王治洪 独立芸術家
白髪の生ずるに任せ 青山を見晴るかす

これまで数多くの取材をおこなってきたが、王治洪氏ほど印象深い人はいない。年の頃はまもなく古希を迎えようかというところ、炯々たる光を放つその黒い瞳を見つめていると、不思議と心を奪われ、吸い込まれそうになる。これこそ、森羅万象のすべてを細い筆先に取り込む、天性の芸術家の眼差しなのであろう。

いかなる道においても、およそ大成する者は世界を遍歴し、流浪の苦しみをなめ尽くしたのちに、至高の境地へと到達するという。趙孟頫しかり、張大千しかり……名人たるものは古来よりみなそうである。翰墨と丹青とを伴侶とし、皴(しゅん)・擦(さつ)・点(てん)・染(せん)(中国画の技法)を道連れとして、いま東京に寓居する王治洪氏も、やはりそうなのであろうか。

画境にたゆたい

自適を感得する

苦行僧よろしく武陵源や九寨溝といった山水に深く分け入り、その身を静謐なる自然のなかに隠して、その心を雲霞の変ずるに合わせて遊ばせる。そうして己が懐に天地を招き入れ、己が心を瀑布に洗う。生み出された一万を超える作品群がその結実である。すでにして極致を見た王治洪氏が写生に出ることはもうない。果てしなく広がる青い空も、見晴るかす緑の山なみも、眼下をゆく紺碧の流れも、すべてはその血に溶け、その骨に刻み込まれているのである。

幼いころから基礎を独学で身につけ、若いころはポスター制作に携わった。王治洪氏の描く「自然」は、そうした無手勝流の経歴によって裏打ちされていた。張家界と九寨溝をめぐっては描き、描いてはめぐり、数々の賞に輝いたあと、ようやく李天玉や曾洪流といった名師の門を叩いた。いわゆる正道を歩んでこなかったため、この「野人」はあるがままで天性の純粋さを保ち、世俗の名利にこだわることはない。それはあたかも王国維が称賛したかの納蘭性徳を彷彿させる。

インタビュアーは生半可な知識しか持たない門外漢であるが、試みに聞いてみた。「あなたの描く鷹はまるで李苦禅の描く鷹のようです。」すると王治洪氏は、ただ朗らかに笑うだけであった。その笑みを見てインタビュアーはようやく気がついた。李苦禅の愛弟子である李天玉に師事していたことは、一般人からすると、自慢したくもなる師弟関係であろうに、ここに王氏の謙虚さが垣間見えるというものである。

確かに「好風凭借力、送我上青天(風の力を借りて天に昇る)」の一幅には、李苦禅の円熟味と気迫が感じられる。しかし、油絵の具を塗り重ねた猛禽の羽毛に表れた彫刻かと見紛うごとき重厚感からは、先人の技量を超越しようとする画家の大胆さがはっきりと見て取れる。さらに別の大作「天空無鳥飛(鳥のいない空)」となると、わずかに墨をつけただけの筆と枯れた墨色とを用いて、孤独に空高くをさまよう猛禽の凄まじい心境を描き出している。この二作を見ただけでも、東西の筆墨や顔料、色彩などを駆使する王治洪の技量が、とうに入神の域に達していることは明らかであろう。

1982年、湘西の猛洞河で写生中の王氏

1983年、学校のために環境彫刻を創作

古来、猫を画の対象に選ぶ者は多い。しかし、王治洪氏の描くそれは決して添い寝をしたり花瓶の横に愛らしくたたずむようなものではない。孤高、自由、無欲で、さながら大智は愚の如しといった趣である。「蝦米有夢(えびの見る夢)」「大夢不覚(大夢、醒めやらず)」「還是在里面安全(やはり中が安全)」などには、無知蒙昧なる人を禅の境地に導くような、えも言われぬ深い味わいがある。夢に遊ぶ王治洪氏の猫は、もはや猫ではない。眼前の魚にまるで心を奪われることのないそのさまは、悟りを開いた老僧か、竹林に隠れ住む居士のようですらある。

中国画を学ぶというのは、画の境地、すなわち高雅にして恬淡なる画境を拓くことにほかならない。それゆえ先人の多くは禅の教えや仏道に傾倒していった。しかしそれは、たとえ足を踏み入れたとしても果てのない道であり、ましてや大いなる成就を遂げることはきわめて難しい。だが、王治洪氏の書画はその境地にたどり着いた。足を踏み入れて極致に達し、この混沌とした世の中を透徹した目で俯瞰している。塵にまみれた俗世を、まるであざ笑うかのように筆で描き切っている。

傑出した芸術家の作品が審美的な価値観にもとることは絶対にあり得ない。氏の作品は芸術面での造詣の深さと高度な美的価値、つまり思想性と装飾性とを併せ持っている。独立独歩で道をゆく王治洪氏は、書画ともにいかなる協会にも属していない。それゆえ、彼の名が主流の体制のなかで上がることも、現代美術の指導者となることも当然ない。しかし、一つ言い添えておくならば、四十年前、誰の手にも余る造園の建築が王治洪氏に委ねられ、その際に積み重ねられた紅雨渓の石は、いまも変わらず中南林学院(現在の中南林業科技大学)の園林学部における教学の模範とされている。

「何十年も前に作った銅のオブジェや彫刻した仏像が、それぞれいまも町中や人里離れた山中で人々の笑顔と向き合っている、それが何よりの慰めです。」孤高の芸術家がほんの少し首をすくめた。彼が腕を振るったそうした彫刻は、屋内用にデザインされたものでもすべて依頼者から感動をもって迎え入れられ、都会の通りに置かれたものは、時が流れ指導者が替わっても儼然として屹立している。

1989年、広東省蓮花山に大型の仏像を制作

2019年、巨大な水墨画「残荷」を制作中の王氏

縦糸に情を迸らせ、

横糸に妙趣を織り込む

王治洪氏はかつてこう言った。「書に師はいりません。肌身離さず書籍を手にし、倦まずたゆまず臨書する、ただそれだけでいいのです。」彼自身、古代の石碑に刻み込まれた稚拙のなかに絶妙を隠し持つ隷書、すなわち張遷碑(前漢代の石碑)から「自然(おのずからそうであること)」を学び得たのであり、それはそのまま王治洪氏の純朴たる人間性——「野人」に表れている。

「任頭生白髪、放眼看青山(白髪の生ずるに任せ、青山を見晴るかす)」、なんと豪放な心持ちであろうか。王治洪氏が書の題材とするのは、その多くが師友とやり取りした詩による。人生観と価値観とが融け合ったその筆致は、実に健やかで力強い。

「騒」は、一目見るなり心を奪われ、瞬時にして瞼の裏に焼き付く大作である。太い筆致と濃い墨、その余白との対峙、一見しただけでは道理を無視した野蛮な覇道を思わせる。だが、よく見ると右下の方に一対の左足の跡がある。一つは丸く一つは細長く、まるで水を得た魚のように和合共生して並び立つ。悠々自適たる遊びが天地のあいだに溶け込んでいると言えよう。書と画との技法が相まって変幻自在、画家は黙して語らざるも、作品を見れば盆(はち)を鼓(たた)いて悟りを開いているようである。「書画はもと同(とも)に来(きた)る」という制限を軽やかに脱却し、見る者をして幾度となく時間と空間という壁を超越させる。

猫、鷺、鶴、鷹、鴛鴦……これらはいずれも王治洪氏の画に登場するなじみの客である。とはいえ、同じ題材であっても様々な構想によって描かれており、決して紋切り型に陥ることはない。そしてそのいずれもが、たくましい生命力、昂揚した激情、ほとばしる熱意、さらには芸術的な魅力がある。たとえば「朝霧」のなかにはつがいの白鶴がともに舞っている。印象派のような筆遣い、ポスターのように大胆な色使い、はつらつとした元気と命の鼓動、それらが渾然一体となって見る者の心に突き刺さるのである。もう一幅、「初雪」は濃い墨と淡い色を基調としてつがいの白鶴を描くが、そこに油彩で幾筋か筆を入れることによって、かえって孤独と寂しさを添えている。そのため、鑑賞者は身をもってその孤独感を感じることになり、思わず鳥肌が立つほどである。

王治洪氏は猫を得意としているという人もいれば、蓮の花こそ長けているという人もいる。しかし、氏が描くもののなかで、果たして生き生きとして情感豊かでないものがあるだろうか。その筆端から描き出されるものは等しく無邪気で愛らしく、自然のままで飾り気がない。これはまさに彼自身の持つ力強さと優しさが画となって表れたのであり、純粋にして邪気のないその人間性が発露したものなのである。

2015年、嶺南美術出版社から王治洪氏の書画集が出版された。書画それぞれ一冊からなる上下巻である。数ある作品からその精華を選び抜き、最高の印刷技術によって出版されたことは言うまでもない。この書画集のデザインのために担当編集がどれほど心を砕いたか、その熱意を推し量ることなど不可能である。

それからしばらく経ったある日、王治洪氏はなんと古本屋で自身の書画集と思わぬ出会いを果たした。表紙を開くと、扉には献本に際して揮った墨跡がいまもくっきりと浮かび上がっている。氏はそれをすぐさま買い戻すと、なんとも忘れっぽい献本相手に少し意地悪をしてやろうと再び送りつけた。古希を前にしてなお童心を失わない、なんという無邪気さであろうか。放縦にして不羈、覚えず笑みがこぼれてしまう。

2022年、「月光似水」を創作中の王氏

一派を開かんとするも、

果てることなき孤独

名利を追うことをよしとしない。とはいえ、数年前、王治洪氏は水力発電所への投資によって、天寿を全うするほどの資産を得た。得意とする書画を用い財を成した彼は、家族が暮らすために十分なる恵みを施して、深い情をもって何人もの友人を貧困の苦しみから救い出した。かりに人生がここで幕を下ろしたとしても、何ら思い残すことは無かったであろう。そうして東の海を渡り、俗世の仮住まいを定めた。暇があるときは友人らと酒を楽しみ、忙しいときには犬の散歩に出かける、あくせくすることはない。そんな王治洪氏の胸に、あるとき突然、自身の境地を誰かに伝えたいという思いが頭をもたげた。

七十年を生きてきて、はじめて弟子を取ろうと思い立ったのである。しかし、書風にせよ画風にせよ、いったい王治洪の境地は学び得るものなのだろうか。艱難辛苦の果てにそれを打ち破って立ち上がる、そんな経験をしなければ、いかに天賦の才や努力があったとて、おそらくは顰みに倣うだけで終わってしまうであろう。

王治洪の画作を見ていると、天地万物はすべて自分に奉仕しているのだという、ある種の豪気を感じる。気迫に満ちた奇抜な構図はいったいどこから生まれてくるのだろうか。まず10年、山河を遊歴して自然を師とした。次の10年、己が心を直観的に捉えていよいよ造詣を深めた。そしてさらなる10年、波瀾万丈を経て人の真性へと帰着した。王治洪氏の作品がもつ魅力は、その楽観的な性格によるのみならず、また嶺南画派の生気あふれる画風によるだけでもない。それはむしろ、辛酸をなめ尽くした旅路のあとに打ち立てられた気骨による部分が大きい。

「留得艶荷聴雨声(瑞々しい荷は散らず雨音を聞く)」は実際の巨大なサイズもさることながら、深遠な着想と四方に射す鮮やかな光が見る者の目を奪う。八大山人(明末清初の画家・朱(しゅ とう)耷(しゅ とう))の「荷花四屏」と肩を並べるほどの作品と言ってよい。後者は、 中国でも最高クラスの美術館で最も目立つ位置に堂々と飾られた。驚嘆の声が上がるなか、王治洪氏はその大きな手を軽く振って応えた。「八大山人の風格を手に入れるくらい簡単なことですよ。」

王治洪氏の作品は、当初の八大山人や弘仁(明末清初の画僧・こうじん)がそうであったように、外の世界で評価を高めていったと言える。日本でも非常に高く評価されており、大方の予想を遥かに上回って数々の賞を獲得した。あるとき、日本人は身だしなみに気を遣うからと友人に言われ、王治洪氏はしぶしぶスーツと革靴を購入してそそくさと身につけた。まるで早く学校に行けと急かされた子供のように慌てふためき、その挙げ句にタグを切り忘れて出かけたこともあったらしい。

王治洪氏と長年にわたって交際を続けられるのは、時流をあくせくと追うような人たちではない。だが、そうした友人らは、ある意味ではかえって彼の「害」になっているのではないかと思わず考え込んでしまう。というのも、飽くことなく芸術の純粋性を追求し、真に善なる人間性を備える王治洪氏のそうした生き方を、より堅固なものにすると考えられるからである。その結果、それが彼を孤独にし、道連れのいない旅路を一人ますます遠く進んでゆくことになるのではないだろうか。

言葉の通じない海外に身を置いて、故郷が懐かしくはないのだろうか? その質問に対して、王治洪氏は「心帰処是吾郷(故郷――心の帰る場所)」の一幅を挙げて答えに代えた。そういえば、氏の号は北山居士である。長沙の北山には母方の祖母の故居があり、父方の祖母と父が埋葬されている墓地がある。そこが王治洪氏にとって心の帰る場所、身は他郷にあっても、故郷のことを忘れるなど生涯にわたってあり得ないのだ。

 

1994年、大型彫刻の制作現場で昼食をとる王氏

1999年、深圳市のために都市彫刻を制作

1996年、恵州市のために大型噴水を設計・制作

 

取材後記

日本へと渡ってきた王治洪氏は、なにものにも束縛されることはない。だが、それゆえに孤独であるとも言える。彼の友人の輪は、その人生の軌跡の変化に応じて広まるでもなく、依然としてほとんど潔癖とも言える人間関係構築の原則を頑なに守っている。それはさながら「独擁寒潭(ひとり冷たい水辺にたたずむ)」に描かれた境地のようで、彼の孤独と自愛とを物語っている。

だが、幸いなことに、王治洪氏の作品は日本で大いに人気を博している。そのことが彼の孤独に幾ばくかの温かみを与えてくれることを願うばかりである。

1998年に設立された紫雲美術館