王 秀徳 在日華僑企業家
10年で日本の農産品業界のリーダーに

民は食を以て天と為す !  IT産業が世界を騒がせ、金融業界がジェットコースターに乗り、不動産業がときめくこの時代に、多くの人びとはこの基本を忘れているようだ。みな、さまざまな成功へのテキストを胸に、金持ちへの道を奔走している。人類の衣食の源、生命の根本としての農業はすみのほうに追いやられ、ひっそりと孤立しているようだ。「稼げない」、「天候に左右される」、「低く見られる」など、多くの偏見が皮膚病のように農業の上に貼り付いているため、この伝統産業は評価されていない。

現在、時間と力を消耗する農業は割に合うだろうか。またどのようなことができるのだろうか。日本のショウガ・ニンニク市場で20%以上のシェアを持ち、皮むきニンニクでは日本市場第1位であり、傘下の「有機天津甘栗」が2014年モンドセレクション金賞を獲得した在日華僑の企業家である王秀徳は10年間黙々と努力し続けて、農業をやり遂げただけでなく、中国人でも日本市場のリーダーになれるということを世間に証明した。彼の日本の3つの会社と3つの工場、中国の2つの会社と国家レベルの検査測定センターは、日中両国の農業分野における模範の企業となっている。

「今の時代は少し浮ついている。多くの人、特に若い人は手っ取り早く稼ごう、一晩で富を作りたいと考え、地道な努力をしたがらない。私は全力を傾けて農業に取り組んでいる。彼らには最も素朴な道理、一分の努力に一分の収穫、つまり収穫は努力に正比例するということを伝えたい」と王秀徳はゆるぎないまなざしで語る。

 

規則を守り上を目指す

1996年に日本に留学して来た王秀徳は、どうやって東京大学や早稲田大学などの名門校に入るかということで頭がいっぱいだった。当時、日中両国の経済レベルは差が大きく、多くの中国人留学生は来日後、目先のことしか見えなかった。彼らは数年で一生分稼ごうと、日本語学校の授業中に眠り、夜仕事をするというミミズクのような生活をし、毎日あと何日働けば帰国してリッチな生活を楽しめるかと計算ばかりしていた。かれらの目に王秀徳は完全に「バカなやつ」と映っていた。彼は80万円以上の学費を支払い、さらに80万円をねん出してセカンドスクールにも通っていた。王秀徳は他人がどう言おうと気にしなかった。「学生であるからには、学生の本分を守ってよく勉強すべきだ。他人がどう思おうと、学業を終えたら大企業に入って中国駐在員になりたいと思っていた」。

頑固一徹である彼は、アルバイトにも真面目に取り組んだので、バカにする者もいた。王秀徳はある日本企業の社長室の清掃の仕事をしていたが、社長は一日中来社しないこともよくあったが、王秀徳は絶対に手抜きはせず、毎日掃除機をかけ、窓を拭き、規則通りに仕事をした。「一人一人の中国人の言動や行動が国を代表するものとして外国人の目に映る。海外にいる華人は自分に厳しくすることが最高の愛国行動となる。人のためだけでなく自分のためでもある。規則を遵守することで信頼を勝ち得、人格を保ち得る」。

真面目な清掃の習慣は今も続いている。彼の会社と工場には清掃員がおらず、社員は毎日出勤するとまず社長とともに掃除をする。毎日10分間ほどだが、知らず知らずに規則を守る習慣をつけることができるし、整った環境は従業員と顧客をいい気持ちにしてくれる。王秀徳は、食品企業として清潔ということが達成できなければ話にならないと分かっているのだ。

2004年、30歳になった王秀徳は、突然意外な行動に出た。「退職する」と家族に告げたのだ。家族は「冗談で言うことではない」と戸惑ったが、彼が本当に仕事を辞めたので、みな驚いて、何か変な薬を飲んだのではないかと心配したほどだ。高い年俸、子会社の責任者、結婚したばかりの妻を持つ彼は同年代の仲間にとってはすでに頂上に上り詰めた「成功者」だったのだ。

「高い山に登ったら、もっと高い山が見える。その山頂に登ろうと思ったら、今の山からは下山してゼロから始めるしかない」。勢いがあるように見える王秀徳も内心は途方に暮れていた。いわゆる成功には自身で“規格”を定めることが必要だと考えていたのだが、上述の台湾の有名な作家・劉?の言葉に、目の前がぱっと開けたように思えた。もう迷わずに、さらに高い山頂を目指すことに決めたのである。

 
中国山東省に建設された農薬残留検査測定センター

厳格な管理と人情

1994年から2004年までは農産品貿易の「黄金の十年」だった。この業界はまるでたっぷり水を吸ったタオルのように、しぼれば水が出た。しかし、2004年以降、業界は湿ったタオルとなり、懸命にしぼっても少しの水しか出なくなった。

厳しい業界の情勢のもとで、どのように生き残り発展していくか。管理で利益を出す! 農産品の管理の核心は安全、安心、品質の保証である。王秀徳は会社名を「源清田」と命名し、安全、安心は汚染されていない耕地から、ということをアピールし、同時に農産品の源である耕地を耕すことから始めた。

王秀徳は農家から大量の耕地を借り上げ、自社の基地をつくり、農家を雇用して耕した。収穫の良し悪しにかかわらず、契約によって買い上げるが、農家は会社の基準に従って耕耘しなければならない。標準化、集約化によって、以前は天候に左右された農家の収入も固定化し、農家は「農業労働者」となった。自社の農地は「農産品工場」となったのである。

農産品の最大の敵は農薬だ。基準に合わない農薬を使用すれば大量に残留してしまうので、農家には良質な農薬を無償で提供した。その結果、王秀徳は品質を保証でき、最も有効にお金を使ったのである。

さらに高いレベルを目指して、王秀徳は巨額な投資を惜しまず、すべての設備が国家品質検査総局と同じ国家クラスの農薬残留検査測定センターを建設した。一つの農薬の残留を測定するのに100元(約1900円)以上かかるため、検査設備のない企業は経費の問題のため検査ができない。彼は自社設備を持ってから、一つ一つ厳しく検査し、問題のあるものはすぐに処分してすべての品質を保証した。

王秀徳は物流に便利な成田空港と山東省の港付近に自社工場を持っているが、専用に誂えたオートメーション設備、厳格な品質管理など、すべてが自分の目の前にあり、安心な製品を作っている。自社工場なので24時間生産と配送も可能だ。この点では同業者のなかでもトップクラスである。

品質管理は「冷酷無情」だが、従業員と王秀徳の間には温かい気持ちが溢れている。「2011年3月11日の大震災の時にはすべての工場が停電、断水、操業停止になったが、業界全体のなかで当社だけが出荷できた。なぜかというと、全社員が懐中電灯を手に仕事をしたからだ。昨年の冬、日本は何度か大雪に見舞われた。ある日、駐車場に毎日出勤している社員の車がないことに気付いた。聞くと、駐車場が凍結していたので、その社員はタクシーで出勤しているという。寒いなか遠い道のりだが、彼はそれを誰にも言わなかった。私はすぐに彼を呼んでタクシー代を渡し、夜帰宅する際には車で送っていった」と話す王秀徳の目には涙が光っていた。500人以上の従業員を擁する大きな企業のボスも、この時は気持ちが動かされたのだ。

 
源清田商事株式会社が提供するニンニク製品「黒大蒜」

堅調でもイノベーションを

長年の成長の結果、王秀徳は日本のショウガ・ニンニク業界に大きな影響力を持つようになり、価格決定権を持ち、日本市場の動向を左右できるようになった。この一大産業はどのように創造されたのか。王秀徳の答えは、「着実に最高のものにすること」。

2008年には世界金融危機、2009年には「毒ギョーザ事件」があり、日中農産物貿易に携わる企業の半分以上は撤退を選択した。しかし、王秀徳は投資を拡大し、さらに良い工場を建設すると決めた。「形勢が不利になったからと撤退していたら、事業とはいえない」。

「毒ギョーザ事件」以降、製品の品質を保証するため、日本の顧客に中国の視察をしてもらうことにした。山東省の近代的な工場に足を踏み入れると、顧客たちは「中国にこんな素晴らしい工場があるとは」と驚いた。すぐに日本からの発注書が吹雪のようにやってきて、この王秀徳の「源清田」は日本市場で知られるようになった。

2010年にはニンニク価格が暴騰、半年の間に中国のニンニク価格は40倍以上に跳ね上がった。しかし王秀徳は「バカ」に戻り、基本的にもともとの価格で日本の顧客に販売した。周囲の人には理解されなかったが、「私たちのやっているのは産業で、後は野となれ山となれというブローカーではない」というのが彼の答えだった。

この後、ニンニク価格は大暴落したが、以前のお返しにと、日本の顧客は以前の価格で取引したので、王秀徳は計画的に生産することができ、市場に着実な足場を築いた。

現在、彼の会社には30以上の製品がある。影響力を持つものには、ショウガ・ニンニク類のほか、栗製品もある。もともと栗には興味はなかったが、河北省のクリ工場の社長が5年間連続して彼を訪ねて来たので、6年目に熟慮の末に経営範囲を広げることはチャレンジする価値があるという結論に達した。そこで、彼はやるなら徹底的にやろうと思った。

実は、その半年前から準備を始めていたのだ。彼は社員に甘栗市場のマーケティングをさせ、どの部分が有利か不利かを調査し、一つ一つの点について成算があると考えた。特に製品のパッケージについては社員全体でデザインしたが、日本人社員は自身の心理から、日本人にアピールするものとして、赤に黒の配色に金色のふちを入れたものが、スーパーの照明の下で輝いて高級感が出ると提案した。

その結果、「有機天津甘栗」が日本のスーパーに並ぶと、美しいパッケージと高級な口当たりで大ヒットした。一人一人の努力と知恵が結集されたものであったから、社員たちも大変喜んだ。その後、この製品は優秀な品質によって、2013年モンドセレクション銀賞、2014年には同金賞を受賞した。

新製品を出すたびに成功を収める王秀徳はいつも拡大を考えている。老子の『道徳経』にある「一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」という言葉から、彼は企業の将来の発展に対する全体的な考えを持つようになった。「三は最も安定している。企業の発展方向は三つの柱から得なければならない。第1の柱は中国食品を日本で販売すること、第2の柱は日本の食品を日本で販売すること、第3の柱は中国市場の開拓だ」。現在は二つ目の柱まで確固たる基礎が築けた。三つ目の柱となる業務も「源清田」の誕生から正式に始まった。

日本では「源清田」傘下の東洋食品産業株式会社を設立、千葉の第三工場はまもなく生産開始される。将来は新工場の近代化生産設備によって、コスト競争力を強化し、そのまま食べられる輸入加工野菜と食品を生産し、日本と中国市場に高品質、高付加価値の製品を提供していくという。

中国では山東省の高基準の精密加工工場が竣工しており、山東省党委員会書記の王軍民も視察に訪れた。今後はさらに加工に力を入れ、産業チェーンを延長させていく予定だ。

事業が発展してから、王秀徳は「恩返し」をすべきだと考え、積極的に慈善活動に参加し、社会に還元している。東日本大震災の際には大量の農産品を被災地に送って被災者を助け、主催したチャリティーコンサートには大きな反響があった。日本中華総商会の最年少理事、日本福建経済文化促進会の常務副会長として、彼は「日中貿易交流促進、在日同胞の団結、祖国建設に貢献する」ことをモットーに、積極的に活動している。2013年5月には日中経済貿易の発展に対する貢献を讃えるため、中国国務院は王秀徳を「第9回世界華裔傑出青年華夏行」活動に招待し、彼は国家の指導者たちに接見した。

海外の華人同胞はいかにプラスのエネルギーを発揮させるべきか、王秀徳は次のように話す。「祖国に帰れば中国のなかの一人だが、海外にいればわれわれの言動や行動が中国を代表する。われわれのチームワークの悪さや非文明的な行為は外国人に中国や中国人を軽蔑させることになる。華人団体がさらに多くの同胞を団結させ、中国人一人一人が自分を厳格に律していけば、チャイナドリームを実現させる大きなエネルギーが自然に結集されるだろう」。