アジアの眼〈57〉
「有機的に、官能的に、美を信じて表現する」
――国際的アーティスト 松谷武判

1972年、吉原治良が他界した。関西を中心に活動していた前衛美術家集団GUTAI (具体美術協会)も終焉した。今年はその50周年に当たる年である。

大阪では、大阪中之島美術館と国立国際美術館の共同主催で大型展示会が開催された。展示名は、「すべて未知の世界へ―GUTAI分化と統合」、オープニングの10月22日の朝、新幹線で大阪に駆けつけた。中之島美術館の5階ロビーで松谷武判(以降、松谷氏と略称する)のパフォーマンスが開催されるとのことだった。

会場には、10メーターの白いキャンバスが用意され、周りにはパフォーマンスを待つ観客でいっぱいだった。松谷氏が、始まりの合図をするかのように、竹の棒を床に3回打ちつけると、会場の雰囲気は一瞬にして緊張感に包まれた。床に敷かれたキャンバス布の上に置かれたマチエールの墨の桶、竹の棒は墨をゆっくりと混ぜ始めた。混ぜ終わったら、墨は布の端に注がれた。続いて、数字の「1」を描くようにボンドを一気に垂らしていった。その後、箆で布全体に墨とボンドを擦り続けると、床とタイルの継ぎ目が浮かび上がり、墨とボンドが一体化し、液体同士が合体し、布の上でまじわり合った。そして、美術館の窓から差し込む光がその液体に不穏な鏡面を作らせた。パフォーマンスが終わった際に再度箆を床に叩き付ける音。空間に鳴り響く「音」のリズムは現場をクライマックスへと運んでいった。能舞台を思い出させる静けさの中の「静」と「動」の対峙、息を止める観衆を尻目に、松谷氏は箆を再度立て始めた。緊張感が和らぎ、笑いがこぼれた。10メートルの端に置いてある墨と筆で最後にサインをし、フランス語の日付を入れてパフオーマンスは終了した。

ボンドで描いた「1」は長い準備期間を経て開館した中之島美術館の開館一周年を表しているらしい。

松谷氏は、「具体美術協会」 (1954−1972年)のメンバーで、29歳からパリに在住する世界で最も瞠目されているアーティストの一人だと言っても過言ではない。

コロナ前の2019年6月に、恒例のヨーロッパ巡業中に出会った松谷氏のポンピドゥセンターの個展、その時の10メーターのキャンバスに鉛筆で斜線を描き続けている作品に私は驚愕を覚えた。個展会場の入口にある長さ10メートルの鉛筆の作品の前で私はしばらく動けなかった記憶がある。

1937年1月1日に大阪で生まれた松谷氏。実家は高野山真言宗本山の檀家だった。香の薫りやいくつもの灯明に仄かな明かりを灯すお盆のイベントなど、良き環境の薫陶があったと想像する。1963年に展示した自分の最初の「具体」の作品を言い表すにあたり、肉感的で官能的な側面を一種の宗教的な救済を得るための手段として強調している。吉原治良の『芸術新潮』のマニフェスト1にもあるように、松谷氏は、素材そのもの、および、とりわけ有機的なフォルムに対する自身の関心に適合した技術的な解決を見つけようと実験を重ねた。 2

1962年の春、どこでも手に入る木工ボンドにたどり着く。「平置きしたキャンバスの上にボンドを流すとそれが円型のクレープの形になったので、すぐにキャンバスを裏返してボンドが垂れ下がるようにしたのですよ。ボンドはぽたぽたと垂れて、最後は、少し乾き、牛の乳房のような氷柱状に固まりました。その日は風が強い日で、ボンドは風で乾いて火ぶくれのような形になった」。この風は、思いがけぬ自然の助力だったが、やがて松谷氏はストローを使って、自分で膨らましていき、意図した形を作っていくようになる。松谷氏は、素材が持つ可能性に驚嘆してやまない。

松谷氏の作品が作り出す泡は、その下に秘められる有機的な生命の存在によって不安感を掻き立てる。「具体」の有名な二項式ともいえる「マチエール」と「行為」の一環に、切って空気を入れ、「傷口」の内部から放たれる色の輝きを加味させた。

1966年にフランス政府留学生美術コンクールでグランプリを授与され、半年間のフランス滞在を招聘された。松谷氏は、その後半世紀にわたり、パリと西宮の2拠点生活を続けている。

マチエールの発見だけではない。作品の中に時間の観念が入り、東洋の精神性 3 を組み入れ、アトリエ17での修行を経て、松谷氏は少しずつ着実に国際的なアートシーンの中心に足を踏み入れていった。

取材で松谷氏は語った。美は否定できない。信じるべきだ。信じ続けるから暗示的に表現し続ける価値があると。

有機的で官能的、そして抽象化された作品を作り続けることは、「清吉がその若い女を蜘蛛の刺青でひたすら覆い、女はその蜘蛛により真の自分を発見するようなプロセスだ」4に似ているかもしれない。

人間は生まれ、死す。東洋人の根底にある墨の匂いと「黒」、10メートルのロール紙に、その日、またその次の日も、紙の端に到達するまで描き続ける松谷氏の営為は、時間を刻む「音」であり、「肉」と「身」の激しい責苦 5 だった。

そして、やがてその鉛筆ドローイングがボンドで造形した隆起体の上でも行われ、有機的に融合していく。

松谷氏の作品に見る生命の形。マチエールの詩人松谷氏は、いまこの瞬間も、地球上のどこかで、風とコラボして美の形を作っているだろう。詩人のクレイトン・エシュルマンは「受胎とは一つのしずく。自己を抹消しながら分裂していく」と松谷氏の作品を評す。

中学2年生の時、肺結核に感染し、厳しい状況の中で8年にもわたる闘病生活を余儀なくされた松谷氏は、若き時分から「生命」への思考が骨に染みていたかもしれない。10代の長い闘病生活から生じた葛藤を、作品の中に吐露しはじめたであろう鬱々としていた少年時代の原点。

波や雫などの流動性、官能性を伴う丸みを帯びた有機的形態、生物的繁殖に関わること、そうしたものから生まれた視覚的形態が、松谷氏の芸術宣言であり、イメージである。6

生きてきた全ての過程が、作品の中に網羅されているように私には見える。そこに大作としての感動が宿っている。

 

1 1956年12月号に発表した「物質を生かしきることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ」。

2 ポンピドゥセンター国立近代美術館元館長ジエルマン・ヴィアットの「松谷武判―変わらぬものと変容するもの」を参照

3 谷崎潤一郎の『刺青』や『陰翳礼讃』の世界で描写しようとしていた官能的で「灯に照らされた闇」の色を表現しようとしたのかもしれない。

4 谷崎潤一郎『刺青』より

5 松谷武判「出発点を探して―何からでもどこからでも」参照

6 松谷武判「出発点を探して―何からでもどこからでも」19ページ参照