困難な時にこそ中日友好の民間交流を 豊中市で日中友好シンポジウムを開催

科学者で毎日新聞記者だった西村真琴(1883年―1956年)と中国の文豪、魯迅の交流をたどり、中日友好を考えるシンポジウムが2月23日、大阪府豊中市内で行われた。テーマは魯迅から西村真琴に贈られた詩から引用した「度盡劫波兄弟在(苦難を乗り越えれば兄弟がいる)」で、中国における魯迅研究の第一人者、上海魯迅記念館の王錫栄館長一行を迎えて、盛大に開催された。

 

シンポジウムに先立ち、豊中市立中央公民館において、「西村真琴と魯迅展」が中国の二胡の名手、王雲逸氏による演奏で開幕した。小田眞弘・NPO大阪府日中友好協会理事長、汪小?・上海市人民対外友好協会常務副会長、王錫栄館長、張梅・中国駐大阪総領事館政治文化室長(領事)らがそれぞれ挨拶し、中日文化交流の重要性を訴えた。

このシンポジウムは豊中市日中友好協会の15周年記念行事で、田中潤治・豊中市日中友好協会会長は、中日関係が厳しい状況の中、講演会のテーマを王館長から「『度盡劫波兄弟在』にしましょう」との提案を受け、西村が晩年を過ごした大阪府豊中市で実現にこぎつけた経緯を紹介。「西村真琴を世界に宣揚したい」と抱負を述べ、「日中関係が冷え込んでいても、民間交流を進めることが重要です。2人が友情を結んだ歴史から学びましょう」と力強く呼びかけた。

講演会では王館長が基調講演し、魯迅が西村に贈った詩『三義塔に題す』を解説した。

中日間の戦争となった上海事変(1932年)の直後、奉仕団団長として中国を訪れ、被災者の救援活動をしていた西村真琴は飢えて飛べなくなったハトを見つけて大阪に連れ帰った。このハトは上海近郊の三義里の街で見つけたので三義と名付けられ、毎日新聞社の鳩舎で育てられた。西村はひなが生まれたら中日平和友好の使者として上海に贈りたいと願っていたが、不幸にもハトは死んでしまう。

1933年2月、彼はハトの絵を描き「西東 国こそ異(たが)へ 子鳩等は 親善(したしみ)あへり 一つ巣箱に」(中国と日本は戦争中だが子鳩たちを見よ、巣箱の中には友好がある)の和歌を詠み、魯迅に贈る。

感激した魯迅は同年6月、七言律詩『三義塔に題す』を詠み、西村に贈った。最後の2行、「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」(劫波を渡り尽くせば兄弟あり 相逢うて一笑、恩讐は滅ぶ=今、中日両国の間には遠い隔たりがあるが、年月をかけて苦難を乗り越えれば両国の民衆はもとより兄弟だ。その時に会って微笑み合えば深い恩讐も消え去るだろう)は中国で有名であり、しばしば国家要人により中日間の友誼を示す時に引用されている。

王館長は、ハトは平和の象徴ですと前置きし、「魯迅本人が経験した戦闘の激しさを詩に表したもので、避けられない大きな災難に遭っても、乗り越えることで兄弟になれるという平和の願いが込められている」と語った。

そして、「魯迅思想に最初に応えたのは内山完造先生(上海・内山書店店主)です。彼は魯迅を支持し、信用し、守りました。その後、日中友好に尽くし、初代日中友好協会理事長になりました。遺骨は遺志により上海に埋葬されています。魯迅思想に応えたもう一人は池田大作先生です。池田先生は1968年、中日関係が冷え込んでいた時期に勇敢にも国交回復提言を発表し中日友好を訴えました。そして、1974年に初訪中し、魯迅の故居を訪問し、その後、世界に魯迅を宣揚しました」と述べた。

さらに、「魯迅は戦争中の一連の行動を通して西村真琴を中日友好の闘士と認めていました。今日、中日両国の関係は未だ緊張していますが、我々は困難な時期にこそ民間交流を強化し、ともに『劫波』を渡り切りましょう」と話し、最後に、日本語で「中日両国人民のために頑張りましょう!」と結んだ。

その後に行われたパネル討論会では、マチゴト編集長、毎日新聞社の梶川伸氏が司会を務め、王館長に加えて、西村真琴の孫である松尾宏氏、西村顕彰の会の寺本久子氏、内山完造の縁者である佐藤明久氏が登壇し、それぞれの立場から西村と魯迅の人物像について披歴した。

佐藤氏(福山市日中友好協会会長、上海市名誉市民)は魯迅について、「『ありがとう』と感謝の言葉を大切にする人で、多くの日本人と交流した」と述べ、「ともに手を取り合って民間の交流を前進させましょう」と話した。

西村真琴は中日戦争開戦始期の1939年に中国人孤児68人を大阪に引き取り、養育したことでも知られている。(編集後記に詳述)

学究、融和、人間愛に生き、中国と日本の友好に尽くした西村真琴・魯迅そして日本友人たちとの秘められた物語は、80年の時を越え、中日友好交流のあるべき姿を問いかけている。


パネル討論会の様子


豊中市立中央公民館前の「三義塚」と魯迅の名詩「三義塔に題す」を刻んだ石碑