陳 建一 日本中国料理協会会長
親子三代で築いた味

グルメは音楽と同様、国境を持たない。中国人のいるところに中国料理店あり、中国人は中華料理を世界中に広めたと言った人がいた。その言葉の後半は特にその通りだ。しかし、中国人のいるところに中華料理店があるというわけではなく、すべての中国料理店が四川飯店のようになるというわけでもない。四川飯店とはどんなレストランなのか。それは首相や政治家、財界、芸術界など各界の一流どころが訪れる四川料理のチェーン店であり、皇太子さえもこの店のファンであるという。2014年5月7日、東京・赤坂の四川飯店を訪れ、インタビューを行った。

 

四川飯店の代表取締役である陳建一シェフは在日華人であり、日本では知らない人がないほどの有名人である。36歳の時、フジテレビの料理対決番組『料理の鉄人』に出演し、6年間に渡り挑戦を受け続け超越した料理の手腕を発揮、テレビの前の人びとを釘付けにし「中華の鉄人」と呼ばれた人物だ。

父である故陳建民氏はさらにすごかった。生前「中華の食神」、「四川料理の父」と呼ばれていた陳建民氏は1950年代に日本に渡ってきた。旅費が少なかったので、中華鍋をかついできた陳建民氏は小さなレストランで臨時に働いたが、数日で料理長になった。すぐにその料理の腕は知れ渡り、またレストランで働いていたウェイトレスの女性の心もつかんだのである。

陳建民氏は日本で家庭を持ち、四川料理も日本で花開いた。麻婆豆腐、担々麺、宮保鶏丁、青椒肉絲、回鍋肉など、日本人が誰でも知っている料理は、すべて陳建民氏が日本で広めたものである。陳建民氏の孫に当たる陳建太郎氏は、「日本では1960年代以降ようやく四川料理が知られるようになったのです。それ以前、日本人は麻婆豆腐がどんなものかも知りませんでした。1978年、鄧小平氏が訪日した際、「勅令」によって祖父が京都に行き、鄧氏に日本の四川料理を味わってもらったそうです」と語る。

「一人の人生を理解したかったら葬儀に行けばいい」と言われるが、「中華の食神」陳建民氏の青山斎場で行われた葬儀は参列の人で溢れた。黒い礼服の人びとは、その人柄と料理に傾倒した日本人たちであり、白い服の一団は陳建民氏が育て、教育した大物シェフたちであった。食によって胃を征服し、徳によって心を征服した陳建民氏を慕い、追随する人は多かった。

日本には、「息子は父の背中を見て成長する」という言葉がある。陳建一シェフは小さい頃から父の背中を尊敬のまなざしで見つめてきた。彼は、父は家では優しかったが、いったん厨房に入ると金剛力士のような眼光で、何も言わなくても威厳があり、一挙一動がお手本になったと言う。陳建一シェフは大学卒業後、迷わず四川飯店に入り、父から四川料理を学んだ。

陳建一シェフは「私は皿洗いから始めました。父は大変厳しかったけれども、最高の指導者でした。この業界では多くの人が自分の技術を隠しますが、父は違いました。自分が長年研鑽と工夫を積んだ秘訣を伝授し、そしてまた自分で新しいものを創り出したのです。父の口癖は、料理を作る人が幸せだと食べる人も楽しめる、というものでした。ですから、父はいつも弟子に対して、心を整えればいい料理が作れると言っていました。父本人もそのように料理を作っており、知らず知らずのうちに鼻歌を歌っていることさえありました」と語った。

陳建民氏の麻婆豆腐は日本人の視野を広げ、息子陳建一シェフのエビチリは日本人に中国料理のすごさを知らしめた。陳建一シェフは、「僕のエビチリが日本人に人気があるわけは、まず日本人がエビ好きであること、次に僕の味付けが白いご飯によく合うこと、また日本人は食事の見た目を大切にしますから、エビチリという料理の色がとてもきれいなこともあります。四川料理のエビチリはトマトケチャップを使いませんし、その味はしませんが、私はトマトケチャップと新醸造の豆板醤を使い、料理の色を鮮やかにし、おいしいものに改良しました」と話す。

学習と改善を続ける、これもまた陳建一シェフの成功の秘訣だろう。6年に及んだ「料理の鉄人」では92回の挑戦を受け、17連勝して番組最高記録を打ち立てた。陳建一シェフの相手であるフレンチのシェフやイタリアンのシェフとは対決を経て親しくなり、互いに学び合った。番組が始まって3年目、陳建一シェフは母親が亡くなったショックで、出演を辞退しようとした。フレンチの鉄人であった坂井宏行シェフは彼を引き止め、「やめる時もいっしょ、残る時もいっしょ」という約束を交わした。「王は王にまみえず」と言うが、それは独善的な人間の所作であり、優秀な人間は、ライバルと出会い、対決の中で向上することを望んでいるものだ。

陳建一シェフは四川飯店を受け継いでから、店舗を14店まで増やし、また多くの四川料理の料理人を育てた。彼は四川料理の品種と味を伝承しつつ改良し、また顧客サービスの精神を重視して、お客の食事のスピードを見て料理を出し、総店長の身でありながら、以前と同様に料理の皿を掲げて厨房と客席を行き来するのを好む。それは、「お客様が料理を味わった後、喜んで満足した笑顔を見たいからです。それが僕の一番幸せな瞬間なんです」と言う。

2008年11月11日、当時の舛添要一厚生労働大臣は陳建一シェフを、日本に中国料理を広めた大きな貢献と調理上の卓越した技能があったとして表彰した。陳建一シェフはこの表彰状を赤坂四川飯店の壁に掲げているが、その横には1987年11月10日、当時の中村太郎労働大臣が父陳建民氏に出した表彰状がある。親子二代もとに日本国が認めた現代の名工である。

2013年11月2日、陳建一シェフは黄綬褒章を授与された。この受章の知らせを聞いた彼は、「いつも全身全霊で打ち込む。これは言うは易くなすは難しだ。根気と志がなければやりとげられない」と語った。陳建一シェフの長男である陳建太郎氏は今年34歳、祖父、父と同じ道を選び、受け継いでいる。三代目建太郎氏の代表作は麻婆豆腐である。彼は、「麻婆豆腐は私たち四川飯店を代表する料理であり、最も大事な料理です。祖父が日本に普及させた料理であり、私は祖父と同じ味を作ることができます」と語る。

陳家の麻婆豆腐は、元来の四川料理とは少し違う。拉(辛さ)、麻(しびれる)、甜(甘さ)、咸(塩辛さ)、柔らかさ、滑らかさなど多くの味と食感が一皿になり、味蕾にさまざまな刺激を与え、頂点に達するものだ。建太郎氏によると、「陳家の麻婆豆腐で使う豆板醤は最低でも3年間発酵させたもので、非常に香りが濃いものです。また自家製のラー油、甜麺醤などもあります。豆腐の口当たりの滑らかさを保つために、豆板醤と炒める前に必ずボイルします」とのことだ。

日本で育った建太郎氏は、父祖の地である四川省に現地の四川料理を学びに行き、継承と同時に改良、開拓し、欧米飲食文化の低温料理法などを取り入れた。彼は日本に日本料理、イタリア料理、フランス料理の友人が多く、いつも共に切磋琢磨し、長所を取り入れている。この陳家の三代目は若さの中に老成した風格を感じさせる。

インタビューのなかで陳建一親子は、厨房の技術のためには良い調理器具が大切だと話した。包丁は中国式の包丁「菜刀」、まな板は伝統的な木製の厚みと密度があり、丈夫なもの。これがおいしい料理を作る前提で、次には真剣な態度が必要で、何百回目に作る料理でも初めて作る時と同じようにおろそかにせず、真面目に取り組まなければならない。最後は「愛」を持つことで、自分の愛する人のために料理を作る気持ちで、お客様に料理を作ること、それらのことは日本で頑張っている華僑華人の同業者にも言いたいことだという。

真剣な態度と愛に満ちた心で、陳建民氏は戦後日本の復興期に、中華鍋と包丁を持って中華料理を海外の新天地で広めた。さらにうれしいことに彼の技術と精神が、二代目、三代目、そしてさらに多くの華僑華人シェフたちに引き継がれ、広められ、日本のグルメを創造し豊かにしてくれている。

インタビュー終了後、「中華の鉄人」陳建一シェフにいつものように揮毫をお願いした。彼は力を込めて「食芸無涯」と書いてくれた。この四文字は陳家三代の倦むことなく努力し、研鑽を続ける精神を示している。

(写真/本誌記者 呉暁楽)