少林の易筋経、太極拳の張三豊、峨眉山の郭襄、華山の論剣
さあ、カンフーと景観を見に山へ行こう!

■河南省嵩山

《来歴》

カンフーは財産の保護から生まれた

隋末、朝廷の失政により、山賊たちは多くの田畑と財産を持つ少林寺を襲撃、強奪のターゲットとした。寺の財産を守るため、僧たちは組織して武装し、山賊や朝廷軍と戦った。これ以降、少林寺は武勇で世に知られるようになり、少林寺の僧は武術を学ぶという伝統が受け継がれていった。

現在、少林カンフーは漢族武術最大の流派となり、「少林」も漢族伝統武術の代名詞となった。仏門に入れば、修行者はまず参禅しなければならず、修行とはすなわち無心になり、禅定に入るための手段である。長い年月を経て、少林カンフーの「武」と「禅」は融合して一体となっており、これも少林カンフーがその他の流派とは異なる点である。

 

《秘伝》

少林カンフーの『易筋経』とは何か

最近、少林寺が打ち出した「禅と武の文化体験を深めるツアー」が注目されている。この体験パッケージツアーの中で、『易筋経』は大きくプロモーションされている。

伝えられるところによると、『易筋経』は天竺の達磨和尚が少林寺でその意味を理解した後に残した2巻の秘伝の一つであり、もう一つは『洗髓?』である。しかし、現在の歴史資料からは、『易筋経』は明代の天台紫凝道人が作ったものであり、最初は道家を引導する術で、その起源は仏教とは無関係とされている。

『易筋経』の名前は多くの武侠小説に登場しており、武術界の名人が練り上げた『易筋経』は、後に腐朽の伝説となった。実際、神秘的な『易筋経』は確かに存在する。その名の示すとおり、「易」は臨機応変に通じ、「筋」は筋骨を指し、「経」とは指南または法典を意味する。すなわち『易筋経』は筋骨を自在にし、丹田を修練し気を全身の経絡に通す内臓の気功法である。

 

《景観》

中国最大の塔林

中国の中原の大地は少林寺の建築群に意気軒高とした風格を与えた。現在の東漢三厥、中岳廟、嵩岳寺塔、嵩陽書院など、歴史的建築物が世界文化遺産「天地の中心にある登封の史跡群」に登録されている。

少林寺の西側には中国に現存する最大の塔林がある。これらは歴代の僧の墓塔であり、優美な造型、精密な芸術性を持ち、塔に刻まれた文字は古代の中国と外国との交流、少林寺の武術に触れており、古塔建築群として世界最大といわれる。少林寺景観区ではカンフーの実演があり、これこそ本場の少林カンフーといえよう。

 

■湖北省武当山

《来歴》

太極拳発祥の地

武当カンフーは少林カンフーと並び称されており、もともとは道教の道士たちが鍛練のために始めたものだ。明代初期、張三豊が太極拳を始め、武当カンフーは道教と武術に相通じる境地を持っている。

 

《秘伝》

張三豊は実在の人物なのか

元末明初の道士・張三豊は、武当山で道教を大々的に広め、武当派を中国武術の一大流派にした人物と言われている。しかし、張三豊とは実在の人物なのか。姿を現したと思えばまた消え、謎めいていて予測し難いその足跡は後世に神秘的なイメージを残した。

張三豊は歴史上実在する人物で、信頼できる史料『明史・張三豊伝』が残されている。その記載によると、張三豊は遼東半島の懿州の人で、「体が大きく、耳も目も大きく、ひげは矛のよう」だったという。年中1枚のぼろぼろの服で風や寒さを防ぎ、古い蓑1つで霜や雨を遮っていた。儀礼を好まなかったところから、「不潔道士」と呼ばれた。彼は雲に乗るのが好きで、1日に数千里も行くことができたという。

張三豊は明代の1417年に仙人としての生涯を終えた。享年170歳であった。しかし、張三豊が正統年間(明代1436-1449)にも生きていたと信じる人もいるし、清代の雍正年間(1723-1735)に汪夢九が張三豊に遭遇して話をしたという記録さえある。

ともあれ、張三豊が武当山の修行から隠退し、武当派を創設したことは、修行の地である武当山と切っても切り離せない。彼は精神修養に努め、ついに武当山の自然の中で太極の陰陽が変換する道理を悟るに至り、丹田内の力と結合させ、五行八卦を用い、太極拳術五行八卦十三式を完成させた。

 

《景観》

典型的な道観建築

現在の武当山とその建築群は世界文化遺産に登録されており、5月から10月にかけてが観光シーズン。朝天宮から明代路に出て、一、二、三天門に沿って金頂に至るまでは10㎞あるが、金殿では周囲400㎞の武当山群を眼下に収めることができ、かつて皇帝が天上帝に参拝したという厳粛さが感じられる。

南岩宮は有名な道観である。南岩の上からは、緑の森林、美しい峰々、雲海と渓谷を見渡すことができ、武当三十六岩の中でも最も景観のよい場所である。

湧き水で淹れた香茗茶を味わいながら、玉石や竹林、雲の流れる様子を鑑賞するのが、武当山道教の仙人の楽しみである。仲の良い2、3人の友達と連れ立って、雲や霞が連なる奇観、はるかに続く山々を眺望すれば、旅人は喧騒の都市から遠く離れ、幽玄の世界での神仙の楽しみを味わうことができる。

 

■四川省峨眉山

《来歴》

心身を鍛える峨眉カンフー

峨眉派は少林派、武当派と並んで中国武術の三大名門の一つである。拳法の面からいうと、少林派の陽と剛、武当派の陰と柔の中間にあり、剛であり柔、心身ともに重んじ鍛練するのが峨眉派である。

 

《秘伝》

峨眉派の創始者は女性か

金庸の『神雕侠侶』では、郭靖の娘・郭襄は楊過を慕い、また楊過と小龍女の愛情を尊敬して、天下を旅し、40歳で悟りを開き、出家して尼となり峨眉派を創立したことになっている。では、歴史上では峨眉派の創始者は女性なのだろうか。実際、峨眉派の武術は弱を以て強に勝つ、柔を以て剛を制す、真偽虚実を併用しており、確かに女性の武術家が発展させ伝承するのに適している。峨眉山は仏教でもあり、道教でもあり、女性道士が多い。峨眉派の剣法の文姫揮筆、素女?塵、西子洗面や、戦法の沈魚落雁、閉月羞花など、多くの型は女性的な色彩を持っている。歴史的には、峨眉武術の源流は先秦時代にさかのぼり、創始者は司徒玄空師となっている。南宋期に、峨眉派武術の基本型ができ上がり、明清時代に隆盛を迎えた。

 

《景観》

絶景の仏光、ご来光、雲海

金頂は峨眉山の最高峰で、海抜3077m。金頂に登ると、高さ48mの金色に輝く十方普賢菩薩像、峨眉山の仏光、ご来光、雲海など素晴らしい景観を楽しめる。

 

■陝西省華山

《来歴》

剣の極意と雄壮奇観の華山

長い年月を経た華山武術では、特に剣術の名声が高い。また華山の奇峰と峻厳さも華山派の名人に剣の極意を与えたのである。

 

《秘伝》

果たし合いはあったのか

華山派武術といえば、まず華山論剣(『射雕英雄伝』の華山での果たし合い)を思い浮かべる人が多いだろう。これはもともと武侠小説の一節であるが、現在ではすでに単語として広く使われるようになった。小説中の華山の果たし合いは、多くの武侠小説ファンの興味を引いている。

小説の中で華山論剣は、もともと武術の名人たちの腕比べの意味であったが、歴史上、その事実はなかった。しかし、現在の華山論剣はすでに公開の勝負という意味を持っており、出場者の資格はその分野における名人であるというだけでなく、公正な試合で陰謀を図ってはならないとされている。

歴史上にはなかったにせよ、小説中の「華山論剣」は実際の華山派武術の精髄を手本としている。小説では「破剣式」の型によって天下の各流派の剣法を打ち破ったが、「型」と言っても、各流派の剣法の奥義を集めたものであり、型がないもので型に勝つというのが、独特で美しい華山によって作り出された剣術の精髄なのである。

 

《景観》

武侠小説の境地を体験

華山では最も秀麗かつ険しい西峰に登るのがいい。西峰は巨大な1つの岩であり、自然にできたものである。西北側はまるで刀で削ったような千丈の絶壁となっており、華山の中の代表的な山である。