椰子の会・共和友の会 新春会

2024年2月29日,椰子の実会(八路軍・新四軍会、「椰子会」とも言う)と共和友の会の合同新春会が東京文京区・萬福餃子房で開催された。関東地区の会員、友人及び来賓ら40名が集う日中友好親善交流会となった。

中国駐日大使館政治部の王琳公使参事官、岑松一等書記官、黄宇宏アタッシェ、椰子の実会の小林憲明会長、共和友の会の水戸洋会長、関東平和友好会の新宅久夫会長、元NHK・BSの中国語同時通訳者の神崎多實子先生、NPO法人東方文化交流協会の高山英子理事長、落語家のらぶ平師匠、東京中医学研究所の塚田維良所長らが新春会に臨席した。椰子の実会の小林会長が司会を務めた。

共和友の会は日中国交正常化後の中国と日本の経済・文化交流の「架け橋」となり、北京日中友好病院開設に貢献され、新日鉄、松下電器産業、イトーヨーカドー、日清食品など日本企業の中国への誘致に尽力された共和資材株式会社の故加藤昭江社長を中心に発足した。

共和友の会の水戸会長が開会の挨拶を行った。

故加藤昭江さんは女八路軍、ご主人は新四軍で、椰子の実会の皆様のご両親、関係者の皆様とともに大変な苦労をされたと伺っております。加藤さんの子供は女性三人で、男である私を自分の息子のように可愛がってくださり、何度も一緒に中国を訪問しましたが、常々私に「話したら負け」と言って、戦時中の八路軍での様子を語ることはありませんでした。どうか日中の平和に貢献された先人を忘れることなく、今後も椰子の実会、共和友の会ともに末長き交流をお願い申し上げます。

駐日中国大使館の王琳公使参事官が乾杯の挨拶をした。

椰子の実会、共和友の会の皆様のご両親たちは戦争に反対し、平和を愛した方々であり、新中国の成立と建設のため、また中日両国の友好促進のため、多大なる貢献をされました。中国大使館は両会の活動を支援しています。今後も中日両国の民間交流を促進されるよう望んでいます。

椰子の実会の小林陽吉副会長が椰子の実会の歴史を紹介した。

椰子の実会の第一世代の会員は、日本皇軍で戦った兵士であり、中国の戦場で負傷し、中国共産党の指導する八路軍や新四軍の捕虜となりました。彼らは思想的に目覚め、侵略戦争の性質を理解し、反戦と平和の戦士に変わりました。そして在華日本人反戦同盟を設立し、八路軍や新四軍と連携し、日本と中国に平和をもたらすために、生命の危険を冒して前線で反戦活動を続けました。終戦後、彼らは日本に帰国し、1970年に八路軍、新四軍の八と四の発音を椰(八)子(四)に置き換え、椰子の実会を設立しました。以来、日中友好を促進し、真実の歴史を次世代に伝えるために講演・出版活動を行っています。第一世代の会員が世を去ることは残念ですが、彼らの意志を引き継ぎ、戦争に反対し、平和を守り、日中友好に尽力し続けることを決意しています。

共和友の会の和気正子事務局長が共和友の会の歴史を紹介した。

共和友の会は、日本と中国の架け橋となった故加藤昭江さんによって発足しました。この会は世界の平等、互恵、平和、政治不干渉、各国法令の尊重を原則とし、日本と中国の相互発展を目指しています。現在、カザフスタンとスリランカも参加しており、会員同士の交流を通じて親愛と友情の絆を築き、ビジネス情報の交換や経済・文化・医療・教育に関わる活動を行っています。故加藤昭江さんは日本国籍解放軍の傑出した兵士であり、中国革命に身を投じ、遼沈戦役や平津戦役などの重大戦役に参加しました。彼女は正義と平和のために自身の血と汗をささげ、新中国の建設に貢献しました。1958年に日本帰国後、共和資材株式会社を設立し、日中民間貿易を通して日中友好活動を積極的に展開されました。2019年6月12日に91歳で亡くなりましたが、彼女の遺志を継承し、日中友好事業を引き続き発展させて参ります。

次いで、来賓・友人の代表が挨拶した。

落語家らぶ平師匠は野球選手の大谷翔平が電撃結婚したニュースを、ユーモラスにジョークを交え、爆笑を引き起こし、会場の雰囲気はクライマックスに達した。

日中同時通訳者の神崎多實子先生が挨拶した。

先の戦争では「大東亜共栄圏」を掲げて「満洲」へ「進出」しましたが、最近の日中関係を考えるとき、メディアのもたらす影響は非常に大きいと思います。ニュース番組の取捨選択では与党の意向が強く反映されているのも事実です。私の仕事は中国語ニュースを翻訳し、放送することですが、政権の意図によって左右されることがあります。例えば、ウクライナへの人道支援や福島第一原発の汚染水問題など、ニュースの表現は視聴者に与えるイメージを大きく左右します。私は国家が存在する以上、メディアは国のために寄与するものだと思いますが、昨今の日本のメディアの傾向を見ていると、相互誤解を招く結果となり、再び「新たなる戦前」の到来を懸念しています。

今年82歳になる「八一小学」日本の同窓生代表の安達猛氏は自身の健康の秘訣を披歴した。安達猛氏の父は安達仁氏で、叔父の安達繁氏は1945年に中国共産党北平城工部長の劉仁の手配により、家族9人と全ての医療機械を携えて解放軍華北軍区和平(ベチューン)病院に赴任した。前線で1000人以上の負傷者を治療し、徐向前、彭徳懐など著名な将軍の病気を治療した。安達猛は北京の「八一小学校」を卒業した後、1953年に日本に帰国した。

最後に関東平和友好会の新宅久夫会長が閉会の挨拶を行った。

日中平和友好会は林弥一郎氏によって創設されました。林氏は元日本関東軍の飛行大隊長で、関東軍降伏後、彼の大隊は東北民主聯軍に留用され、中国空軍の“揺籃”となる「東北民主連合軍航空学校」の設立に協力しました。林氏と日本国籍の教官たちは120人の中国人パイロットと14人の女性パイロットを訓練し、彼らは中国空軍部隊創設の基幹となり、朝鮮戦争で活躍しました。1954年、日本に帰国した林氏は、生活が苦しくても日中友好活動に従事し、「日中平和友好会」を組織しました。この会は活動地域が広いため、関東平和友好会、関西平和友好会の二つの組織となりました。私の父親も日本が降伏した後、解放軍に東北に残された技術者で、中国の解放戦争に貢献しました。関東平和友好会と椰子の実会は兄弟のような関係であり、今後も日中友好事業に貢献してまいる決意です。

最後に、王琳公使参事官を囲んで記念撮影が行われ、喜びと友情の温かさに満ちあふれた新旧の友人の笑い声が響く中、新春会は楽しい雰囲気でなごやかに幕を閉じた。