文久3年(1863)といえば、日本では徳川幕府が崩壊する5年前のことである。梅田雲浜・頼三樹三郎・橋本左内・吉田松陰らを幕府が処刑した安政の大獄の4年後でもある。中国では、清朝への公然たる反旗を掲げて14年間も続いた太平天国の乱(1850~1854)の終末期に当たる。アメリカでは、いわゆる南北戦争(1861~1865)の頃であり、あの有名な「人民の、人民による、人民のための政治」というリンカーン大統領のゲティスバーグ演説は1863年11月19日に行われた。そうした国際情勢の下で突発した出来事だった。
文久3年4月18日(1863年6月4日)、伊豆国賀茂郡の御蔵島(現・東京都御蔵島村)の前之浜の沖で、アメリカの帆船バイキング号が座礁し大破した。全長約60m、横幅約9m、1394トンの、いわゆるクリッパー型と呼ばれる快速帆船だった。香港からゴールドラッシュに沸くアメリカへ向かう途中の、低賃金の広東省出身の労働者460人と米国人船員23人を乗せていた。
季節はちょうど梅雨の頃である。伊豆の島々は何処も、乳濁色の濃い霧に、すっぽりと覆われてしまう。しかも、御蔵島の周辺海域は特に海流が速く、梅雨時には海も時化がちになる。標高851m、晴れてはいなくても、視界がよければ、島があることに気付いたはずだ。おそらく、そうした天候の不運もあって、岩礁に乗り上げて座礁してしまったらしい。
御蔵島の人びとは、島を挙げて、船2隻をゴロタ石の浜に降ろし、島民全員で救助に当たった。それも、救助に向かった島民に対し、略奪行為と勘違いした船員がピストルを発砲する中での、命からがらの人命救助だったらしい。当時の御蔵島の人口が約250人だったことを考えると、島の歴史にとって、大変な出来事だったということができよう。
バイキング号のタウンゼント船長は、傾き始めた本船からボートを降ろし、米国領事館のある神奈川へ座礁の報告へ向かった。一方、中国人は御蔵島へ上陸し、とりあえず、仮のテントを50張りぐらい布設した。船員のほうはバイキング号に残ったが、翌日になると、風波によって船体の破損がさらに進み、船員たちは持てる限りの艤装品・荷物・食糧などを運んだあと、船を放棄して上陸した。
御蔵島
当時、御蔵島には約60軒の民家があったが、このうち半数の30軒を中国人と米国人船員に提供した。一時的ながら人口の約2倍の480人もの外国人を鎖国時代の孤島が宿泊させたわけである。そして、遭難事件の6日後、1475トンの蒸気スループの軍艦ワイオミング号がやってきた。江戸市中の人びとでさえ、夜も眠らせなかったほどの黒船である。眼前で実際に見た島民たちの恐怖感はいかばりか、と想像される。しかし、この軍艦には神奈川奉行所の役人も乗船しており、中国人の遭難者を下田へ移送させることがわかり、島民は小舟を艀の代わりに提供して460人の乗船に協力した。こうして、中国人たちは下田で1カ月ほど滞在したあと、香港通いのドン・キホーテ号でサンフランシスコへ向かった。
一方、米国人船員と奉行所の役人は、事故処理と艤装品・備品などの回収作業のため、その後も御蔵島へ滞在し、その間、島民と一緒に魚釣りするなど交流したと言われている。なかでも当時32歳の書役の栗本市郎左衛門(のち、一郎と改名、明治維新後、村長となる)は短期間に独自の「英単語帳」を作成し、片言ながら英語で日常会話をした。そして、足掛け39日間の滞在後の5月28日(7月13日)、御蔵島への廻船に乗って下田へ去り、それから2カ月後、横浜からボストンのアルゴンクイン号に乗船して上海へ向かった。
以上がバイキング号事件の概要である。ところが、これだけの《大事件》でありながら、日本・中国・米国のいずれの国でも歴史の闇に埋没してしまった。それを掘り起こしたのが東京大学の植物学者、高橋基生(1907~99)理学博士だった。
説明文
実は、昭和34~38年(1959~63)にかけて、御蔵島の隣の隣の新島で「新島ミサイル基地反対闘争」が繰り広げられたことがあった。米軍水戸射爆場の閉鎖計画にともない、代替地として候補となり、一時期は実際にミサイル射爆場として運用された。その計画が中止になったあと、昭和39年(1964)1月18日、「米軍射爆場 御蔵島に内定/防衛庁 近く交渉/島民二百人は立ち退きか」という記事が新聞に載った。
その「内定」も5カ月後には取り消されたが、これにいち早く反応したのが作家の有吉佐和子(1931~84)であり、『海暗』という珠玉の作品となった。一方、高橋基生はその4年前の昭和35年にも御蔵島を訪問していたが、現在、世界自然遺産に指定されている屋久島の、標高は半分にすぎないが屋久島に匹敵する豊かな植物相を持っている御蔵島の自然保護を、再訪・再々訪…することで強く訴えた。その過程で、日中米三国にまたがる、それまで完全に埋没していた友好交流の歴史秘話を発掘したのである。
高橋氏は、すでに最初の訪問のときから、稲根神社の燈籠の奇妙な鉄製の台座の存在が気になっていた。それはのちに錨巻き揚げ用のロクロ=キャプスタンであることが判明したが、幕末の島の書役・栗本一郎の孫の家にあった三つの穴の開いた球状の木製の物体(ロープの締め具)等々から西洋船の難破を推理し、栗本の日記と英単語帳を発見、さらに海底に沈んでいた錨も自費で回収した。そして、アメリカへも足を運び、難破船の正体を突き止める。この事件がアメリカ合衆国で埋没していたのは、南北戦争のとき、バイキング号が南部6州から成るアメリカ連合国(南軍)側に拿捕されて行方不明になったものとして船籍を抹消されていたからである。
(写真は公益財団法人日本離島センター提供)
バイキング号の錨(手前)と錨の巻上げ機を台座に加工した灯籠(奥)
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