「武術の故郷」へ
今も市井に生きる真の中国武術

■河北省滄州市

1.概略

棍棒拳法は滄州より発祥

滄州を歴史的に見ると、兵家が必ず争奪する要地であり、商人たちが雲集する地であると同時に、罪人が流刑される地でもあった。人びとは攻撃と防御の訓練を行って生きるために格闘術を学んだことから、武術が盛んになった。

滄州武術の源流は春秋時代にさかのぼるが、はやり始めたのは明代である。清代に盛んになり、清代末期から中華民国初期に非常に繁栄した。滄州武術の門弟・門派は多く、八極・劈掛・燕青・八卦・六合など53の拳種があり、全国に129ある門派の拳種のうち5分の2を占める。各門派はいずれも勇猛果敢、長短を兼ね備えており、質朴の中にも風格があるのが特徴である。この数百年来、滄州武術の精鋭が集まり、丁発祥、王子平など多数の優れた武術家が出現した。彼らは外敵を防いで、中華精神に大きく貢献した。1992年、滄州市は国家レベルの第1回「武術の故郷」リストに選出された全国初の地級市となった。

 

2.代表人物

伝奇的人物・燕子李三

歴史上、数多くの武術界の達人が滄州に出現した。そのなかでも広く伝えられているのが、義侠心に富んだ大泥棒“燕子李三”の李雲龍である。

1837年、李雲龍は滄州市献県臨河郷に生まれ、身軽でひさしを飛んだり壁を歩くことに長けていた。彼は金持ちから奪って貧しい者に与え、強きをくじき弱きを助けた。現在の北京市や天津市、河北省、東北地方などで活躍し、その名前は遠くまで伝わった。毎回泥棒を行った後には自分の芸の高さと大胆さを示すために、わざと伝奇小説の中に登場する“花蝴喋”、“白菊花”などの大泥棒のやり方をまねて、白い紙で折ったツバメを犯行現場に残した。これにより、「今回の事件は自分がやった」ものであり、他人は無関係であることを示したという。“燕子李三”の名前はここから付けられたのである。

しかし、実際のところ“燕子李三”の故事には異なる版本が現存しており、さまざまな伝説が伝わっている。彼が実在した当時には複数の“燕子李三”が存在し、決してただ1人ではなかったのである。世間や役所では未解決の窃盗案にその名前を冠して決着をつけてしまった。また、塀や屋根を乗り越えて侵入する飛賊の一部も自らを“燕子李三”であると自慢することで、自分の本当の身分を隠すのに都合が良かったという事情もある。厳密に言えば、“燕子李三”は北京市、天津市、河北省、山東省などの北方地域で当時活躍していた多くの飛賊が共用していた代名詞となっていたのである。だが、たとえそうであっても、滄州の“燕子李三”である李雲龍は最も長い間、最も古い版本の“燕子李三”であり、正真正銘の“燕子李三”であると言えよう。

現在でも“燕子李三”は依然として多くの人の心の中に残る謎多き人物である。“燕子李三”に関する伝説は今もなお広まっていて、これをもとに改編された映画やテレビドラマも数多く、最も古い作品では1972年の香港映画『燕子李三』にまでさかのぼることができる。最近では2013年の王新民監督による新作の連続ドラマ『新燕子李三』があるが、いずれもこの伝奇人物を称える内容となっている。

 

3.武術の故郷の情景

滄州武術節

滄州武術節は1989年10月中旬に初回が開催され、以後毎年1回秋季に開催されている。全国で開催されている武術節の中では最も早くから開催されたもので、経験も最も豊富で、競技や実演プログラムが最多の大衆的武術節として国内外からの知名度も比較的高い。滄州武術節は毎年異なるテーマで開催されているが、武術・文化・経済を一体に融合させ、滄州伝統武術の特色と優位を突出させることに重点が置かれている。さらに、武術節の大衆性・伝統性・学術性・国際性を十分に体現している。

 

 

■天津市

 1.概略

海河沿いに存在する数多くの中国武術

天津は古くから首都と運河で結ばれ栄えた都市である。燕山と渤海湾がひかえて、海河が市内を通っており、天津市民にとってもまるで恐れを知らない英雄の血が流れているかのようである。数百年の間、天津出身の武術家は日夜拳法を修練して義和団に加入したこともあれば、抗米援朝戦争の支援を行ったこともある。国難に際して武術家はその義侠心を遺憾なく発揮した。

天津地域の拳法の種類は非常に多く、1986年までに太極拳・形意拳・八卦掌・翻子拳など47の拳種が明らかとなっている。拳械、実戦形式の訓練法、武術の套路(型)は1294種類、そのほかにも拳譜や手稿資料、古代武術の器械(武器)などが見つかっている。これにより、天津市南開区は92年に国家レベルの第1回「武術の故郷」リストに名を連ねた。

 

2.代表人物

愛国の人・霍元甲

天津武術の代表者といえば、清代末の有名な愛国武術家である霍元甲について触れないわけにはいかないだろう。霍元甲は旅客や貨物運送を護衛する用心棒一家の出身で、天津市西青区南河鎮に生まれた。後世の人は霍元甲を記念して同地の地名を精武鎮と変えた。彼は幼い頃から身体が弱く、青年期には港で荷物の積み下ろしをしたり、薬種問屋の臨時雇いとして働いていた。1909年、41歳で上海を訪れ、「精武体操会」において武術の指導に当たった。1年後に同会は「精武体育会」と改称し、霍元甲が師範となった。残念なことに、精武体育会が創立されてから数カ月後に霍元甲は逝去、後世の人びとに尽きない憶測をもたらすことになった。

霍元甲の事跡はこれまでに何度も映画やテレビドラマで扱われている。初めて銀幕に登場したのは1972年、カンフー映画の大スター、ブルース・リーが陳真を演じた映画『ドラゴン怒りの鉄拳(原題:精武門)』においてである。映画の中で霍元甲は日本人に毒殺されたことになっているが、実際の死因については諸説まちまちである。彼が長期にわたって雄黄(硫化砒素の一種)を含む漢方薬を服用していたからだと言う人もいれば、『拳術』、『近代侠義英雄伝』などの作品では重い肺結核を患っていたことになっており、一方『申報』では心臓病で死んだことになっている。

いずれにせよ、霍元甲の信念や武術精神が今に至るまで広く伝わっていることは確かだ。彼は国家が揺れ動き、内外で困難に直面していた時期に愛国の情念と勇敢な精神を示した。彼は義侠心に富んだ天津門派を代表するだけでなく、中国全体の武術の精髄を代表していると言えよう。

 

3.武術の故郷の情景

霍元甲故居

運河の流れる天津市では、今でも早朝に西沽公園を訪れれば、正真正銘の老拳術家を見ることができる。このほか、霍元甲の遺志を継承し、またこの著名な武術家の愛国精武精神を発揚させるために、天津市西青区人民政府は1986年、小南河村にある霍元甲の故居を補修し、霍元甲の陵墓を中心とした公園を造園した。その後、拡張して「霍元甲故居記念館」を建造、現在では天津市重点文物保護単位、および天津市青少年愛国主義教育基地に指定されている。

 

 

■湖北省黄梅県

 1.概略

「全国武術の故郷」

黄梅は岳家拳の発祥地である。南宋の名将岳飛は、かつて岳家軍を率いて黄梅の戦場に馳せ参じた。その四男である岳震と五男の岳霆がその後黄梅に隠居して子孫は繁栄し、彼らが黄梅に住んでいた間に訓練を行っていた岳飛拳は黄梅の民間に広く伝わり、大衆の中に根を下ろした。岳飛拳は短小にして素朴、穏やかな足さばきで息を吐きながら発声し、格闘技は実用的で、人気を集めた。

黄梅は昔から武術をあがめ尊び、武術を習う気風が強く、2年に1度開催される「武術の故郷」の試合では何度も金メダルを獲得している。近年、黄梅の武術運動は空前の広がりを見せており、学校・農村・機関・企業・地域社会の10万人近い市民が争って武術を練習するという喜ぶべき局面が形成された。2002年、国家体育総局は黄梅県を「全国武術の故郷」と命名した。

 

2.代表人物

岳飛の子孫の中国武術

清代の『黄梅県志』、『岳氏宗譜』の記載によれば、岳飛の死後、秦檜は密命を出して岳飛の家族を殺そうとした。岳霆、岳震および岳家軍の古くからの家臣は一族皆殺しの危機から逃れるため、五郎関下の聶家湾まで逃げてそこで繁栄し、世々代々伝わって今に至っている。その後、岳震と岳霆は岳飛が記述した拳譜、拳理、拳法、拳訣、拳歌を『武穆遺書』として整理した。その内容は数十種類の拳術や器械の套路や、点穴術(指で相手の急所を突く術)の使用説明、『打法訣』や『八法取用歌』などを含む。岳飛の四男である岳震が黄梅を防備していた期間に南宋の安定と岳家拳の発揚に果たした功績は大きい。

岳家拳が最も広く伝わったのは、?春・黄梅・広済の3県が境を接した地域で、当時の岳家が定住していた楊梅嶺の所在地でもある。岳家拳が盛んになったのは、人びとが民族の英雄である岳飛に対して崇敬や敬慕の念を抱いていたからだけではない。人びとにとってさらに重要だったのは、岳家拳を行うことによって体が丈夫で健康になり、寿命を延ばすことができたからである。金や元の時代は武術を習うことが厳しく禁じられていたが、岳家拳は広く民間に伝わり、古風かつ素朴にして力強いという昔ながらの風格を一貫して保ち続けている。岳家拳からは数多くの分派が派生しているが、元をたどればいずれも岳家拳の流れを受け継いだものである。現在、岳飛の後裔は湖北省黄梅・武穴で33代にわたって続いており、その子孫は合わせて2000人余りにのぼる。

 

3.武術の故郷の情景

“三宝”―古典劇と史跡

黄梅県には“三宝”と呼ばれる古典劇と史跡、すなわち黄梅劇(中国5大演劇の1つ)、五祖寺、そして「岳墳」がある。「岳墳」というのは、杭州市西子湖畔にある岳飛の墓ではなく、彼の四男である岳震と五男の岳霆が人生の終着点とした黄梅県にあり、同県苦竹郷養馬村の老木が生い茂る山腹に位置する墓碑である。墓碑銘には、「大宋岳飛之子岳震岳霆之墓」と刻まれており、黄梅県の重点文物保護単位、愛国主義教育基地となっている。

現在でも「岳墳」を祭って「武穆古楓」を拝んだり、「岳飛拳」をやったり、「岳体」書法を観賞したり、「油炸檜(中国風揚げパン)」を食べ、『満江紅』を歌ったりしており、黄梅県に住む2000人以上の岳飛の後裔による特別な“母斑”となっている。

 

 

■広東省仏山市

 

1.概略

南派武術の発祥地

仏山は古くから嶺南文化と広府文化の特色を有している。亜熱帯モンスーン気候がこの地に十分な降水量をもたらし、昔から文武をあがめ尊ぶ仏山精神をももたらした。

仏山は中国南派武術の主要な発祥地である。清代末期から中華民国初期にかけて、仏山武術の門派が次々と現れた。国際的影響力を持つ武術の名家や組織が大量に出現し、さまざまなルートを通じて世界に向かって進んでいった。現在世界的に広く流行する蔡李佛拳・洪家拳(洪拳)・詠春拳などはどれも仏山に端を発している。著名な武術の大家である黄飛鴻、詠春拳の名人・梁贊や葉問、カンフー映画の大スターであるブルース・リーなどの本籍や師承も仏山である。2004年、仏山市は「武術の故郷」の称号を授与された。

 

2.代表人物

葉問と黄飛鴻の秘密

葉問、本名・葉継問は、広東省仏山の名門資産家の子弟で、7歳から「詠春拳王」と呼ばれた梁贊の高弟・陳華順(人びとからは「華公」と呼ばれた)を師匠として、詠春拳を学び、その門派の弟子となった。葉問は詠春拳術の分野にきわめて深い造詣があり、詠春拳を世界的に有名な拳術の1つにして、南派武術に傑出した貢献を果たした。

さらに、葉問の武術や品性、人柄はいずれも模範と呼ぶにふさわしく、詠春拳の門人はみな、彼のことを一代の名人として高く評価した。2008年、ドニー・イェンが主演した映画『イップ・マン 序章(原題:葉問)』は一時国内各地で大ヒットし、かつての名人である葉問や詠春拳の話題をよみがえらせた。

中国武術を世界的に知らしめたカンフーの大スター、ブルース・リーが葉問の数多くの弟子の1人であったことについても触れないわけにはいかないだろう。ブルース・リーは幼い頃から体が弱く病気がちだったが、仲の良い友人の紹介によって1954年に葉問師匠の門下に正式に入り、系統的に詠春拳を学んだ。葉問が彼に伝授したすべてが、ブルース・リーにきわめて深い影響を与えた。

ブルース・リーは生まれつき偏平足だったが、葉問は指導中に彼の歩き方に気づき、「歩く際にかかとが地面についていない。これはまさしく短命の相だ」と語ったとされている。実際のところ、この話は葉問の単なる冗談だったのだが、この予言は思いがけず的中することになった。

仏山にはもう1人の武術界の一代名人として黄飛鴻がいる。黄飛鴻は一生にわたって国粋を発揚し、嶺南武術の振興を自分の任務であると考えた。幼い頃から仏山で家伝を継承し、数十年にわたって武術界を自在に駆け回って洪家拳の大家となり、洪家拳の普及と振興に重要な役割を果たした。門下の弟子の中にも出色の武術家が数多い。現在世界各地に伝わる洪家拳も、その多くが黄飛鴻やその弟子の林世栄一派が広めたものだ。

黄飛鴻の拳術と獅芸、特に虎鶴双形拳・鉄線拳・工字伏虎拳などは、伝承者を通じて大々的に普及し、世界的に有名な中国武術の門派となった。現在、広東・香港・台湾・シンガポール・マレーシア・欧州・米国などの地では、黄飛鴻の拳術や獅芸が伝わり、その影響は日増しに拡大している。

 

3.武術の故郷の情景

葉問と黄飛鴻の記念館

現在仏山を訪れ、もし現地の武術の雰囲気を味わいたいならば、多くの門派の観光スポットが旅行客に観賞の記念になるものを提供している。

葉問記念館は、仏山市南海区羅村鎮聯星村に位置する伝統的な二進式の骨董建築で、歴代の先賢堂・思源堂・名人堂・拳法の練習場などが併設されている。館外には詠春拳と葉問の名前が隠れた対聯(対になった掛け軸)が掛けられており、「詠到老樹婆娑葉茂枝繁根牢固、春来桃李??紅嫣?紫緑晶瑩」(古い樹木の葉や枝が茂って根もしっかりしている。春になると桃やすももは赤い鮮やかな色になる)と書かれている。館内には詠春拳の発展を示す数々の貴重な文物が展示されており、観光客がここを訪れれば、詠春拳の一代名人である葉問の大家としての風格を感じることができる。

黄飛鴻獅芸武術館は、仏山市南海区西樵山下の禄舟村にあるが、ここは黄飛鴻の出生地でもある。館内の主な建築は清代末期の風格で、黄飛鴻故居・史跡陳列映像室・宝芝林堂・骨傷科堂・武術の稽古場などがそれぞれ設置されている。館外には黄飛鴻影視城、黄飛鴻武術学校や武術村などがある。この50年余りで、全国各省市および香港やマカオなどで撮影された黄飛鴻の映画やテレビドラマは合わせて100作以上にのぼる。観光客はその出生地や故居を自ら訪れ、この武術界の一代名人の面影を偲ぶことができる。