呉敬梓旧居を訪れる

古い友人が訪ねてきた。迎える立場だった私はちょっと困った。彼にとって、南京は初めての場所でもないし、どこを薦めたらいいのか・・・。一見する価値のある観光スポットがもうないのではないかと思案しながら、「『儒林外史』創作の地は知ってるかい?この本は呉敬梓が南京で書いたんだよ」と笑って聞いた。

『呉敬梓旧居』は、南京市内の夫子廟東の、1600年以上の歴史を持つ1本の弧状の奥まった路地にある。通常の観光ルートから少し外れた辺ぴで物寂しい場所にあるせいか、文学界の人、または教科書で『范進中挙』を読んだ学生以外で、訪れる人もあまりいない。

私たちが夫子廟に着いて、貢院街に沿って北へ100メートルぐらい歩いていると、桃葉渡8号に到った。秦淮河と街道の間に、青いレンガ作りの低い壁で仕切られた一軒の建物があった。黒漆の両開きの大門の横木に、『呉敬梓旧居』と書かれた金色の枠に黒い下地の扁額が掛けられていた。「奥まった路地にある、と案内してくれたのに…」と友人は一瞬あっけにとられたような顔をしていた。

「この『旧居』展示館は新しく建てられたものだよ」と私は彼に言った。建物の庭に入ると、母屋への屋根付き通路は様々な花に囲まれ、形の変わった石や築山が目を奪い、その中に古い牌坊(忠孝貞節の人物を顕彰するために建てられたアーチ様の建物)と石のテーブル、腰掛が点在し、江南(揚子江以南)庭園の景観を形成していた。

建物の正面には、長い上着を着ている呉敬梓の立ち姿の彫像があり、その後ろに反り返った軒先と船の形をした亭(あずまや)があり、その扁額上の『秦淮水亭』と書かれた4文字が鮮やかだった。

秦淮水亭は二層からなり、一階では呉敬梓の生涯、家系及び出身地である安徽省全椒郷の農村風景を見ることができる。二階に上がると、『儒林外史』の各種版本、挿絵及び『儒林外史』に関係する物語に基づいて編集された子供向けの小型の漫画本があり、『儒林外史』が初版された後に関係する研究論文も展示されている。特に注目されるのは、実在の人物大に作られた老人が机に向かって筆を揮ってものを書く塑像であり、友人は深く心を奪われ、すっかり夢中になった。

呉敬梓は、清・康熙40年(1701年)に生まれ、「一門三鼎甲、四代六尚書」(注1)の宦官の家の出身で、幼い時からとても賢く、特に暗誦が得意だった。少し大きくなってから、官学(朱子学)を勉強し始め、官吏である父親と各地へ転々と赴任する機会があったため、官界の内幕を知り尽くしていた。20才の時「秀才」(注2)に受かった後、何回も殿試(科挙の最終試験)を受けたが、いつも落第に終わった。家族、親友に見放され、ついに科挙をひどく嫌うようになり、資格取得や官職への向上心がなくなった。その後33才の時に、ためらうことなく一家をあげて南京に移住した。秦淮河畔の秦淮水亭を永住の地として購入し、自ら「秦淮寓客」と名付けたところから、南京は呉敬梓の第二の故郷になったとされている。

この傑出した現実批判主義作家を記念するために、1997年南京市政府が青渓と秦淮河との合流地点に、『呉敬梓旧居陳列館』を建て直した。友人は名残惜しいかのように昼からずっと綿密に『旧居』を見物したが、ついには「来てよかった。大いに収穫があった」と笑いながら言った。

私たちはその当時の旧居を見ることができなかったが、秦淮河の輪のように広がる波の模様から、その時代の秦淮水亭の倒影(さかさまに映った影)が幽かに見え、呉敬梓が『移家賦』(注3)を吟ずる朗々たる声が聞こえたような気がした……。

 

(注1)科挙は中国の官吏任用試験で隋~清末まで実施。「殿試」は科挙時代に朝廷内で天子自ら行う試験で合格者は「進士」と呼ばれた。特に首席合格者を「状元」、第二席を「榜眼(ぼうがん)」、第三席を「探花」と称した。一門は一族のことで三鼎甲は状元、榜眼、探花を指す。また、四代は四世代のことで、六尚書は「長官」6人輩出したという意味。

(注2)明、清代の科挙制度での合格者の俗称。合格者は秀才と呼ばれ、定められた学校に入学することができた。

(注3)移家は引っ越しの意味で、賦は中国古典文学の文体の一つ。韻文と散文を総合したスタイルで、叙景・叙事のものが多い。