良好な日中関係の構築には相互理解が最も大事

一般社団法人日中協会は、日中友好7団体の一つである。本年は中日国交正常化50周年の記念すべき年だが友好ムードはあまり高まっていない。そうした中、前衆議院議員で一般社団法人野田総合政策研究所会長でもある一般社団法人日中協会の野田毅会長を訪ね、中日国交正常化50周年への思いや日中協会での活動の思い出、そして今後の中日関係をどのように構築していくべきかなどについてインタビューを行った。

「井戸を掘った人」を

継承し日中友好に尽力

―― 本年は中日国交正常化50周年です。野田先生が国会議員に初当選されたのも1972年で、まさに同じ歴史の歩みがあります。当時、どのようなお思いで日中国交正常化を見ていましたか。

野田 私の岳父・野田武夫(元自治大臣)は日中関係が最も大事だという信念を持ち、日中友好に熱心で、「井戸を掘った人」(水を飲むときに井戸を掘った人の恩を忘れてはならないという中国のことわざ「飲水思源」に由来し、日中友好に尽力した人を指す)の一人だと自負していました。「日中国交回復を見るまでは死ねない」と関係改善に奔走していたのですが、国交回復直前の1972年6月に亡くなりました。

父は交友関係が広く、特に松村謙三(日中国交回復の地固めをした政治家)氏と兄弟のようなお付き合いがあり、廖承志先生(中日友好協会会長)や孫平化氏(後に中日友好協会会長)が父の事務所によくいらしていたと聞いていました。

父は生前、「いずれ国交回復の時が来る」と常々話していました。実は池田勇人内閣の時から佐藤栄作内閣の時代にかけて、台湾との問題を抱えながらも中国との国交正常化に向けた水面下での動きがありました。

しかし、本格的な国交正常化交渉に入る直前、佐藤内閣が退陣を表明します。その記者会見で、佐藤総理は日中関係について、「啐啄同機(さいたくどうき)」という言葉を使われました。鳥の雛が卵から産まれ出ようと中から殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをするというたとえで、「お互いの呼吸が絶妙に合う」という意味です。ですから、いずれ国交回復は成るというのが、佐藤総理の退陣の弁でした。

父が亡くなって、私は一生懸命選挙運動をしていたのですが、7月に田中角栄内閣が成立し、9月に国交正常化が成り、そしてその年の暮れの選挙で初当選しました。日中国交正常化の年に政治家となったことに宿命を感じます。それ以来、日中関係と私は他人事ではないと、父の遺志を受け継ぎ、日中友好に尽力しております。

 

「学べ、言い訳はするな、

とにかく学べ、謙虚たれ」

―― 日中協会の会長を2000年より今日まで22年間務められ、中国からの信頼が最も厚い政治家として知られています。これまで、中日関係に関わってこられた中で、印象に残っていることは何ですか。

野田 日中協会は1975年9月29日に任意団体としてスタートしました。協会の設立に尽力されたのが衆議院議長をつとめた保利茂先生でした。国交正常化に向けて周恩来総理に「保利書簡」を送るなど、日中関係打開のために重要な布石を打たれてきた方です。

その保利先生が国交正常化後に中国を訪問し、周恩来総理と会談した際、周総理が「野田武夫さんの息子さんが当選されたようですね」と話されたそうです。保利先生は帰国後に私を呼ばれて、「日中協会をつくるから君も手伝いなさい」と言われました。しかし、わたしは議員1年生の駆け出しでしたので、即答できずにいると、「これからは君らみたいな若い世代がやらなきゃダメだ」と一括されました。

日中協会は、最初は任意団体でしたが、81年3月に社団法人化、2014年4月に一般社団法人化しました。初代会長には茅誠司先生(元東京大学総長)が就任したのですが、そのとき茅先生から、「君が理事長をやらなければ、自分は会長をやらない」とおっしゃられました。私は驚き、「まだ若いですし、使い走りならば…」ということで初代理事長を引き受けました。副会長には、小川平四郎氏(初代駐中国日本大使)、伊東正義先生(大平正芳内閣で内閣総理大臣臨時代理)らが就任し、事務局長は白西紳一郎氏(後に理事長)でした。その後、二代目会長に向坊隆氏(元東京大学総長)、三代目会長に理事長を20年務めた私が引き受け、それから22年が経ち、日中関係は自分の人生の一部になりました。

これまでの間、まず印象に残っているのは、協会設立当時、茅先生が団長で大訪中団を結成し派遣されました。ノーベル賞受賞者が何人もいて、そうそうたるメンバーですごいなと感じました。

それからもう一つ、その後何回か訪中した中で、北京で大きな行事のあった後、新疆や海南島などを視察したことがあります。そのときは、農墾部長(日本の農水大臣に相当)をされていた王震先生(後に中日友好協会名誉会長、国家副主席)に随行していただき、解放軍の飛行機を出してもらって、いろんなところを回りました。

海南島に行った際、その頃の海南島には何もなかったのですが(笑)、王震先生から、これから中国のハワイみたいにしたいと言われ、志の高さに驚かされました。先生が一生懸命強調していたのは、「学べ、言い訳はするな、とにかく学べ、謙虚たれ」ということでした。

 

残留孤児とともに

残留孤児のために

―― 2009年11月、中国残留日本人孤児の池田澄江さん(NPO法人中国帰国者・日中友好の会理事長)を団長、野田毅日中協会会長を名誉団長とする「中国人民の養育の恩に感謝する訪問団」が北京で、当時の温家宝総理と会見しました。

野田 当初、人民大会堂で温家宝総理とお会いするはずだったのですが、急遽中南海に変更になり、外国の要人を接待する紫光閣に通され、その場で残留孤児の皆さんと一緒に歌を歌いました。涙がぼろぼろ流れ、感動でした。

当日は雪でしたが、お出迎えのときもお見送りのときもずっと最後まで、バスが中南海の門の外で曲がるまで、雪の降る中、温家宝総理が手を振ってくれたことが印象に残っています。

残留孤児の皆さんと私とは同年代です。運命が少し違ったら、自分がその立場にいたかもしれません。大人になって日本に帰国し、言葉もうまく話せず、法的な制度も整備されていない中、彼らの日本での暮らしは容易ではありませんでした。ところが役所の方は、生活保護がありますからと言うばかりで、私はそのときに、「君らはそれでも人間か」と珍しく本気で怒りました。

それで、議員立法で残留孤児の皆さんのための特別支援措置を財政的な裏付けをセットにして提出しました。ただ、提出する時は超党派ですから、野田毅提案にはなりません。ですから野田毅の名前は残っていないです(笑)。

 

 

日米は右足で日中は左足

平和の中で事柄を処理

―― これまで、中日関係は良い時もあれば悪い時もありました。良好な国際関係の構築において、政治家の果たす役割をどのように考えますか。

野田 政治家の責任は重いと思います。目先の利害を優先すべきではありません。政治家には大局的、戦略的な視点と判断が求められます。

中国は日本の隣国であり、引っ越しができません。文化の面においても中国のDNAが日本に多く入り込んでいます。両国は二度と戦争を起こしてはなりません。

日本にとって、日米同盟は日本の安全保障の基軸ですが、日米は右足で日中は左足であると考えています。中国とだけ仲良くするわけでもなく、米国の言いなりになるのでもない。この両足をしっかりしておかなくてはいけません。

お互い長い目で見て、お互いの立場を尊重しながら、どんなことがあっても、平和のうちに平和の中で事柄を処理するという、この原点だけは忘れてはいけないと思います。

 

人間的な交流の中で、

相互理解を深めていく

―― 本年は中日国交正常化50周年の佳節ですが、残念ながら友好ムードが高まっていません。両国の間には、様々な課題がありますが、次の50年に向けて、新たな中日関係をどのように構築していけばよいと考えますか。

野田 人的交流が最も大事です。靖国問題や台湾問題にせよ、中国の皆さんがなぜあれほど熱くなるのか、理解する必要があります。

たとえば、中国からすれば、台湾が独立しようとするのは絶対に「NO」です。そのことを意外と日本人は知りません。「台湾解放宣言」(1954年8月、周恩来総理は中国人民政府委員会会議における外交報告で『台湾は中国の神聖不可侵の領土であり、中国政府はアメリカがこれを侵略することを決して許さない』と言明した)を知らないのは、日本では教えないからです。

日本では明治以降の歴史を学校でほとんど教えません。しかし、中国やアジアの国々は、まさに近現代史が一番大事で、そこからスタートしています。ですからお互いに歴史の常識が違うわけです。

いずれにせよ交流することが大事です。しかし、ただ交流するだけではダメです。何かの問題でカチっとスイッチが入ったら、固まってしまう。そこから前に進まない。そういう時こそできるだけ相互理解を得られるように努めて相手に話していくことが大事なのではないでしょうか。そうすれば、少しずつですが、理解が深まっていくのではないかと思います。良好な日中関係を築くためには、人間的な交流の中で、相互理解を深めていくことが最も大事です。