厳 浩 日本中華総商会会長
華人パワーを結集し、「チャイナドリーム」を描く

今、世界で海があるところには必ず華人がおり、華人のいるところには必ず華僑団体がある。華僑団体の優秀なリーダーは、往々にして自身も応援を受けた経験を持ち、事業が成功しており、熱意、求心力と行動力を持つ人物である。もちろん、今日の日本における四大華僑団体の一つである「日本中華総商会」の厳浩会長もそういった人物の中の一番推しである。現在、彼は世界で日本人を最も多く雇用している華人企業の経営者である。厳浩氏は日本CRO(医薬品開発業務受託機関)業界を立ち上げた一人であると同時に、中国海外交流協会理事、清華大学健康科学基金理事長、日中医学交流センター副会長などの公職も兼任している。

 

 

回顧

50年は夢のように過ぎた

2012年11月、厳浩氏は「天命を知る」50歳となった。それは半世紀という人生の分水嶺であり、多くの感慨があるに違いない。しかし、彼はそうではないという。

「もうすぐ満50歳だ! 」。鏡を見ながら厳浩氏は自分に何度も暗示をかけたが、少しも感傷的な気持ちにはならなかった。彼はドラマで見た、織田信長の「人間五十年 夢幻の如くなり」というセリフを吟じながら、創業後の重要な節目を蘇州で迎えた。

祖国への恩返しのため、日本で成功した厳浩氏は2008年に故郷の蘇州に益新(中国)有限公司を設立したのである。

30年前、弱冠二十歳の厳浩青年は中国教育部の国費留学生に選ばれ、日本に留学、山梨大学で新しい生活を始め、緊張の多い学生生活のなかで異国での初めての誕生日を迎えた。

20年前、30歳となった彼は自分の会社の近くの居酒屋で誕生日を過ごした。当時、社長でありながら東京大学医学部で大学院研究を続けていた彼は、毎月5万円の交際費しか使わなかった。わずかな交際費では近くの居酒屋で一番安い酒しか飲めなかった。

10年前、不惑の歳を迎えた厳浩氏はイーピーエスグループを率いていた。従業員数は420人を超え、売上高は43億円に上り、拡大の一途をたどっていた。彼は日本のCRO業界のトップの地位を確立し、業界で初めてのJASDAQ上場を果たした。

50年間の起伏に富んだ半生のなかで、厳浩氏は他の人々のようにメソメソすることはなかった。祖国のため、海外の華僑華人のため、イーピーエスグループの発展のためにもっと頑張らなければならない、自分は起業家精神を持ち続けて、山頂を目指す戦士であるべきだと自分に言い聞かせ続けた。

 
2001年7月にJASDAQへ株式を上場するイーピーエス株式会社

成長

多様な文化の混血児

今の江蘇省張家港市は、中国でも著名なスター級の都市であり、連続して「全国百強県・市」のトップにランキングされている。しかし1960年代には長江(揚子江)の流砂の堆積によってできた文字通り田舎の「沙洲県」であった。

張家港市は江南の蘇州地区にあるが、伝統的な江南地方ではない。江蘇省の南北からの移民が集まり、融合した土地だ。北は長江、東は海に臨み、良い漁港となっている。

ここには文化人だけでなく、全国を駆け回る商人、また漁民もおり、インテリ文化、商業文化と河川・海洋文化が織りなす独特の「地方のダイバーシティー」を形成していた。1962年11月、厳浩氏はこの地に誕生した。

彼は、江南文化は京都の文化と似ており、奥が深く、歴史と文化の香りに満ちているが、京都の文化は排他的、保守的であり、江南の移民文化の寛容さと開放性は欠けていると話す。このように日中両国の文化のなかにある微妙な相違点を感じつつ、華人たちは日本社会に溶け込んでいくのである。

張家港市に生まれ育った厳浩氏は、自分を「文化の混血児」だと言う。文革後に大学入試が復活した2年目、彼は比較的近い上海や南京の大学を選ばず、優秀な成績で天津大学電子工学科に合格し、研究で人生を切り開く夢に向かって羽ばたいたのである。

1979年当時、中国の大学生は全国各地から集まっていた。厳浩氏は寮の8人部屋に入ったが、同室には17、8歳から30歳過ぎまでさまざまな年齢の学生がいた。

しかし、同級生にとってなまりの強い標準語を話す厳浩氏は、優雅なインテリ江南人のイメージではなかった。彼は正義を語るのが好きで、さり気なくしゃべる率直な人柄であった。長春にある東北師範大学で留学準備のため日本語を学んでいた時、その率直さのせいで東北人と間違えられたほどであった。

故郷を離れてから厳浩氏は全国を歩き、豪快に飲み食いし、沢山の友人と付きあい、どこに行っても現地の仲間と馴染んでしまう。大きな会社の代表、上場企業のトップらしくないと言う人もいる。

しかし、これは彼が多様な文化の影響を受け、文人ビジネスマンの知恵と義理と人情を身につけていることを知らないからであろう。そういったものは彼の行動に自然と現れており、何も飾ろうとはしていない。

厳浩氏は細かいことは気にせず、率直に人と付き合う。彼のような、自身の真実を追究し平然としている様子は、北方中国では「不装蒜」(ニンニクを装わない=気取らない)と称される。

 
在日華人代表の厳浩氏(左1)らに接見する習近平国家主席

伝説

正真正銘の「日本的ボス」

1988年、山梨大学で修士の学位を取得し研究所に入った厳浩氏は、しばらくすると大きな選択をした。もともとのコンピューター専攻から転向し、東京大学医学統計専攻の博士課程の院生となったのである。これは間違いなく彼の人生の方向転換となった。

当時、医学統計専門はまだ日本では確立されたばかりで、指導教授はこの分野の絶対的権威であった。厳浩氏はすぐに薬品会社が欲しがる「レア人材」となった。

日本の大きな製薬会社が次々にやってきて、医学統計プロジェクトを完成させてほしいと依頼したため、彼は多忙を極めた。時間が経つにつれ、彼の頭の中には「起業」という大胆なアイディアが浮かんできた。

当時、外国人が日本で起業することは非常に難しかった。日本は古い伝統文化を持ち、排他的である。外国人が日本で会社を経営することは大変なことである。

1991年5月、専門の強みを握っていた厳浩氏は、友人たちと「株式会社エプス東京」を設立した。日本文化を良く理解していた彼にとって処理できないことはなく、日本のCRO業界のリーダー的存在にまで成長した。

いわゆるCROとは、医薬品開発業務受託機関を指す。厳浩氏の会社はCROの核心である、製薬会社の臨床試験業務のアウトソーシング(CRO)と医療機関に対する 治験施設支援(SMO)などの臨床試験業務を行っている。

1994年に請け負った厚生労働省の大型臨床試験プロジェクトが、イーピーエスが飛躍するきっかけとなった。当時は厚生労働省内で中国人が社長の会社に委託してもいいものか検討されたが、最終的には厳浩氏の会社が選ばれた。

「厚生労働省の担当者たちはみな医学プロジェクトに携わっており、科学的な精度がプロジェクトの成功には最も重要であったため、その点でわれわれが候補のなかで最も強く、誤差の範囲を最低限度内にコントロールすることができたので、ほかの要素は考慮しなかったのだろう」と、彼自身は分析している。

厳浩氏は会社では中国という自身のバックグラウンドを隠すことはないが、日本文化に対する教養とうんちくのため、多くの日本人従業員は「ボス」が中国人だと分からない。

ある時、アメリカ人の顧客が会社に電話してきて「中国人の厳さんはいますか?」と聞いてきた時、新入社員がそんな人はいないと答えてしまったほどである。

厳浩氏は、日本的な思考習慣と形式によって、よく日本人従業員の文章を直している。従業員にとって、彼は正真正銘の「日本的ボス」なのである。

厳浩氏自身が取り仕切った厚生労働省のプロジェクトは10年間続いた。2004年にプロジェクトが終了した時、彼は会社名をイーピーエス株式会社に変更し、日本のCRO業界のリーディングカンパニーとなった。

この厚生労働省のプロジェクトによって書かれた学術論文は世界的な権威を持つ医学雑誌『ランセット』に掲載され、世界的に注目された。

その後、イーピーエスは急速に発展した。2001年7月にはJASDAQに上場、CRO企業として日本で初めて株式上場を果たした。2004年には東証二部に上場、2006年には東証一部に上場を果たした。

現在、同社は約4000名の従業員数を誇るグローバル企業となった。傘下には、日本、中国、アメリカ、韓国、シンガポール、フィリピンなどの国々に30数社の子会社があり、医薬品分野でファンド投資、新薬研究開発、臨床試験管理、データ管理、人材派遣、ITソフト開発、教育研修事業などの業務範囲をカバーしている。

厳浩氏はイーピーエスの経営理念を「顧客志向、ビジネス志向、人間志向」としている。彼は、企業は正しい手段で顧客にサービスを提供し、付加価値を創造し、合理的な利益を獲得し、最終的に納税して社会に還元しなければならないと考えている。

このような良性の循環を実現する企業活動の中で、最も大切なのは人を選び、人を使い、人を育てることだという。「企業経営で幹部をうまく使い、従業員をうまく管理し、コア人材を育てることにポイントを置くのが、日本型の企業文化の特徴だ」と彼は語る。

 

結晶

積極的な華僑団体のリーダー

厳浩氏のもう一つの重要な身分は、日本の華僑団体のリーダーである。1990年代末、日本での華人企業の増加に伴い、組織化して華人企業家のパワーを結集し、日本での中国人のイメージアップをはかろうという声が高まった。

1999年9月9日、厳浩氏らが発起人となって日本中華総商会が設立され、彼は副会長に就任した。2年後彼は会長に推薦され、2009年に再選し、現在に至る。

日本中華総商会の歴史はまだ浅いとはいえ、厳浩氏個人の独特の魅力と突出した運営能力によって、多くの優秀な在日華人企業家が集合しただけでなく、2007年には神戸で開催された第9回世界華商大会を主催し、成功に導いた。まさに彼は日本中の華人から尊敬を集めるビジネス界のリーダーとなった。

現在、厳浩氏は毎年中華総商会のメンバーを引き連れて中国人民代表大会華僑委員会、国務院華僑弁公室、中国工商連合会、中華海外聯誼会、中国華僑連合などを訪問し、在日華人企業家の新しい姿を示し、祖国との連携と交流を強化し続けている。


当時の蒋宏坤・中国共産党蘇州市委員会書記(右)に益新ビルの建設状況を報告する厳浩氏


常に社内で日本人社員と交流する厳浩氏(中)