石子 順 映画評論、漫画評論家
在留邦人引揚げのため停戦した中国

1946年、100万人に及ぶ日本人の「旧満州」からの帰国を中国側はどのように行ったのか――。そこには米国の仲介と提案に、政治的、軍事的に内戦状態だった共産党側と国民党側とが、戦火をおさめて日本人帰国のために協力奔走したという事実があった。日本人の帰国に中国が果たした役割について、現代を生きる日本人は知っておかなければならない。2014年11月28日、戦後、中国から帰国した映画評論、漫画評論家の石子順氏にお話を伺った。

石子順・ちばてつや・森田拳次著『ぼくらが出合った戦争――漫画家の中国引揚げ行』(2012年、新日本出版社)。
戦後を代表する漫画家たちの共通点――それは中国からの“引揚げ”だった。
日本人引揚げに関する中国側資料をもとに“引揚げ”の真実を詳述している。 

 日本人引揚げは米国の提起から

1945年8月15日、敗戦前後、中国・東北(旧満州)各地から開拓団の日本人はハルピン、長春、瀋陽を目指しました。長春では難民が学校などにあふれました。長春日本人会は1945年9月、東京に電報を打ち、「冬が近い、約80万人の難民がひしめいている。食もなく、住むところもなく、金もなく絶体絶命」と訴えましたが、日本政府は何の手立てもしませんでした。

同年9月29日、中国米国連合参謀長会議は、中国陸軍総司令部に「東北(旧満州)日本人遺送計画」を提起しました。その結果、葫芦島、大連から出港することになるのですが、瀋陽に米軍輸送総部を設け、そこに中国軍を配備し、日本人を内陸から港へ移動させたのです。このように、東北部の日本人引揚げは米軍の計画と提起から動き出したのでした。

 日本人引揚げのために内戦を中断

1946年から中国は毛沢東の共産党軍と蒋介石の国民党軍との内戦が始まっていました。同年1月10日、軍事三人会議(共産党代表・周恩来、米国代表・マーシャル、国民党代表・張群)が100万人を超す日本人の具体的な遺送工作について協議します。実はこのような日本人引揚げに関する共産党と国民党との合意が決まっていく中でも両軍の戦闘は四平、長春などで続いていました。

同年7月1日、日本人引揚げについて共産党と国民党の間で合意文書が交わされます。そこには、双方とも軍事衝突は停止する。日本人に対して、暴行、略奪、侵入、強奪、捜査、脅迫その他の不法行動やその生命財産の侵犯は許されない。上記の違反者は厳罰に処すること。また、双方ともどのような争議が起ころうとも、日本人の遺送を妨害してはならない、と明記されました。

この協定書には、内戦より外国人の、しかも昨日まで旧満州を支配していた日本人の帰国を優先させ無事に完結させようとする中国人の人道精神があふれています。

同年8月21日、松花江以北の日本人引揚げが正式に始まりました。港の葫芦島までの走行距離は何百キロにも及び、途中鉄橋が破壊されていて船で渡河するなど、壮絶な困難が伴ったものの、同年末までに東北各地の日本人合計158回、計101万7549人が帰国できました。さらに、翌47年6月~10月、48年6月~9月にかけて引揚げが続き、総数105万1047人の日本人の帰国が完了したのでした。

資料によると、遺送費用に約10億元使われたとあります。莫大な金額です。これもすべて中国側の負担でした。

 二度と戦争はしてはならない

激烈な戦闘が展開されている中国東北部で、戦火を交えている共産党、国民党が、戦闘を一時中断して日本人を順調に、無事故で祖国に送還しようとした事実に胸が熱くなってきます。

戦うもの同士が戦火をおさめて日本人を帰国させるという人道的な配慮、犠牲的な行為があったのです。だからこそ、短期間に100万人以上もの日本人が日本に帰ることができました。

私自身は父が敗戦まで『満州日日新聞』、戦後は『東北導報』の記者として中国で働いていた関係で、青少年期を中国の長春・瀋陽等ですごし、1953年に長春から帰国しました。ですから当時の状況はよく覚えています。

日本が中国を侵略したのは事実です。引揚げに際して多くの日本人が中国人に生命を救われたのも事実です。「日中不再戦」――二度と戦争をしてはならないという願いを込めて、引揚げの記憶を戦争を知らない若い世代に伝えていかなければならないと思っています。

 

石子  順

映画評論、漫画評論家

<Profile>

1935年京都生まれ。東洋大学文学部中国哲学文学科卒。日本中国友好協会副会長。日本漫画家協会理事。元和光大学教授。主な著書に『平和の探求・手塚治虫の原点』(2007年、新日本出版社)、『中国映画の明星』(2003年、平凡社)、共著に『もう10年もすれば…消えゆく戦争の記憶―漫画家たちの証言』(2014年、今人舎)など。