尼(孔子)先生とは全く違いますよ(笑)。

—— 中国との交流は、どの程度進んでいますか。

嘉代 漢詩大会をも回を重ねる中、駐新潟総領事館王華総領事様、引き続く何平総領事様はじめ領事館の皆様方からご指導、ご支援をいただき感謝しております。そういう中で、中国から諸橋轍次記念館へお越しになる旅行者も結構いらっしゃいます。本当にありがたいことです。

 

漢字がなくなることはない

—— 多分、世界中で、中国文化の盛衰というものをよく理解できる国は日本しかないと思います。やはり漢字、漢詩、漢学の影響は大きいですね。だんだん吸収して、消化して、その後は日本の文化になっていると思います。

諸橋 確かに漢字を使うという意味で、非常に親密な関係になっている。アルファベットだと、ちょっと取っ付きにくいし、何となく違う感じがします。漢字は1つ見てみても、これで両方同じような理解ができます。

—— ただ、戦後日本の漢字政策ですが、極端な例ですが読売新聞の社説(昭和21(1946)年11月12日)で、「漢字を廃止しよう」という呼びかけが出たそうですが、これに関してはどのようにお考えですか。

佐藤 漢字廃止論は明治時代に、新潟県出身の前島密(1835~1919)が急先鋒でした。その割に、本人は漢詩もつくっている(笑)。それからずっと各時代でこの波はありました。その中で諸橋博士は漢字廃止論に関しては、「一切なくなることはない」と断言されています。ですから、大修館書店の鈴木(一平)さんから漢和辞典のお話をいただいたときに、「これは私がやるべき仕事」だと再認識されたようです。

—— 今、日本で使われる漢字には、「常用漢字」という枠組みがありますが、これからの漢字制限の流れはどうなるでしょうか。

佐藤 それは国の問題ですので、私はわかりません。ただ、個人的には、一切制限は設けない方がいいのではないかと思います。昔の印刷物のように漢字すべてにふりがなを付ける「総ルビ」にしろとは言いませんけど、難しいと思われる漢字にはルビを振ってくだされば、小さい子でも読めるわけです。漢字はもう日本の文化として根付いてしまって、漢字がなければ日本人は生活できないと思います(笑)。

 

『大漢和辞典』のこと

—— ところで『大漢和辞典』は、今までで何版ぐらいになっていますか。

諸橋 それはわからないのですが、最終的に基幹13巻に索引と補巻がついて、全部で15巻ということです。

—— どれぐらいの周期で改訂しているかはご存じですか。

諸橋 それは今後はちょっとわかりませんね。一応これで完成しましたので。

—— 引き続き研究したり修正したりしている研究者はいるんじゃないですか。

諸橋 私の知っている限りでは、祖父の偉いお弟子さんたちが4人いらっしゃったんですが。

—— いわゆる四天王。

諸橋 皆さんもう亡くなられたので、その後で実際に中まで踏み込める人というのは、今はいないんじゃないかなと思います。

 

日本と中国の漢詩の違い

—— 海山先生は、学校で教えておられて何か日中の違いについて感じることがございますか。

佐藤 中国人の方は、恐らく先頭からつくっていかれると思いますけど、私が指導させてもらうときは、日本人は結論を先につくった方がいいから、最後の結句からつくりなさいという方法で、一番言いたいことはここに持ってきなさいと説明しています。あと起句・承句は場面設定だから、そこのシチュエーションを考えなさいという説明をしていくと、わずか12の熟語、あるいは3字句を組み合わせればできる。子どもたちは喜んでつくります。

—— 面白いですね。あと素朴な質問ですが、漢詩と日本の俳句、川柳のつながりについて教えてください。

佐藤 意外と江戸時代の俳人あるいは川柳の中にも、漢学の素養というのがあります。寺子屋とか藩校とかで習っていたせいもあるのでしょう。中国では唐詩三百首でしょうけれど、日本では唐詩選がはやりました。江戸時代の人は、(与謝)蕪村にしても(松尾)芭蕉にしても、みんな中国の漢詩・漢文の教養を土台にしてつくっています。

—— 明治では、例えば正岡子規は漢詩を書けましたか。彼の漢詩は見たことがないのですが、交友のあった夏目漱石にはあります。

嘉代 正岡子規は、母親が松山藩の儒者であった大原家の出ですから、幼い頃から漢学の素養を身につけていたのではないでしょうか。漢詩も作られていたのではないでしょうか。

 

漢詩における仏教的世界

—— 海山先生の目から見て、日本の歴史上、最も漢詩が上手な方、高く評価する方は誰ですか。

佐藤 やっぱり空海です。離合詩を席上で、その場でつくれるという日本人はいません。

—— 確かに、空海と最澄を比べると、空海の方がうまいですね(笑)。

佐藤 鷗外、漱石あたりだと、私でも何とか辞典を使いながらある程度は読みこなせます。空海の漢詩には宗教哲学的なものがあり、訓読はできても何を言っているかわからないところがあります。

——   唐詩でも、例えば王維は「詩仏」と言われ、結構、禅あるいは仏教の意味を含んでいるのではないかということを感じます。

佐藤 そうですね。母親の薫陶か字(あざな)をつけたときに、「摩詰(まきつ)」です。『維摩経』です。唐の時代でいえば、白楽天もその1人だと思います。非常に宗教的な、仏教的な色彩の濃い詩を結構つくっています。

 

中国留学と豊富な人脈

—— 諸橋博士の人脈について伺いたいと思います。

諸橋 まず、三菱系の方です。最初は岩崎小彌太(三菱財閥4代目総帥)さんと知り合いになり、中国への留学のとき援助していただいたようです。その後も三菱との関係が一番強いんではないかと思います。

『大漢和辞典』をつくるということで協力していただいたのが大修館書店。鈴木一平初代社長と知り合いになったことで、『大漢和辞典』という大事業が完成できたと思います。あとは講道館館長の嘉納治五郎師範。祖父は東京高等師範学校にも教官として勤めていましたが、そのときの校長が嘉納師範でした。

—— 諸橋先生が中国に留学されたのはいつ頃ですか。

佐藤 大正7(1918)年から大正9(1920)年にかけてです。1回目は数ヶ月の旅行でした。2回目は国費で中国留学をします。その足かけ3年間が諸橋博士の一番重要な時期だったと思います。

「中国大家族制度の研究」がテーマでしたから、本人が好むと好まざるとにかかわらず、多くの中国人の方々と接する機会を得た。留学中に接触した中国知識人の多さと、それと質的な高さでは、当時の日本人で右に出る者がいない。また、諸橋博士が留学した時代は、ご存じのように近代中国の夜明けを告げる五・四新文化運動の真っ最中でした。諸橋博士はみずから意識したかどうかはわかりませんが、結果的にあの時代の貴重な証言者となりました。諸橋博士のもう1つの側面です。これは今まで日中の両国の学会では、ほとんど注目されていません。

中には思いがけない人々と交流が始まる。例えば周氏兄弟です。お兄さんの周樹人(魯迅)は2歳上、2歳下が周作人です。魯迅とは交流があったと考えられていますが、残念ながら記録として残っているものは諸橋記念館にはありません。周作人に関しては、三男の晋六さんのところに掛け軸が残っています。

このほかに北京大学や他の大学の先生方とも広く交流しています。当時の諸橋轍次が新文化運動の拠点であった北京大学に留学し、聴講したことが、多くの人物と接触するために非常に有利に働きました。その最大の要因は、その当時の北京大学学長の蔡元培先生とお知り合いになったことが非常に大きかった。このほか、多くの新文化運動の担い手と会っていますが、時間もありませんので割愛しますが、魯迅と周作人だけでなく、新文化運動のメインの雑誌『新青年』の陳独秀、『文学改良芻議』の胡適、この人たちとも交流をしています。

これらのことについては、まだ記念館の収蔵品は完全公開できるところではないということですが、『筆戦余塵』というものと、『筆戦余塵残滓』という筆談録があり、諸橋轍次と中国学者との筆談の実物で、これは本当に歴史的一級の資料だと思います。現在、三菱財団の研究助成金を受けて佛教大学の李冬木教授、吉田富夫名誉教授とともに出版作業をやっているところです。

—— 記念館としては、これからどういうふうに研究を進めたいとお考えですか。

嘉代 記念館には、博士の遺墨や遺品を多数収蔵しておりますが、現在、順次、調査・整理している段階です。記念館としては、まずそれらを整理した上で、公開できる物は公開し、一般の研究の用に供されればと考えております。

—— 本日は、お忙しいところをご参集いただき、ありがとうございました。