毛 丹青 神戸国際大学教授
第2、第3のノーベル賞受賞を目指す中国

ノーベル文学賞、これは中国人なら誰しもが憧れ、認める世界的な賞。そして、まるでオリンピックや万博と同じように、中国人の気持ちを昂揚させ興奮させるもののひとつだ。中国初のノーベル賞作家、莫言。それにしても、これを機に中国の現代文学が世界に受け容れられるようになれば嬉しいかぎりである。なぜ、これまで世界で認められる作家を輩出できなかったのだろうか。

そのあたりについて、さっそく、蒋豊編集長と日本の神戸国際大学・毛丹青教授が新春対談を行った。

 
神戸国際大学・毛丹青教授(右)と対談する本誌蒋豊編集長(左)

蒋豊 莫言氏がノーベル文学賞を受賞したことは中国だけでなく、中国現代文学に極めて大きな刺激を与えたといって良いと思います。もちろん、このノーベル文学賞は、経済学賞、化学賞、物理学賞などと違って、同じ国の人が続けて受賞することはめったにありません。アジアでは日本だけがノーベル文学賞を二度受賞していますが、その間は26年もありました。

毛丹青 莫言氏がノーベル文学賞を受賞することができた、あるいは中国大陸の作家がこの賞を受賞することができたという背景には多くの要素が絡まっていると思います。ですから、これについて、あれこれと論評すべきではないと思っています。大事なことは、中国現代文学にはかつて中断期があったということ、つまり中国の『文化大革命』の期間があったということです。あの時期には『艶陽天』、『金光大道』といった名作、文学作品がありましたが、当時の作家は外国と交流する術がなかったのです。実に残念なことです。もちろん、その時期が終わり“開放”されたわけですが、その後の中国現代文学は映画の分野でもそうですが、話題作を世界中に発表しています。その意味ではこの受賞は意義があるといえるでしょう。

蒋豊 中断していた中国現代文学が息を吹き返したという点では意義深い受賞だったと思います。これからは中国の作家もドンドンと自由に外国へ出かけ、国外の作家や読者と交流を繰り広げ、自分の目で外国を見聞すべきではないか。このままだと「井の中の蛙」になり「大海を知らず」ということになるのではないかと心配しています。

毛丹青 莫言氏がノーベル文学賞を受賞した後、多くのメディアが彼は日本に来たことがあるのかどうかを聞いてきます。実は、彼は既に十数回日本に来ているのです。中国の大多数のメディアは何故このことを知らないのか。簡単です。それは、彼がその頃、まだこの賞を取っていなかったからです。賞を取ることによって、莫言氏の言動が取り上げられクローズアップされたのです。当然、氏の日本行きは彼の作品に大きく影響を与えたと思います。かくいう私も、90年代に氏の日本訪問のために力を尽くしたひとりです。

蒋豊 まだ覚えていますが、90年代に莫言氏が初めて日本を訪れた時、毛教授がずっと付き添って世話していましたね。そのとき、たしか渋谷で莫言氏と私たち在日の新華僑メンバーと出会ったのですが、「毛教授が自由にさせてくれない、自由にモノもしゃべらせてくれない」「毛教授はいつも『私の言う通りにしなさい』というんだ」と笑っていました。その後、莫言氏を連れて新宿の歌舞伎町をブラついたり、駒澤大学では大学の中国文学研究者や中国文学愛好者と会いました。おかげで、帰国してから書いた莫言氏の作品にはそれが反映されていました。当時の日本の若い女性についての記述には、それまで氏が抱いていた日本女性に対するそれとは違い、初々しい表現で書かれていました。こういう、人と人との交流は非常に重要です。それまでもそうですが、毛教授のこうした交流活動こそが大切なのです。莫言氏にとっては日本を知る好機になったと思われます。これは忘れることのできない貢献です。

毛丹青 話を戻すと、中国の現代作家には、外国に積極的に出かけ、触れ、交流するということだけでなく、どうやって交流するかという問題があります。そして、交流を広げるだけでなく、誰と交流するかという問題があります。もし外国へ行くだけで、それがつまり交流なのだと考えるなら、その交流のレベルは低すぎます。莫言氏の出国は実にその点、彼の血肉になっていると思います。とくに、彼の作品の翻訳者との交流は刺激的な出会いだったと思うし、役に立ったと思います。

蒋豊 90年代に、私は日本で何冊かの歴史学の著作の翻訳をしました。そのとき学んだことは、著者と精神的に共鳴することがなければ良い翻訳者にはなれないということでした。私の知る限り、莫言氏の作品は何人もの訳者がチャレンジしたと聞いています。それほどに訳者との呼吸がピッタリと合っていなければ完訳などできないのです。

毛丹青 これこそ、私がいちばん話したかったことです。私は莫言氏がノーベル賞をとってくれたことで、中国の現代文学がどうやったら世界に広められるかということがわかったのです。文学はもちろん言葉の芸術ですから、書き表した母国語が大事になってきます。だから、外国語に翻訳されるとなかなか原作者のニュアンスが伝わらなくて困ることがあります。言語にとって美とは、やはりその言葉や文章の背景に隠されているものだと思います。それを翻訳によって表現してくれてこそ、外国に「広められ」たことになるのではないでしょうか。これが、莫言氏のノーベル賞獲得で私が最初に思ったことです。例を挙げて話しましょう。莫言氏の小説は日本では3人の日本人の中国研究者が訳してきました。最初に彼の作品を翻訳した中国研究者は井口晃氏です。この人は中央大学の方で、莫言氏の小説『赤いコーリャン』を翻訳しました。ただ、この人の面白いのは、彼はこの小説を翻訳した後に、何とも不思議なことに、小説の後書きで莫言氏のことを口汚く罵っているのです。もし罵りたいのなら、何故彼の作品を訳したのでしょうか。

蒋豊 訳者が作者を罵るという現象は中国では『文革』の時期によくありました。それは、中国の翻訳者はある作品を翻訳するよう指定され、翻訳が完成した後、批判の文章を一緒に書く必要があったからで、作者を「けなす」ということは日常茶飯事でした。日本でもこんなことがあるとは思いもしませんでした。この翻訳者はいったい何をけなしたかったのでしょうか。

毛丹青 『赤いコーリャン』で書かれているのはハンセン病で、莫言氏はある環境下で執筆したのです。この小説が話題になったのは張芸謀(チャン・イーモウ)氏の映画『赤いコーリャン』のおかげだと思います。もしこの映画がなかったら、莫言氏も生きていられなかったでしょう。あるとき莫言氏がその当時のことについて私に回想していたのを覚えています。それは彼が(下放先の)田舎から北京に戻ってきたときのことで、三輪車をこいでいる上半身裸の男性が、「妹よ、勇気を出して俺について来い」と小説の中に出てくる歌を歌っているのを聞き、自分がすぐ人気者になると思ったというのです。

莫言氏の作品には今でもこの種の、障害者が発する暗示的な描写が出てきますが、その後の日本語への翻訳者は作品の最後に「本作品は原作者とその執筆した時代の歴史環境を再現するために、特に原文に忠実に訳してある」と明記しています。井口氏のように翻訳してから後書きに作者を罵るなんてことはしません。なんとも残念なことです。

このように、翻訳にあたっては、原作者の国の事情を理解するのは当然としても、翻訳者の教養であるとか、資質、場合によっては品位も問われているのです。

蒋豊 日本はもちろんのこと、外国では出版社と翻訳者が外国の文学作品を選ぶ際、たいていまずはターゲットの読者層を頭に描いたり、販売マーケットを意識します。どんなに良い文学作品でも、もしその国の読者に合わなければ、恐らく翻訳にまわすことはないでしょう。しかし、この『けなし』の場合はヒョッとしたら本を売るための販売戦略であったかもしれませんね。

毛丹青 日本で莫言氏の文学作品を二番目に翻訳したのは東京大学の中国研究者、藤井省三氏でした。彼は北京大学で研修をしているときに、莫言氏の小説『酒国』に出会い翻訳することにしたのです。藤井教授はかつて「この小説を選んで翻訳した理由の最も重要な点は、つまり『酒国』が当時の中国の事情、役人の腐敗を描いているからだ」と述べています。氏はどちらかといえば、中国問題研究については政治色が強いことで有名な方です。しかも、氏は都会センスで、一方の莫言氏はどちらかといえば中国の土着作家です。所詮、このふたりがピッタリ合うということはのぞめるはずもなかったのです。しかし、何といっても東大教授が翻訳したとなれば、莫言作品の日本での認知には大きなPRになりました。もちろん、莫言氏は訳者の政治的解釈については決して満足したわけではありませんでした。

ここで私が強調したいのは、日本の翻訳者が莫言氏を選ぶだけでなく、実は莫言氏もずっと日本の翻訳者を選んでいたということです。最初に莫言氏の『赤いコーリャン』を訳した人物が何故2作目を訳さなかったのか、次に彼の『酒国』を訳した人も莫言氏のその後の作品を訳さなかったのは何故なのか。ひと言でいうと、莫言氏がそういう選び方をしたということだと思います。

蒋豊 現代の中国文学はずっと自分が社会に向けて発信することができずに悩んでいます。この悩みを解決するために、皆が様々な努力をしています。あるときには、まるで『ミルクをくれる人は母親』のような趣で、外国人の翻訳者がくればすぐさま自分の作品の翻訳をお願いしたりしますが、はたしてそれでいいのでしょうか。

毛丹青 莫言氏の作品を翻訳した3人目は中国研究者の吉田富夫教授です。日本での莫言作品の大半は彼が翻訳したものです。吉田教授は私が紹介したので、それにまつわるエピソードなども多少は知っています。莫言氏が氏と出会った時、小説『透明な人参』について話し合ったことを覚えています。これは莫言氏の出世作です。小説の中に『色の黒い子』という人物が出てきますが、彼は情理をわきまえない異常な子どもです。吉田氏は「自分が子どもの頃『色の黒い子』と呼ばれて、いつも人からいじめられた辛い記憶がある。しかし、この小説を読み終えて『色の黒い子』でもこの上ない能力を発揮することができると思い、とても感動して、少年時代の傷を癒すことができた」と話していました。その後、氏が莫言氏に「あなたは農村の子で、ご両親は田を耕している。私は山村の子で、両親は鍛冶屋をしていた」と語り、それが莫言氏の心を深く打ったのです。そこで、莫言氏は翻訳者を選ぶ際、学識だけではなく、翻訳者その人の人生経験を含めて見るようになったのです。

もうひとつ別の話をしたいと思います。莫言氏の小説『豊乳肥臀』の中にある母親が上半身あらわに鉄を鍛えている光景が描かれています。鉄を打つのは暑いですからね。氏はこの一節を翻訳しているとき、思わずさめざめと涙を流したそうです。その後、その光景について彼は莫言氏に「私の母親がこうだった。あなたの小説は作り事だが、私の母は本当にこうだった」と語ったそうです。莫言氏はそれを聞いて氏に「一度あなたの実家に行っていいですか」と言ったのです。そこで、2008年に私は実際に莫言氏を連れ、氏の郷里へ行きました。そこは広島県のある山深い場所で、夜になると自分の手の指先も見えず、街灯すらないところでした。その日、氏の弟が小さなトラクターを運転して莫言氏を迎えに来てくれました。彼は上半身裸で、ベルトを引きずり、今しがた畑仕事を終えたばかりでした。そこで氏が「これが弟です」と紹介しました。莫言氏が「もし、当時あなたが京都大学に受からなかったら、あなたも彼と同じように農民になっていたのでしょうね」と冗談を言うと、氏は大笑いしながら「そうですよ。きっとそうですよ」と答えたのです。そのとき、彼らは鎌や木製の輪などを使って畑作業の細かな部分すべてについてやりとりをしていました。莫言氏にとって、これは忘れがたいものになりました。

1997年には吉田教授に同行し、莫言氏の郷里を訪ねたことがありました。そのとき、吉田教授はちょうど『豊乳肥臀』を翻訳している最中だったのですが、彼が「絶対に小説の中の『高密東北郷』を見に行きたい。現地へ行ってみなければ、翻訳を進める上での本当の感覚をつかめない」といったのでお連れしたのです。つまり、ふたりの間にこうした心の交流があったからこそ、莫言氏はその後、自分の作品の日本での翻訳を吉田教授に任せたのです。吉田教授の努力で、日本は莫言氏の小説が国外で紹介された最初の国になったのです。今回、吉田教授夫妻は光栄なことに莫言氏からスウェーデンでの授賞式に招待されたと聞いています。これは莫言氏の吉田教授に対する最高の恩返しといって良いでしょう。

蒋豊 ということは、作家が自分と心の通じ合う翻訳者にめぐり合えるかどうかが、その作品を世界に知らしめる上で最も大切なポイントになるということでしょうね。莫言氏と吉田教授のような作家と翻訳者の関係を築けるかどうか、この一点にかかっている気がします。莫言氏のノーベル文学賞しかり、翻訳者との出会いが次代の中国文学を創造するのではないでしょうか。