一個人の歴史はその仲間の縮図でもあり、民族の痕跡を濃くとどめている。
愛する舞台に別れを告げる
社会学者が注目する不思議な現象、それは海外に出た中国人がみな出国した日付をはっきり覚えていることである。現在、全日本華僑華人連合会の会長となった顔安氏も質問に答え、1988年4月1日に来日したとすらすらと答えてくれた。
その日、顔安氏は大勢の人たちとともに成田国際空港に降り立つと、日本での保証人の顔を見つけ、不安な気持ちが少し落ち着いた。彼は、自分が見知らぬ国に来て新しい人生の幕を開けたこと、そしてそれはもう戻れない長い旅路であると感じていた。
来日したその日の夜、顔安氏は東京・赤坂の全日空ホテルに泊まったが、なぜかどうしても眠れず、窓辺に座って道路上のまばゆい光の帯を見ていた。まるで人間の血液が血管をめぐるように流れていく自動車のライトは、彼に東京という国際都市の活力と繁栄だけでなく、ある種の刺激、またある種のギャップを感じさせた。
彼は中国で10年間人民解放軍総政治部歌舞団に勤務しており、その間実績を上げて舞踊界の有名人となっていた。彼が出演した「兵士行進曲」は全解放軍舞踊コンクールで第1位となり、「海燕」は全国舞踊コンクールで1等賞を獲得した。
28歳の時、彼はダンサーとしての舞台生命は長くはない、舞台に別れを告げる時が来たと感じた。一人の男として、さらにチャレンジし、もっと輝かしい人生を創造すべきだと考えていたところ、まるで運命づけられたかのように日本に行くチャンスがやって来て、彼の進む道が決まったのである。
来日の前日、彼は毎日レッスンした舞台を訪れた。18歳から28歳まで10年間の青春の汗がしみ込んだ舞台で、彼は深夜11時に最も好きな作品を静かに踊った。一人踊る舞台に沸き起こる拍手は聞こえず、涙を止めることはできなかった。
日中の文化を融合し、体験
日本語学校で1年間学んだ後、日本の大学を受験する時期が来た。顔安氏は新しい生活、新しい専攻を選択し、新しい職業に就こうと考えた。同級生たちが受験のために飛び回っている時、彼は落ち着いて真剣に将来を考えていた。 「自分は何がしたいのか。何ができるのか」と何度もペンをとり、何度もペンを置いた。最後に大きな白い紙の上に書かれた文字は、意外にも彼が別れを告げたもの――「舞踊」であった。
受験の方向性を決めた後、彼はすぐに愚かさを思い知った。日本各地の芸術大学の資料をどうひっくり返しても、舞踊科は言うまでもなく、芸術学部も見当たらない。どこが芸術大学なんだ? その後、すぐに日本では舞踊科は体育学部に区分されているということを知り、笑うに笑えず泣くに泣けない気持ちになった。十分な基礎力を持った顔安氏は間もなく東京学芸大学に合格し、全額奨学金も獲得した。
再び絢爛たるステージに立った顔安氏は、すぐに感覚を取り戻した。彼の優美な舞踊は、教師や学生たちを魅了し、彼は教授の授業を助ける「学生兼先生」となったのである。日本のダンサーたちとの切磋琢磨のチャンスを得、彼は日中両国の舞踊教育には大きな違いがあることを知った。
中国では舞踊専攻の学生に対し、厳格に身体的な条件で選考する。特に身長、身体の柔軟性、能力、バランスなどを重視するので、選ばれた学生はみな優れた身体条件と素質を持っている。日本では学生の舞踊に対する情熱を重んじ、身体的な条件は重要な要素ではなく、舞踊の目的も主に身体を鍛えること、心身の練磨に置いている。
彼は日本では舞踊の専攻科が体育系とされている理由を知った。「日中の舞踊文化はもちろん異なるが、それぞれに長短があり、もし二つを融合させれば一流の人材を育成できる。この点だけから見ても、文化の融合は一つの分野を発展させる起爆剤となり得る」と語る。
日中の舞踊文化の違いを理解した彼はさらに学び、さらに教え、理解を深め、自家薬籠中の物とした。卒業に際し、教授が「君のような学生は大学創立以来、最初で最後の一人だろう」と感嘆しただけでなく、学長、学部長、学科長などが代わる代わる厚遇を約束し、大学に残るようにと勧めた。
しかし、この時彼は「日本に来たのは新しい人生にチャレンジするため、新しい仕事を始めるためじゃないか。最初の理想を忘れたのか」という自らの声を聞いた。彼は大学からの申し出を婉曲に断り、再び舞踊に別れを告げ、1993年、三菱倉庫株式会社に入社し、ビジネスマンとしてのスタートを切った。
ビジネス界で成長
当時、市場経済の大波が中国大陸に押し寄せ、日本企業も勢いに乗って中国に進出した。「三菱」のネームバリューは日本だけでなく、中国でも大きい。中国で求人を出せば一人の枠に有名大学から200人以上が応募してきた。
いったい三菱という老舗企業の魅力は何か、どんな企業文化を持っているのか。本社での経験に、顔安氏は衝撃を受けた。社内にはヒマな人はいないし、ヒマな時間もない。みんな小走りで仕事しており、緊張した雰囲気は戦場にも劣らない。遠くから社長がやってくると、社員たちはさっと一列に並んで、頭を下げて大きな声で「おはようございます」と言う。同じ服装、同じ動作、同じ表情だ。彼は「社内天皇」という意味を知った。
「以前は舞台関係の仕事で、比較的個性的で自由だったのに、突然忙しく、統一され、服従するという環境に入ったので、とても新鮮で刺激的で、これこそ自分が求めていた生活だと思った」と往時を回想する。
そうした企業文化の薫陶のもと、彼はすぐに三菱倉庫の広州事務所の首席代表に就任した。毎日のコンテナの運搬が彼の生活のすべてとなり、夢のなかでも「コンテナ」にうなされるようになった。この換骨奪胎の変化は、彼を苦しめかつ成長させた。
彼は当時、「人生の前半は芸術と付き合い、舞踊で人生を表現した。まさか後半は広いビジネスの海のなかで、人生をコンテナで埋めるというのか」と自問自答した。ある種の悔しさが沸き起こり始めた。本当にどうしようもないのだろうか、と。彼は「いや、10年以上のアーティスト人生と、ビジネスマンの経験はすべて成功したといえる。二つを結び付けて、芸術とビジネスを兼ね備えた文化交流活動を始めよう」と突然ひらめき、人生の新しい方向を見つけたのである。
新しい人生へ
1997年2月、顔安氏は誠成日本株式会社の社長に就任し、日中文化交流活動の仕事を始めた。そして3000名余の専門家が編纂し、現代中国の四庫全書と言われた『伝世蔵書』の総代理店となり、総額で1億円を超える『伝世蔵書』を販売し、中国文化を日本企業や大学などに伝えたのである。
2002年、日中国交正常化30周年と中韓国交樹立10周年を記念し、彼は日中韓の三カ国のトップダンサーによる「2002年日中韓コンテンポラリーダンス共演」を東京、上海、ソウルで開催し、三カ国のダンスの祭典を観客に提供した。これは彼の人生の一里塚となった。その後、彼は日本全国のダンスコンクールのただ一人の外国人審査員となり、中国障害者芸術団の来日にも協力した。
2009年11月11日、中国人民解放軍総政治部歌舞団がニューバージョンのオリジナルオペラ「木蘭詩篇」を携えて来日、学習院大学創立百周年記念会館で日本のロイヤルチェンバーオーケストラの伴奏により公演を行い、大きな称賛の拍手が送られた。
皇太子殿下も来場、鑑賞されたこの素晴らしいステージは観客に芸術を味わわせ、さらに中国の「和」の理念を一衣帯水の隣国――日本に伝えたのである。彼は、日本公演の総プロデューサーを務め、短期間で中国国際文化芸術公司と共同で大規模かつ高いレベルの公演を実現した。公演は日本で空前絶後の評判を呼び、『人民日報』や新華社通信などの中国メディアや日本の各メディアも大きく報道した。
在日華僑の「空母」に
顔安氏はさまざまな実績を積んだものの、その上にあぐらをかくことはなかった。どのように日中交流活動をさらに進めるか、彼は考え続けた。華僑団体はその重要な突破口ではないか。彼は積極的に華僑団体の活動に身を投じ、第9回世界華商大会副主席、中華海外聯誼会理事、中国海外交流協会理事、中国華僑聯合会委員、日本中華総商会副会長を歴任、2013年には日本新華僑華人会の会長に就任した。
「一人の中国人は龍、10人の中国人は虫だと言う人がいますが、私はそうは思わない。全日本華僑華人連合会には、教授会、総商会、弁護士会、中華芸術聯合、博士会、科盟会や各地方の会など40以上の会員団体があり、来日してからの期間では、老華僑華人協会、新華僑華人協会などがあります。こういった団体は、その性質やメンバーはそれぞれ異なるし、ある種の問題に対しては考えが異なってさえいるが、連合すれば華僑団体の『空母』となれるのです」と話す彼はパートナーたちとともに、日本新華僑華人会を10年間で大きく発展させたのである。
彼は華僑団体の仕事でますます忙しくなり、ステージに上がる時間はますます少なくなったが、それを残念に思ってはいないという。「私はもう一つの舞台で踊っています。日本にいる華僑華人の各業界は皆優れていて、彼らが設立した各団体もそれぞれの役割を演じてくれています。連合会の会長として、舞踊の監督のように、彼らの特長を有効に結集し、彼らの間にあるわだかまりを解消し、老華僑と新華僑の協調関係を築き、日本の華僑華人の総体的な力を強めて、世界という舞台で共に軽やかに舞ってほしいと思います」。
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