現代の中日関係史をよく知る者なら、徐敦信中国外交部元副部長の名を知らない者はいないだろう。氏は復旦大学の英文学部と北京大学の東語(日本語)学部に学んだ。1964年に中国外交部に入り、外交部アジア局副局長、駐日本国大使館参事官、アジア局局長、部長助理、外交部副部長を歴任し、一貫して対日外交に携わってきた。
最近、徐敦信氏は新潟で筆者の取材に応じて下さった。“微笑み大使”の呼び名のままに笑みをたたえて、理路整然とした語り口、穏やかで親しみのこもった眼差しはすべてを見通すが如くであった。氏ならではの外交秘話をうかがって、中日関係を今日までに導くことは容易ならざることであったのだと改めて感じた。これまでの中日関係発展の成果をいかに守っていくかがさらに大事である。
外交人生を中日国交正常化交渉から再開
徐敦信氏が第一線で働いていた時代は、学んだ言語によって仕事が決まった。幹部の交代や交流もあまりなかった。彼は英語も日本語も学んだが、主に日本語の関係に進んだため、対日外交に携わり、日本から離れたことはなかった。三度、大使館へ派遣されたが、三度とも日本で、秘書官、参事官、大使と通算で12年間を日本で働いた。北京に戻ってからも引き続き日本関係の仕事を担当した。
中日国交正常化前、徐敦信氏は山西省離石県の『五・七幹部学校』にいた。1972年9月20日、突如の北京への帰還命令を受けて、外交部アジア局日本処へ戻り、中日国交正常化へ向けての交渉の陰の仕事の全責任を担うこととなった。当時、上部の指示に従って随時、運転手、事務員、通訳たちと連絡をとっていたため“陰の責任者”と呼ばれた。突然の会見に備えて、総理が誰と会うことになっても対応できるように、彼の事務所は人民大会堂南門の会見廰に置かれていた。また、徐敦信氏の黒板には毎日、誰がいつ到着して、いつどこにいるかが克明に記されていた。部外者からは大したことではないように見えても、中日の交渉を順調に運ぶためには不可欠の存在であった。
徐敦信氏はユーモア交じりに語った。「ネット上で『あなたは中日の国交正常化交渉に自ら関わったことがあるのですか?』ときかれたことがあります。私は『交渉の席には居ませんでしたが、この歴史的な交渉のために直接働きました』と答えました」。
天皇陛下ご訪中“お言葉”の舞台裏
1992年、日本の天皇が戦後初めて中国を訪問した。当時、徐敦信氏は外交部副部長の任にあり、責任者として直接携わった。徐敦信氏は当時を回想して語った。「明仁天皇のご訪中は中日関係史上における一大事でありました。中日は双方とも成功させたいと思っていました。しかし歴史的背景から、日本の天皇の訪中に際しては、歴史認識およびその責任問題に言及しないわけにはいかなかったのです。この問題をうまく処理できずして、この訪中の成功はありませんでした」。
ある日、日本駐中国大使館の橋本恕大使が徐氏を訪ねて来て言った。「私とあなたは古い友人です。助けてもらえませんか。一緒に文章を考えてもらえませんか」と。徐氏は「これはあなた方の問題です。私が関与するわけにはいきません。関与すれば失礼にあたります」と婉曲に断った。しかしこの外交辞令には明らかな深慮遠謀があった。
橋本大使の来意を知って、徐氏は率直に告げた。「我々も調査・研究はしてきました。日本の天皇、皇太子、首相らが海外を訪問したとき歴史問題にどのような態度表明をしているか、資料はもっています。これらの表現の中には良いものもあれば良くないものもあります。適切な表現もあります。どれが良くなくてどれが適切なのか、私からは申し上げません。どの表現が良いのか、お帰りになって見ていただければわかると思います。しかし、第二次世界大戦において、中国が日本の軍国主義から受けた傷は最も深く、最も深刻でありました。しかし、貴国の天皇は来るのが遅すぎました。謝罪の言葉はそれ相応のものであるべきです」。こうして、天皇陛下の“お言葉”は、徐敦信氏によってはっきりと方向づけされた。橋本大使は「では文章を考えて参りますので、書き上げたものを見ていただけますか」と言って持ち帰った。間もなく、橋本大使は日本側が書き上げた“作文”を持って、再び徐氏に意見を求めてきた。文中に「あの戦争で中国国民に“多大”な苦難を与えた」とあったのを見て徐氏は言った。「日本語の“多大”は中国語では不定形の表現です。中国語では複数の解釈を生みます。大きくも小さくもなるのです。ですから、ここでは“深重(深刻)な苦難を与えた”とした方がよいと思います。“深重”という言葉が一番よいでしょう。この言葉は、甚だしい、極めて大きい、取り戻すことができないほどの損失という時にしか使いません」。すると、橋本大使はためらいながら言った。「“深重”に相当する日本語はありません」。最後に徐敦信氏は少し考えてから言った。「もしよろしければ、日本語を中国語に訳すときに“深重”の言葉を使うのです。そうすれば日本側が異議を唱えることはないでしょう」。徐氏はこのことを特別に外交部と国家指導者に報告し、上部の承認を得た後、再び橋本大使に告げた。「他は問題ありません。“深重”の二文字の訳だけ、申し上げたようにしてください」。
それと同時に、徐氏は天皇が北京に到着する前に必ず明確な回答を伝えるよう、日本側に要求した。
ところが、いつまでたっても回答がないまま、天皇陛下の訪中の日を迎えた。天皇陛下は専用機の前方のタラップから降りてこられ、橋本恕氏ら日本外務省の高官たちは後ろの出口から降りてきた。その時やっと徐氏に向かって「あなたの言った通りにやりましょう」と伝えたのだった。
徐氏によると、天皇陛下のお言葉の内容が解決した後も、どの場面で話していただくかという問題がまだ残っていたのだという。中国側は、中国の指導者たちだけでなく、記者たちがいる場で話していただくのがいちばん良いと考えていた。
しかし、当時もう1つの問題があった。日本の憲法に照らせば、天皇は国家の象徴であって国家元首ではない。天皇が外国を訪問するときは、その国の国家元首と政治的な会談はできないのだ。そうなると、双方が会見する場しかなくなる。この問題を考えていたときに、橋本大使が徐氏を訪ねてきて言った。「日本側の立場から、天皇陛下と中国の国家指導者の会見の場でこの話をすべきではないと考えます。なぜなら、会見となると天皇陛下がこの話をされれば中国側は必ずそれに返答しなければなりません。どう返答したにせよ、メディアはさまざまな捉え方をするでしょう」と。そして、橋本大使は歓迎晩餐会でのお言葉を提案した。晩餐会では必ず中国側が先に歓迎の言葉を述べ、その後天皇陛下が感謝の言葉を述べる。その後は個人的な会話になるからだ。
ところが中国は当時すでに国が執り行う晩餐会の形を改革しており、晩餐会のなかでは、双方の主賓とも話はせず、挨拶文は書面にして机上に置かれることになっていた。そのため外交部は、特別に中央に伺いを立て、中国側は最終的に慣例を破り、歓迎晩餐会でお言葉を述べていただくこととした。
こうして1992年10月23日、日本の明仁天皇は、楊尚昆中国国家主席主催の歓迎晩餐会の席上、厳粛にお言葉を述べられたのである。「我が国が中国国民に対し、多大な苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省に立ち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました……」。
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