董恒(吉崎恒子) 日中東方音楽交流会代表
歌声と愛で日中友好の道を照らす

今年は中日国交正常化50周年の年であり、声楽家の董恒氏が渡日して40年となった年でもある。熱心にチャリティーに取り組み、平和を愛し、残留孤児に関心を寄せ続け、見返りを求めることはない。彼女の善行は一時的なものではなく、数十年もの間続いており、彼女は中日の民間友好交流の歴史に貴重な足跡を残している。空高く晴れ上がった冬の日、回想録の整理で忙しい董恒氏を訪ねた。彼女は取材に応じ、チャリティーについて語ってくれた。

 

音楽一家に生まれて

 董恒は音楽一家の出身である。父は新中国の音楽の発展の基礎を築いた著名な教育家、音楽理論家である董清才で、兄、妹の5人全員が音楽関連の仕事に就いており、一家の中日友好に貢献するという決意は揺らぐことはない。

董清才と有志の人々は、東北師範大学音楽学院(前身は音楽学部)、吉林芸術学院(前身は吉林芸術専科学校)などの専門大学を立ち上げ、新中国のために人徳と才能を兼備した芸術家を次々に輩出した。

董清才は青少年の育成に関心を持ち、退職後もボランティアで授業をし、芸術の苗木を育てた。董清才の90歳のお祝いに、董恒の姉である董韵は中日両国の芸術界を代表し、父の業績を紹介した記念文集『師之楷模』(教師の鑑)を編纂し、人民音楽出版社から出版した。

 董恒の母・東方は新潟県の出身で、東京に留学した董清才と結婚後、夫と共に中国の東北地方に渡ったが、董清才が亡くなると50年ぶりに日本に戻った。特殊な時代であり、不公平な処遇を受けたが、東方も夫への愛を貫き通し、中国を愛した。

母は中国の戸籍を取得し董芳としたが、後に東方と改名した。これは深い愛情の表れであった。最も困難な時期、母は日本の家族の訪日の誘いも断り、夫と子供たちを守り抜いた。その毅然とした不屈の精神は、大きな「人」という字となった。

 

日中友好のために

1982年、中日国交正常化10周年の節目に、董恒は母と一緒に訪日した。2年後、東京音楽大学大学院声楽専攻に入学。恩師の芹沢文子は、来日したばかりの董恒の経済的困難に同情し、学費を免除する道を探ってくれた。

なぜ彼女は先生に気に入られたのだろうか。その後、董恒は芹沢文子の父親が日本の有名な文学者、芹沢光治良であることを知った。芹沢光治良は青年期にフランスに留学していたが、そのころ友人に巴金がいた。その縁から、芹沢一家は中国人に良い感情を持っていたのであった。

董恒は恩を受けるたびにそれを心に刻み、その後は倍の熱意を持って中日両国の社会にチャリティーで恩返しをし、在学中から、さまざまな中日友好公演に参加するようになった。

兄の董真光は父の衣鉢を継ぎ、『郷情』など中日友好を歌った曲を作り、また父の初稿『郷愁』を元に再創作をおこなった。1984年、董恒兄妹の物語に感動したNHKテレビは、3年間をかけて「ドキュメント人間列島・吉崎家の四重奏~中国帰国一家の音楽会」を制作し放映した。

同時に、董恒は「漢宮秋月」「藍天響音」「黄河」などの中日友好コンサートにも参加し、また訪中もして、北京、瀋陽、西安、青島、台北、上海などで中日友好交流プログラムに多数出演し、自身の歌声を各地に残している。

紙幅の関係で全てを紹介することはできないが、董恒は日本国内で数え切れないほどの中日友好交流イベントに関わった。

1995年、董恒は世界反ファシズム戦争勝利50周年を記念して開催された中日友好コンサートに参加し、歴史の記念と平和の構築、そしてサリン事件と阪神大震災に相次いで襲われた日本社会への関心と勇気で連帯を示した。

2002年は中日国交正常化30周年であり、董恒来日20周年の年でもあり、友人の協力を得て銀座の王子ホールで記念コンサートを開催し満席となった。2015年、世界反ファシズム戦争勝利70周年には、YWCA東京の後援により反戦コンサートを開催した。2019年には中国の建国70周年に際し、東華教育文化交流財団と日本泉州商会の後援を得て東京YWCAホールで「故郷に響く旋律」コンサートを開催した。

董恒は、中国・四川大地震の際にも駐日中国大使館を通じていち早く寄付をおこない、玉樹地震や舟曲土石流の際にも迅速に募金活動を実施、チャリティー公演で復興支援をおこなった。

董恒は中国と日本に対して同様の深い愛情を抱いており、日本が阪神大震災、新潟中越地震、東日本大震災、熊本地震に見舞われた際にもチャリティー公演で被災地の復興を応援した。

董恒は各団体が主催するコンサートや演奏会などの交流活動に参加し、司会を務め、歌を披露するほかにも、年間を通じて各地の文化センターや学校を訪れ、「歌声で中日友好を促進する」をテーマにした講演や科学普及に関する講義を行うほか、日本の企業や民間団体、文化・教育施設などを頻繁に訪問して講演をしたり中国語を教えたりしている。これらはすべて、中日両国の各界、特に両国の若者たちの交流と理解を促進するための原動力となっている。

今までに董恒は中日両国でよく知られる70曲以上の名曲を翻訳している。「お世話になった方への恩返しとして、音楽が中国と日本の人々の気持ちをつなぐ存在になるようできるだけ頑張ります」。董恒は、これからもこの活動を続けていくという。

かつて、中日両国にはまだ大きな経済格差があり、董恒一家は公演に必要な資金を集めるためにあらゆる手を尽くした。給料でチャリティー公演を支援してくれた夫、ボランティアで作曲・編曲・制作監修をしてくれた兄、デザイン、印刷、場内整理をして駆け回ってくれた息子、そして会場から会場へと董恒を追いかけてきた熱心な日本のファンが、彼女を最も勇気づけ、応援してくれたのである。

 

残留孤児のために

「戦争の廃墟から敵国の孤児の命を救い、成人まで育てるなんて、中国人は偉大だ」。反戦一家に生まれた東方は、中国人に深く感謝し、戦争に翻弄された残留孤児に同情し、帰国後は残留孤児の日本での親族探しのボランティアをし、また一方で子供たちに日本での残留孤児支援と中日間の相互信頼と互助の促進に寄与するため最善を尽くすようにと自身を戒めていた。

1980年代になると、残留孤児らは中国から日本へ次々と帰国した。しかし、言語や文化の面で日本社会に溶け込むことは難しく、また当時の中国と日本では経済的、技術的にも大きな差があり、帰国後の残留孤児たちの生活は非常に厳しいものであった。

董恒は母の言葉を胸に、中日友好と残留孤児の救済に全精力を傾けた。夫も董恒に理解を示し、一家を支えながらも、常に彼女のチャリティー活動に資金を援助し続けてくれた。

1992年、中日国交正常化20周年を機に董恒は日中音楽交流協会を設立し、来日した中国の孤児たちの中国の養父母らに演奏の慰問をし、1995年にはCD「海はふるさと」を制作して孤児たちに第二の命を与えた中国の養父母に贈った。そして2008年には東京にNPO法人日中東方音楽交流会を正式に設立した。「東方」という言葉を加えたのは、母の愛に満ちた精神を伝えるためである。

董恒一家の物語は日本社会を動かし、朝日新聞、東京新聞、読売新聞、NHKテレビなど主要メディアで報道され、東方の故郷である新潟の加茂文化会館で開催された董恒一家の中日平和友好コンサートはNHKテレビで紹介された。こうした慈善活動は、中日の友人たちから大きな支持を得て、董恒は関東日中平和友好会の花園昭雄会長や山梨県日中平和友好会の中村義光氏など、反戦活動家と深い親交を結んでいる。

董恒は帰国孤児とその子どもたちにピアノや声楽を教える活動を長く続けているが、経費節約のため、教室は彼女の自宅にある。彼女は授業料を受け取らず、食事も無料で提供するだけでなく、NHKテレビから贈られたピアノを残留孤児の一家に譲ったほどである。

董恒の中日友好への貢献は、数え切れないほどの中国の友人たちによって支えられ、助けられてきた。声楽を教えてくれた元伯萱と張淑霞、吉林芸術学院と中央音楽学院の恩師である巨匠の郭淑珍、沈湘も常に彼女のプロとしての成長と慈善活動に注目し、父の教え子たちも常に彼女を励まし応援してくれた。

董恒をさらに感動させたのは、祖国が強大になるにつれて、ますます華僑華人のチャリティー力を感じるようになったことだ。源清田商事の王秀徳社長が率いる日本泉州商会は、董恒一家の中日友好促進や見返りを求めない残留孤児応援の精神に感動し、また董清才の原籍地が泉州であることを知り、董恒の慈善活動を様々な形で支援している。

 

取材後記

「感恩」「感謝」「感激」は、董恒が繰り返し使う言葉だ。彼女は、今まで活動することができたのは、40年以上にわたる日本滞在で、周囲の人々の協力のおかげだと何度も強調した。彼女はあえて自分の業績を語ることはしないが、自身の成果を可能にしてくれたすべての人々に、最も感謝しているという。

たとえ浮き沈みがあったとしても、音楽と人生と生きることへの愛は揺るがない。不当な扱いを受けても、常に社会に恩返しし、人を助けるために最善を尽くす。董恒はその細い体で光と熱を捧げてきたのだ。まさに最大級の尊敬に値する。