アジアの眼〈53〉
琉球紅型の最初の人間国宝
――玉那覇有公

梅雨の間だったが、予報では雨のはずなのに取材に出かけた日は大きく晴れた。湿気のある沖縄ははじめて経験する。駐車場から坂の上がった小高いところに琉球紅型の人間国宝、玉那覇有公工房はあった。

85歳のご高齢のため、ご本人ではなく二代目の玉那覇有勝氏に話しを聞くことになった。工房には、二列の紅型の長い布が貼ってあり、作業中の織り工が3人ほどいた。6人ほどで運営しているとのことだった。

玉那覇有公(以下、玉那覇氏と略す)は1936年(昭和11年)に沖縄県・石垣島に生まれ、学校卒業後は鐵工所で働いた。紅型の城間家14代、栄喜氏の一人娘である道子氏と結婚したのち、義父の工房に入り琉球紅型を学び始めたという。図案から型紙彫りを極め、すべての工程に精通し、やがて妻の道子氏と二人で工房を開設する。

義父の栄喜氏が染めていた両面染めを紅型で唯一取り入れており、二枚異形という独自の技法を考案し、1996年(平成8年)には「紅型」で重要無形文化財の保持者(人間国宝)に認定された。

紅型着物『鳥に蝶々・草花文様』

琉球紅型は琉球ガラス、琉球漆器、芭蕉布と並ぶ沖縄伝統工芸品の一種である。南国の沖縄は植物がとても鮮やかで豊富にある。本土の花よりも色濃い植物の色彩、その南国の名の知れぬ植物たちにいつも目を奪われてしまう。大地に根を張り、どこまでも大きくなっていきそうなガジュマルの大木、月桃(ゲットウ)の花が実に変わろうとする時に花と実が同じ時空間で鑑賞できる月日、梅雨でにわか雨が降ってきて雨宿りをしていると、いつも出会う名の知れぬ美しい仔猫。仔猫の目はフレンドリーだが、適度な距離を求めている。ははあ、自分より賢い尺度のわかる猫だ。

南国の沖縄は美しい空と海が広がっている。「そこから地平線のかなたを見つめ玉那覇氏のデザインが始まる型という有限の中に、はるかかなたまで続くかと思うほどの無限の世界を作り出す玉那覇氏の紅型」(注1)。読谷村の静かな一角で始まる紅型作りは、何百年の歴史を経ても常に新しい可能性を生み出す。50年に及び身につけた紅型の技法は、時が立つにつれて、今も常に研ぎ澄まされていき、作品を通して玉那覇氏の手の中で作りされている作品の世界は私たちの心に沁みわたり、心をとらえて離さない。

紅型着物『鳥に蝶々・草花文様』(模様のアップ画像)

玉那覇氏にしかできない両面染めの絵羽、今はもうほとんど作らなくなった藍型の着尺4反、芭蕉布に紅型を染めた帯など普段見られない作品たちを個展でお披露目した呉服屋がある。銀座もとじプロデュースのプラチナボーイの白生地に染めたものがある。夏の装いを楽しめる絹の着尺(きじゃく)2反、縮緬(ちりめん)1反の限定3反で、銀座もとじの店主・泉二弘明が型で染めた玉那覇氏渾身の作品たちをそろえて個展を開催し、反響を呼んだ。

城間家の一人娘の道子さんとの結婚を機に紅型の世界に飛び込む若き日の玉那覇氏。奥様の道子さんは、紅型復興に命がけで臨んだ父の栄喜氏に幼い頃から基礎技能を叩き込まれていた。

縮緬地着尺『萩に南天・沢瀉文様』(模様のアップ画像)

栄喜氏は1942年(昭和17年)に50枚の紅型を抱え、大阪に向かったまま沖縄戦になり、妻子と離れ離れで終戦を迎えたという。命からがら沖縄に戻り、たったひとり残っていた道子さんと疎開から戻った息子と共に何もないところからこの50枚の型紙を一筋の力として、紅型一筋で生き抜いた「紅型に関しては全く妥協を許さない」厳しい人だった。

物のない時代には、米軍のゴミ捨て場から材料を探し、そこから道具を自分で作り出し、生き残った長男と長女の二人を助手に工房を運営した。なぜなら、紅型は決して一人でできる仕事と作業ではないからだ。型を彫り、染めては糊伏せを何度も繰り返し、均等に乾燥させて最後は地染めをする。人手が足りないので、一人娘の道子さんと結婚することはこの世界に入ることを意味することを知っていて、飛び込んだという。

縮緬地朧型着尺『竹に梅桜文様』(模様のアップ画像)

工芸の世界で玉那覇氏は、「城間家の名前を汚さない」仕事をまずは目指して一所懸命に仕事に取り組むが、全く未経験の紅型の世界は甘くはなかった。すでに工房にいる義父の弟子たちと平等に扱うため、最初はなかなか工房への出入りを許されなかった。25歳という齢で飛び込んだ工芸の世界、工房には型紙を彫れる人がいなかった。無謀にも「私がやります」と手を挙げたものの、経験がないため毎日、自宅で型紙を彫る日が始まった。細い小刀を研ぎ、刃先で前方へ向けて突き彫りする方法は、指先に込める力と集中力が要求される。鋭利な小刀を研ぐ技術は熟練の職人が持つ勘に近い緻密さ、彫りには手先の器用さが要求された。玉那覇氏には、そのすべてがはじめてのうえ、鐵工所時代におった怪我も災いし、指先は自分の思いとは裏腹に思うように動いてくれない。

両面染紅型着物『藤に花文様』(模様のアップ画像)

 

その段階から義父に認められ、60歳にして琉球紅型の人間国宝にまでなった玉那覇氏。猛勉強、猛練習はもちろん、奥様との二人三脚で力を合わせたことも大事だっただろう。

今、二代目のご子息・有勝氏は20年ほど工房に携わっているという。後継者がいて伝統工芸は受け継がれていく。月桃の咲き誇る海辺の爽やかな南国沖縄の風がすでに懐かしい。

(注1)ネットの「和織物語」を参照

洪 欣 プロフィール

東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。ダブルスクールで文化服装学院デザイン課程の修士号取得。その後パリに留学した経験を持つ。デザイナー兼現代美術家、画廊経営者、作家としてマルチに活躍。アジアを世界に発信する文化人。