河南湯陰、岳飛は死せず精神は永遠なり
岳飛の故郷で魂を祭る


精忠祠

河南省安陽市の湯陰城内の岳飛廟は、もっとも華やかで政治色の濃い場所である。現在、ここには神殿建築は120余りあり、豫北で最大の古い建築群の一つである。この岳飛廟は明の景泰元年(西暦1450年)に建てられてから500年以上が経ち、改築か移築が議論されている。かつて旧廟は県南関外にあり、明の官吏・徐有貞が湯陰を視察した折、城内の改築を上奏し「精忠」の額を賜った。

改築された廟のなかでも「精忠坊」の政治的色彩は濃い。その当時、明の英宗皇帝は敵(金国)の捕虜となっており、敵の北京攻略をおそれて、宋朝に学んで南京への遷都を主張する者がいた。しかし、危機に際して兵部次官であった于謙が力を発揮し防衛を主張して軍備を整え、敵を撃退して英宗皇帝も送還させた。于謙はまさに第二の岳飛となり、愛国主義が一世を風靡した。南に逃げようと言った意気地無したちも、情勢を見ながら上手に立ち回った。例えば官吏の徐有貞が岳飛廟を改築したのも、自分をよく見せて、逃亡しようとした印象を変えたいがためである。

施全の祠堂と乾隆帝のエピソード

廟の門をくぐると山門に相対する形で、秦檜、王氏、万俟禹、張俊、王俊の5人がひざまずいた鋳鉄製の像が一列に並んでいる。その後ろには施全の祠堂がある。施全は斬妖剣を高く挙げ、悪党たちを睨みつけている。傍らには隗順もいる。岳飛が宰相・秦檜らに殺害されたとき、施全という将校は、昼夜岳飛の仇を討とうと杭州の衆安橋の下に隠れて、秦檜の暗殺を企てていたが失敗し、施全は秦檜に八つ裂きの刑に処された。隗順は獄卒で、岳飛が獄中で殺された後、命の危険も顧みず、岳飛の亡骸をこっそり背負って運び出し、埋葬して目印を付けておいた。そして、そのことを自分の死の直前に息子に告げた。21年後、岳飛の冤罪が晴れ名誉回復し、骨を探す時に隗順の息子は立ち上がった。施全、隗順という2人の小人物が2つの大きな仕事をしたのだ。

実は、廟が建てられた当初は、秦檜がひざまずいた像や施全の祠堂は無かった。廟が完成してから、人々の意を尽くしていない、秦檜一味に永久に懲罰を与えるべきだと、ひざまずいた像をいくつか増やし、その後さらに、施全が斬妖剣を振りかざし、傍らで隗順が睨みつけている場面を増設した。“秦檜とその妻をひざまずかせ、見物人が争ってこれを打ち、積みあがった石は100を下らない”。最後に加えられた“民間の創作”こそが真実の民意なのだ!

ところで、施全の祠堂の斜め前が山門東側で、そこには乾隆碑がある。乾隆15年(西暦1750年)、弘歴皇帝が南方視察から北京への帰途、岳飛廟を訪れた。皇帝が廟に入ろうとした時、一陣の風が吹き門が閉まった。乾隆帝は、岳飛が自分を歓迎していないのだと感じ、祖先を恨み気まずく思った。満州族は南宋時代の金国の末裔である。昔、金国の元帥・完顔兀術は秦檜に岳飛を殺させ和議を結ぼうとしたが、岳飛が和平交渉と投降の主な障害であった。金兀術と秦檜、趙構が共謀して岳飛を殺害したと言うことができる。祖先に罪があることは当然、乾隆帝も知っていた。彼は石段に場所を探して七言律詩を詠んだ。最後の句にこうある。「故郷豆夫何恨、是金牌太促期」。いま故郷の人たちは、こんなにもあなたを讃えているというのに、何をまだ恨むことがあるのですか。恨むならあなたに命を下した、でたらめで愚かな宋の皇帝を恨みなさいという意味で、自分と祖先を弁護している。乾隆帝の詩は碑に刻まれ、廟の神道の中ほどに立っていた。加えて、堂々としたあずまやも建てられたことに、少し横暴さを感じる。清王朝が倒された後、庶民によってそれは山門の外の傍らに移された。このエピソードと施全の祠堂は、岳飛廟のハイライトである。

岳飛の生まれ故郷にて

湯陰県の東16kmにある程崗村は岳飛の故郷であり、小さな岳飛廟さながらである。

ここはもと双鳳崗と呼ばれ、岳飛がここで産声を上げたちょうどその時、一羽の大鵬が屋根の上を飛んで行き、父は彼に飛と名付けた。字を鵬挙とし、大きな期待を託した。彼はこの地の私塾に学び、師匠の習武と共に双鳳崗から抗金国戦の最前線に向かい、一代の名将、万世の模範となった。岳飛が殺害された年、一家は財物を奪われ村人は散り散りに逃げ、村は荒れ果てた。後に明の初代皇帝・朱元璋の移民政策で、程の姓を持つ者たちが山西から移り住み、程崗村と改名した。湯陰県の城内にある岳飛廟が建てられた後、岳飛の子孫と故郷の人たちは先哲を偲んで資金を集め、「宋岳武穆王故宅」という廟を建立した。人々は「程崗岳廟」と呼んでいる。

程崗村から数キロ離れた南周流村には岳飛の曽祖父、祖父、父が眠っている。村の地形は平坦で、北に湯河が流れている。岳飛の原籍は山東の聊城で、曽祖父の岳成が湯陰に移り住んだ。

岳家の墓は一般と比べても何ら特別なところはない。幾分整理されていて古めかしく閑静である。我々が訪れた時、数人の村の古老がついてきた。彼らの黒く痩せて年輪を重ねた顔には善良さが現れ、岳家の同郷人であることを幸せと感じ、誇りとしていた。聞けば何でも答えてくれる。ここは何という所ですかと聞くと、1人は周流村ですと言い、別の1人が、いや、ここは南周流村で河の向こうが北周流村だと答えた。ここを訪れる人は多いですかと聞くと、多くはないが絶えずいると答えた。他と違い、ここの人たちは門の外でみやげ物などを売っていない。優しい目で我々を見つめ、故郷に帰って来て故郷の人たちと会っているように、心の中に温かいものが湧き上がってくる。

“山河を返せ!”この気宇壮大な想いは永遠である! 偉大な民族には偉大な英雄がいる。岳飛――我が民族の精神の長城は永遠にそびえ立つ!