呉汝俊 日本京劇院院長
新京劇が中国と日本の文化交流に共鳴を喚び起こす

 中国と日本が国交正常化を果たし、風雨に負けず駆け抜けること半世紀。この記念すべき節目の年に、日本京劇院院長である呉汝俊が自ら脚本と演出を手がけたオリエントオペラ「宋家の三姉妹」が、再び東京で上演された。この日は政界の要人や日本の友人のみならず、駐日大使館の外交官から華僑まで、実に数多くの人々が鑑賞のために足を運び、会場は盛大な拍手に包まれた。中国と日本の文化交流における次の50年、その幕が呉汝俊の「宋家の三姉妹」によって開かれたのである。

一、長く、そして深い「中国」という奇縁

 呉汝俊は六朝時代より続くいにしえの都――南京にある芸術家の家に生を受けた。父は京胡の奏者にして作曲家、母は老生(中年以上の男性役)の俳優であったため、幼いころからそれを見て育った彼も、京劇と京胡を修めるようになった。代々の家学という恵まれた環境と類い稀なる天賦の才により、彼は中国戯劇伝習の殿堂——中国戯曲学院に入学し、専門的な理論と教養を積み上げた。卒業後、さらなる幸運に恵まれ、彼は伝統ある中国京劇の殿堂——中国京劇院に入り、京劇の巨匠である李維康や耿其昌などの伴奏を担当した。

 呉汝俊と陶山昭子の愛の物語は、中日両国の文芸界における素敵な語り種である。陶山昭子は非常にアウトドアでの活動を好み、5000m以上の高山に登るのは、仕事でありつつも大切な趣味の一つであった。呉汝俊がそんな陶山昭子との邂逅を果たしたのは、幾度も調査のために中国を訪れていた陶山がタングラ山脈への挑戦を無事に終えたあとのことである。中国の伝統文化に対する興味や価値観の一致から二人はすぐに打ち解け、国境を越え、年の差を超えて、ある種の感情が静かに頭をもたげた。

 のちに呉汝俊は知ることとなる。陶山昭子の曾祖父である頭山満は、中国革命の先駆者である孫中山と非常に親しい間柄にあった。孫中山と宋慶齢の結婚式の仲人こそが頭山満だったのである。

 歴史とは、いつもひっそりと相応のDNAを伝えることによって紡がれるのか。陶山昭子自身にも、まさか曾祖父の頭山満が中国の革命家孫文の仲人を務めるとは思いも寄らぬことであった。そしていま、自分は中国の京劇芸術家に嫁いでいる。四代にわたって綿々と伝わってきたこの奇縁、これこそ中日文化交流史上の「絶唱」と称えられるべきではないだろうか。

 呉汝俊がもっとも胸を打たれたこと、それは名家の出身である陶山昭子が、結婚後、国立大学の公務員という身分を迷うことなくうち捨てて家庭に入ったことである。以前、筆者は呉汝俊の舞台を見たあと、舞台裏をのぞかせてもらう機会があった。昭子さんはあちらこちらを忙しく立ち回り、幕が下りたあとの雑用を粛々とこなしていた。そして面会の客が来たと聞かされても、「汝俊に出てもらってください。こちらの用事を片づけないと気が休まりませんから」と答えていた。

 呉汝俊と昭子がいっしょになって三十五年、二人はいまも師友のような関係で、支え合い、頼り合い、中日両国の国境を越えた、誰もがうらやむ夫婦なのである。

 

二、芸術的革新、日本での新京劇上演

 誰しも記憶のなかで静止画のように切り取られたワンシーンがある。1988年、呉汝俊は中国初の京胡・京劇ソロコンサートをおこなったが、鳴り止まぬ拍手と歓声のなか、静かに背を向けた。陶山昭子との約束を守るため、彼は輝かしい業績を捨て、単身で日本に渡ることを決意していたのである。すべてをなげうって新たな一歩を踏み出すために。

 呉汝俊が初めて日本の地を踏んだとき、日本にはまだ京胡を鑑賞する、あるいは京劇を発展させる、そういった環境はまだ整っていなかった。最初の京胡演奏会を開催したときは、「舞台上のメンバーのほうが観衆より多かった」と回顧しているほどである。これは若くして名を揚げた呉汝俊にとって大変なショックである。

 痛みを糧に、高みに立ってこそ遠くが見える。呉汝俊は京胡の演奏に、西洋のオーケストラやディスコ、ルンバ、ロック、あるいは日本の伝統楽器である尺八や琴などの要素を大胆に組み込み、さらには電子音響や京胡による軽音楽、アンサンブルまで幅広く加えて渾然一体となる芸術を生み出し、老若男女が誰でも楽しめる「新京劇」という新たな表現形式を作り上げたのである。

 ほどなくして、呉汝俊は日本のプロダクションからオファーを受けることになる。彼の京胡演奏を収めたアルバム「It’s For You」は、日本で三十万枚超という素晴らしい売り上げを記録した。2006年に開催した京胡コンサート「北京の春」は広く日本社会の注目を集め、元首相である海部俊樹や鳩山由紀夫のほか、かつて自民党の中枢で日中協会会長の野田毅らを含む数多くの政財界の大物が集まり、呉汝俊の芸術における造詣の深さや新機軸を打ち出す能力に大いに感服し、かつ酔いしれた。

 そうして呉汝俊の三十年以上にわたる新華僑としての生涯は、NHKの大河ドラマにストーリー上の重要な人物として幾度も出演したことや、好評を博した十数枚のアルバムの発表、さらにはいくつかのゴールドディスクのトロフィーの獲得などによって彩られている。

 「楊貴妃と阿倍仲麻呂」は、呉汝俊が「新京劇」という新たなジャンルで初めて作り上げた作品である。かつて、唐の明皇玄宗が愛を注いだ楊貴妃は、日本から来た遣唐使の助けを得て馬嵬坡から逃げ延び、はるか遠く海を渡って日本に流れ着いたという伝説が日本各地に広まっている。山口県下関市に楊貴妃の流れ着いたとされる場所やその墓があること、数代の天皇を祭る京都の泉涌寺にも楊貴妃を祭った観音堂があることを知った呉汝俊は、中日両国の人々がともに思いを寄せる楊貴妃にインスパイアされ、新たな芸術モデルを創作したのである。

 日本で創作した「新京劇」を中国文化のなかに還元したい――呉汝俊はそんな思いを記者に打ち明けてくれたことがある。事実、呉汝俊の「新京劇」は当時の北京市文聯主席、北京市政協副主席、国家一級編劇の張和平や、同じく国家一級編劇の張永和から高く評価されているとのことで、しかも張和平は、前後して呉汝俊のために多くの作品の脚本と演出を手がけてきた。そういった基礎の上に、呉汝俊は「則天武后」「七夕物語」「四美人」「孟母三遷」「宋家の三姉妹」など全十作の「新京劇」を世に出し、いずれも中日両国で大きな話題をさらった。

 

三、「中華之光」と、その背後にある「新京劇外交」

 2014年、北京の人民大会堂にて、「中華之光——伝播中華文化年度人物評選」組織委員会は、その栄えある賞を呉汝俊に贈った。これは彼が中日両国の文化交流のために尽力した数十年を、両国の人々が信じ合って勝ち得た社会的な成功を、そしてそこから生み出された大きな影響を高く評価するものである。

 呉汝俊が日本に渡って三十五年、その間、両国の関係は穏やかな日差しに包まれたときもあれば、冷たい風が吹きすさぶときもあった。両国の関係が冷え切ったときは、どちらからともなく相手に対する誤解が生まれて世論を席巻する。呉汝俊はそのたびに胸を痛めたが、それと同時に堅く信じてもいた――交流なくして理解なし、協力なくして和平なし。

 また呉汝俊は、幾度も日本の経済貿易代表団に付き添って訪中し、数多くの中日合作プロジェクトの締結に携わってきた。そのため、日本の有名な専門誌である『財界』の表紙を飾ったことがあるだけでなく、2003年には週刊誌『AERA』も呉汝俊を表紙に起用した。2006年、呉汝俊は当時の日本の首相夫妻とともに中国を訪れ、両国の関係改善にも貢献した。2013年にはかつて日本の首相を務めた鳩山由紀夫に従って、南京大屠殺遇難同胞紀念館(いわゆる南京大虐殺紀念館)を訪れている。鳩山由紀夫はそこで用意された宣紙に「友愛和平」の四字を大書し、友愛の象徴として銀杏を植樹、さらには平和の象徴として鳩を空に放った。とりわけ人々の心を揺り動かしたのは、彼が紀念館の前で懺悔のために跪いたことである。中国の民衆はここに日本社会の良心を見た。

 そういったこともあって、呉汝俊は何度も右翼団体の標的にされたが、「私には、自分が従事しているのは新京劇外交であるという、ある種の使命感や責任感があります。新時代の中日関係は共鳴を喚び起こすことから手をつけていかねばならないのです」

 2020年、呉汝俊と陶山昭子の夫婦二人は、「陶山昭子博愛基金会」の設立を決めた。この基金は中日両国の文化交流を推し進める人々を表彰するだけでなく、両国の青少年たちが交流するための活動をも重視している。鳩山由紀夫もこのことに深く感銘を受け、名誉会長の任を買って出ることで支持を表明した。

 中国と日本、両国を結ぶ新時代の民間外交は如何にして進められるべきか、呉汝俊はここに自らその解答の一つを示したのである。

後記

 呉汝俊に会うと、公私にわたっていつも話題が尽きない。それというのも、公の面では、彼が長年中国と日本の文化芸術界で活躍し、両国民に愛される芸術家であるため、また私の面では、陶山昭子夫人はかつて記者が九州大学の修士課程に在籍していたときに指導を仰いだことがあるためである。当時、夫人は奨学金関連の事務を担当し、まだ裕福ではなかった中国人留学生たちに対して多大な労を執ってくれた。

 在学中、筆者が「昭子先生」と声をかけたところ、慌てて手を振り、小さな声でこう言った。「日本の大学ではね、授業を担当している人だけが「先生」と呼ばれるの。わたしは事務職員でしょう、だから「先生」と呼んではいけないのよ」。些細なことである。だが、なぜか筆者の記憶のなかにはこのシーンが鮮明に残っている。このたび本記事を執筆するにあたり、どうしてもこの「私物」を差し込みたかった。小さなことではあるが、大いに人柄と品性が垣間見えると思うがゆえである。

 呉汝俊の歩みは止まるところを知らない。2023年には新京劇「媽祖」と「臨水娘娘」がお披露目されることになるだろう。「私がこのような題材を選ぶのは、日本の人々にとってもなじみがあり、親しみを覚える物語だからです。海外で中国の文化を伝え広めるには独りよがりではいけません。受容する側の文化的な教養に照準を合わせ、文化的な共鳴を呼び起こすこと、そうしてこそ互いの親近感がいや増すのだと考えています」

 「来年か、再来年か、あるいはもっと先のことになるかも知れませんが、私は新京劇「宋家の三姉妹」を香港と台湾で公演できればと願っています」。その思いの向こうには、「新京劇」のさらなる発展を願う気持ちのみならず、私たちが共有する強く豊かな民族感情があるに違いない。