アジアの眼〈55〉
工芸を通して世界に発信し続けたい
――九谷焼四代徳田八十吉

石川県の老舗温泉旅館加賀屋で小松の九谷焼徳田八十吉四代を取材するため東京から出向いた。当日、加賀屋では、催事場で徳田八十吉の初代から四代までの展示会を開催していた。同行した沖縄で壺屋焼陶真窯を営んで50周年を迎える相馬正和氏の展示も同時に開催され、四代徳田八十吉と相馬氏の対談も行われた。

対談の前に段取った取材はあまり時間が取れず、化粧や着物を着ている最中に色々と話を聞くことにした。これこそ女性同士ならではのメリットだとも言えよう。

石川県小松在住の九谷焼作家の徳田八十吉(以下、四代)は、2010年に人間国宝だった父の跡を継ぎ、四代徳田八十吉を襲名する。

英国の大英博物館に作品が常設展示されるなど、活躍の舞台を海外へと広げている。エキゾチックな色合いは国外にも根強いファンを生み出しつつある。

明治期から360年続く九谷焼の名門の長女として生まれた四代。父の徳田八十吉は独自色のグラデーションを生み出し、新たな境地を開拓した。幼いころから父の背中を見て育ったが、「九谷焼の作家になるとは思わなかった」と言う。普通に結婚し、家庭に入ることが漠然とした将来像だったと話す。

しかし、20代半ばで旅をしたアメリカの美術館で中国・景徳鎮の壷に出会い、自分のルーツを再確認した。1990年に能美市の九谷焼技術研修所を卒業し、作家として歩み始めた。

転機は2007年ごろだった。脳梗塞で入退院を繰り返す父が、初代から受け継いだ釉薬の調合について教え始めた。2009年、日本伝統工芸展に入選した際に、病床にいた父は「おめでとう、おめでとう、すごいね」と繰り返し、亡くなった。安心したように。翌年の2010年、四代を襲名し、戸籍名を順子から八十吉に改めた。

父亡き陶房では、経営者としての力も求められ、色々と紆余曲折を経験し、職人たちに「辞めようと思う」と弱音を吐いたこともあるという。

2011年3月11日の東日本大震災の時も、世相が暗くなる中、落ち込んだ心を癒してくれたのは、陶房の前に広がる田んぼで雨に濡れた稲穂だったと。稲穂の一粒に励まされながら気持ちが前向きになり、改めて作陶に向き合い、目にした稲の実りを表現しようと、深い緑と輝く黄のグラデーションを壷に施した。

コロナ禍になる直前、2019年に食道癌と誤嚥性肺炎を患い、延べ一年間の闘病生活を経て、作った彩釉花器「紅の扉」、彩釉瓶「祭華」、彩釉花器「沙華」の三部作。紅の扉は、集中治療室(I C U)から一般病棟へ移る際に見えた扉上の緑色のランプを「一筋の希望の光」に見立てて器に表現したと言う。1年間にわたる闘病生活で人生観が変わるほどだったが、生き返ったので、生まれ変わった気持ちで赤ちゃんや蕾をテーマに作品を作るようになったという。

初代から四代までの家族の歴史を並べたような展示会、四代の話す言葉は、若きころにニュースキャスターを経験したこともあり、言葉使いが秀麗で気さくな性格と鷹揚な大らかさやユーモアが融合した良いトークだった。沖縄から来た陶芸家相馬氏との対談も興味深かった。

展示会場に見えた来客とのコミュニケーションを熱意を持って行っていた四代の振る舞いはとても親切に感じた。お客様もオープンマインドな彼女に癒されただろう。

2020年10月、滋賀の今津に徳田八十吉資料館が建てられた。徳田八十吉資料館に関しては、四代自ら看板を書き込んでいた。いつか絶対行きたい場所の一つである。初代から、二代、人間国宝だった父、そして四代までの作品が一堂に展示され、盛大なオープニングセレモニーが行われたという。

取材前の8月初めに集中豪雨に見舞われた工房はビックリするほど被災されていた。われわれ人間は自然には敵わないと痛感したともいう。

社会的には、ロータリークラブの会長を務めており、製作以外にも多彩な活躍をしている。

毎年6回以上の展示会を開催する活躍ぶりもさることながら、海外のニューヨークやロンドンでの展示会等がほぼできなくなった今は、日本全国で展示会に引っ張りだこの状態である。

癌との闘病生活、コロナ禍の三年にわたる不安、世相は戦争、疫病、気候変動による天災、ひいてはそれによって引き起こされる飢饉の到来と、決して明るい未来が待っているわけではない。その中でも、一日一日を丁寧に、力強く生き抜こうとする四代徳田八十吉の笑顔は本物だった。

Photo by Kubo

真剣に向き合う死生観への理解、彩釉にキラキラ光る彼女の独特な感性。大胆でありながら繊細で、それでいて豪華さも兼ね揃えた色彩感覚、率直で豪快な人柄は、作品にもそのまま体現されている気がした。

暗い世相だからこそ、彼女の力強い色彩の裏に隠されている「愛」は人々を励ましてやまない。生き抜くエネルギーを。

 

洪 欣

東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。ダブルスクールで文化服装学院デザイン課程の修士号取得。その後パリに留学した経験を持つ。デザイナー兼現代美術家、画廊経営者、作家としてマルチに活躍。アジアを世界に発信する文化人。