肥土 伊知郎 株式会社ベンチャーウイスキー 創業者・社長
時の恵みを感じるウイスキーのロマンを世界中に届けたい

日本のウイスキーは世界で高く評価されており、中国でも人気だが、ジャパニーズウイスキーの旗手として注目されているのが株式会社ベンチャーウイスキーの肥土伊知郎代表取締役社長だ。同社の秩父蒸溜所は、日本のクラフトウイスキーブームの先駆けとなった蒸溜所と言われており、肥土氏自身、2019年に洋酒界で最高峰の栄誉といわれるISC(インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ)の「マスター・ブレンダー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。先ごろ、秩父蒸溜所を訪れ、ウイスキーの魅力や海外展開などについて伺った。

わが子のような原酒を世の中に送り出したい

―― 御社は2004年の創業です。社長の名前を冠した「イチローズモルト」の誕生には苦難の歴史があったと思いますが、その誕生秘話をお聞かせください。

肥土 私はもともとサントリーに骨をうずめる覚悟で就職したのですが、父の会社の経営が困難になり、家業を継ぐために戻りました。実家は老舗の酒造メーカーでしたが、その頃には日本酒の売り上げも伸び悩み、会社を売却せざるを得ない状況でした。

新しいオーナーから、「引き続き働いてほしい」と言われたのですが、酒造りに対する考え方が大きく違っていました。特に、ウイスキーについては、造るのに時間がかかる、樽が場所を取る、売れていないという三重苦を抱えたようなカテゴリーだとの認識を持たれてしまい、期限を決めて、原酒の引き取り手がなければ廃棄することに決まりました。

この時私は、原酒を捨ててはいけない、中には20年近く熟成したものもある。まさに「二十歳目前の子供たちが廃棄される」、何とかこれを世の中に出してあげるのが自分の仕事だ、と思ったのです。そこで、「原酒を捨てるくらいだったら全部私が引き取るので、やらせてください」とお願いし、新しい会社を立ち上げることにしました。

ただ、ウイスキーの原酒を保管するには、ウイスキーの製造免許を持つ倉庫でなければいけないという決まりがあり、勝手に移動させると多額の酒税をかけられてしまいます。早速、協力者を探しましたが、なかなか見つからない。そうこうする中、福島県の会社にご相談したところ、「何十年も熟成させた原酒を廃棄するのは業界の損失だ」とおっしゃってくださり、協力してくれることになったのです。

それで、400樽あった原酒を大型トラックで何往復もして移動し、樽を変えたり、熟成のさせ方も工夫をして、ようやく最初のウイスキー600本をボトリングすることができました。

さて、名前をつけるのに、シングルモルトウイスキーですから、蒸溜所の名前にするか、生まれ故郷である秩父の地名を冠するか、いろいろ迷ったのですが、結局、造り手である自分の名前を付けることに決めました。

ジャック・ダニエルやジョニー・ウォーカー、ジム・ビームなど、みな創業者の名前ですから、最初は肥土の名字を入れて「アクトーズモルト」。しかし、何か語呂が悪い。じゃあ、下の名前を使って「イチローズモルト」だと収まりがいいなと思い、この名前にしたのです。

自分、親、職人としてウイスキーを愛する

―― 「イチローズモルト」は、5年連続で世界最高賞を受賞するなど、国際的なコンテストで高く評価されています。なぜ短期間に世界的な評価を獲得することができたのでしょうか。

肥土 理由はよく分からないのですが、自分自身がとにかくウイスキーが好きだということです。全く無名の「イチローズモルト」をどうやって広めたのかということにもつながってくると思うのですが、2004年に会社を立ち上げ、その前後2年間はとにかくバーに通って、自分の造ったウイスキーをお店のマスターやバーテンダーの方たちにテイスティングしていただき、自分自身もたくさんのウイスキーに接する機会が増えました。

2年間で延べ2000軒を回り、6000杯ぐらい飲んで、ウイスキーに対する味覚を磨きました。それで自分の味覚と、そのとき評価をしてくれた人たちとの感性がうまく合わさることができたのかなという気はしますが、それが理由かどうかは正直分からないです。

一番大きい理由は、父が残してくれた原酒が手元にあったことです。父から引き継いだものが、結果的に「すごく良いもの」だったと実感しています。

その後、2008年から秩父蒸溜所でウイスキー造りを始め、ブレンダ―としての味をしっかりと確認していくことができるようになったのは、たくさんのウイスキーを飲み続けてきたからだと思います。

―― ウイスキーが「好き」というのは、職人としての気持ちからですか、それとも親のような気持ちという意味でしょうか。

肥土 最初はいろんなウイスキーを飲んで、その魅力に気付き、ウイスキーそのものが好きになりました。そして、自分でウイスキーを造った時に、まさに親のような気持ちになりました。これは非常に感傷的な部分なのですが、自分たちの子供のように思えて来ました。そして、自分で飲むのなら自分の好みで飲めばいいのですが、造るとなると、今度は人に飲んでもらわなければいけませんので、職人として、どうやれば良質のウイスキーが造れるかという――自分、親、職人としての三つの「好き」という気持ちが含まれています。

―― ウイスキー愛好家は増えていますね。

肥土 確実に増えています。ウイスキー消費の底は2007年で、それから右肩上がりで伸びています。本当に幸運だと思うのですが、2007年11月に秩父蒸溜所が完成し、その翌年からウイスキー消費が増えていくという現象が起きているのです。

さらにNHK朝の連ドラ『マッサン』(2014年9月から放送)が追い風となり、一般の人たちにもウイスキーの魅力が伝わるようになりました。象徴的な出来事として、西武秩父駅前で高齢のご婦人方が、「あなた、ウイスキーの原料って何だか知ってる?」みたいな世間話をしているのです。これまで考えられなかったことです。それくらいウイスキーが身近な飲み物になったのだなと実感しました。

今では若者や女性も含め、ウイスキー愛好家の裾野が広がっています。居酒屋でハイボールを飲むのがちょっとしたブームになって、そこからシングルモルトや、小さな蒸溜所のウイスキーなんかも比較して飲まれるようになりました。

中国のウイスキー人気は今後も拡大する

―― 中国では富裕層を中心に、日本のウイスキー人気が高まっています。そのため愛好家や投資家は大きな関心を寄せています。中国のウイスキー市場をどのように見ていますか。

肥土 もともと日本も戦後の貧しかった時代は低価格のものが中心でした。それが経済発展するにつれて、少しでも良質のものを飲みたい、新たな楽しみを発見したいという人たちが増えてきました。

当社の海外展開のスタートはヨーロッパでした。そもそも日本のウイスキーの成り立ちは、「日本ウイスキーの父」と言われた『マッサン』こと竹鶴政孝さんがスコットランドに行って、リタさんというお嫁さんを連れて戻ってきてというすごくロマンチックな物語があります。そうした背景もあってジャパニーズウイスキーが注目されたのだと思いますが、現在ではアジアやアメリカにも商品供給ができるようになりました。

中国は人口も多く、日本以上に経済発展していますので、ウイスキー人気は今後も拡大していくと思います。実際、当社のウイスキーを飲んでいるという中国の方が見学に来ています。

世界中どこの国でも、当社のウイスキーを評価してくださるのなら、お客様に喜んでいただきたいという思いで、今後も海外展開していきたいと考えています。

ウイスキーの魅力は時の恵みを感じるロマン

―― 2023年には日本のウイスキー生誕100年を迎えます。社長にとって、ウイスキーの魅力とは何ですか。また、今後の社長の夢は何ですか。

肥土 ウイスキーにはロマンがあります。大麦からスピリッツになるまで1週間から2週間ですが、樽に入れて熟成させる期間は10年以上にもなります。また、ウイスキーを熟成させる樽の成長を考えると、苗から樽になるような大木になるまでに100年から200年かかるので、100年以上の時の恵みをいただいている。単に味だけではなく、そのバックグラウンド、歴史とか時の恵みを感じ取りながら飲むと、より一層おいしく感じられます。ウイスキーの魅力というのは、そういうロマンなのです。

私の夢は、秩父蒸溜所の30年もののウイスキーを飲むことです。2008年に最初に製造したので、今年ようやく14年もののウイスキーが貯蔵庫の中に眠っています。あと16年待たなければいけませんが、造ったときからすでに30年分の命を減らしているわけです。それくらい自分の命を削ってでも飲みたいのがウイスキーなのだと考えると、こんな不思議な飲み物はないと思います(笑)。