茨城の歴史に隠された「遣唐使の重大政治事件」
――『反骨の系譜—常陸国政治風土記物語』を読んで

最近、元時事通信社ニューヨーク特派員の岡野龍太郎氏による『反骨の系譜—常陸国政治風土記物語』(日本論創社、2021年10月初版発行)を読んだ。

中国の読者には「常陸国」という地名を見ても、日本のどこなのか分からないだろう。これは古代日本の藩国の名前で、俗に「常州」ともいう。中国の常州を連想するだけでなく、日中両国になぜ同じ地名があるのかという文化的な疑問も湧いてくる。しかし、この「常陸国」のほとんどの部分は現在の茨城県となっている。茨城県といえば、「日本のシリコンバレー」のある地であり、1980年代中国の改革開放初期に、中国人学生が留学を希望した「聖地」の一つであることを思い出す。そんな理由から、私もこの『反骨の系譜—常陸国政治風土記物語』を読んでみたくなった。

この本の中では「序章」から「終章の記」に至るまで、「旅」という文字が目に飛び込んでくる。それは、著者がこの本を「足」を使って書き上げたということを意味する。これは、私が長年守り、また提唱してきた「文章は『手』で書くものではなく、『足』で書くものだ」という信念と同工異曲である。私自身、岡野氏と同様にジャーナリストとして生きてきたので、自ずからシンパシーも感じる。また、本の中で取り上げている筑波山近くの雨引山楽法寺は、私が2022年の桜の季節に茨城県のウイスキー醸造所を取材した折、その足で「旅」したことがあるため、一層この本に親近感を覚えた。

この本は「序章」と「終章の記」のほか、三章から成っている。第一章は「万葉浪漫常陸国風土記への旅」、第二章は「中世からの幕末の常陸国激動の時代」まで、第三章は「常陸国の風土が育んだ政治家群像」を描いている。本で紹介されている著者の略歴によると、岡野氏は1947年(昭和22年)長崎に生まれたが、彼の実家は水戸である。この本はもともと岡野氏の郷土愛から生まれたものであり、日本のインテリの故郷への恩返しともいえよう。

『常陸国政治風土記物語』の歴史の扉を開くと、そこには587年に中国の古代南北朝時代の梁から渡ってきた一人の僧侶がいる。私たちは鑑真和上が753年に日本に渡ったことは知っているが、この僧侶は鑑真よりも166年も前に日本にやって来たというのだ。この梁の僧侶は今でも謎に包まれた人物ではあるが、それでも梁の武帝粛衍が聖徳太子の父である用明天皇の仏教信仰に大きな影響を与えたということは分かっている。

興味深いことを発見した。第8次遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂は唐を愛し日本に戻らなかったため、大和朝廷の怒りを買い、奈良・平城京にあった家屋が没収され、一家は筑波山麓に追いやられた。この「遣唐使帰国拒否」事件は当時の政治の重大事件であり、中華の文化が日本の知識階級を磁石のように引き寄せる魅力を持っていたことを浮かび上がらせる。第10次遣唐使で渡唐した吉備真備は、長安で阿部仲麻呂に帰朝するよう説得したという。これは成功しなかったものの、吉備真備は帰国後、阿部仲麻呂の筑波山の屋敷に中国の古書漢籍を持って帰ったという。私はここまで読んで、一人の読書人として長いため息を禁じ得なかった。

岡野氏は第三章で、当地の政治家群像を描いている。これについての長い評論はすまい。というのは、日中両国で現代の人物に対する見方は異なるからだ。しかし、常陸国――茨城県には阿部仲麻呂との深い縁があることから、彼の「反骨精神」は当地の政治風土の一部に変わり、のちの近現代の政治家にも影響を与えたのではないかと思う。

日本の今の政治を見るとき、歴史、郷土からその背景や原因を探ることを忘れてはならない。それが『反骨の系譜―常陸国政治風土記物語』が読者に送る最大のメッセージではないかと私は思う。