劉邦の故郷で漢誕生の地を探す

「大風が吹き起こり 雲が高く沸き上がった 私の威光は天下に行きわたり いま故郷に戻ってきた。何とかして勇士を集め天下を守りたい」。この大気みなぎる「大風の歌」は、漢を建国した皇帝・劉邦が沛県に帰った時に作ったものである。劉邦の故郷は一体どこにあるのだろうか。

秋風が吹きはじめ落葉がはらはら舞う季節に、私は沛県と境界を接する江蘇省豊県に到着した。伝説によれば、劉邦の祖先の墓地が豊城の西北6キロの金劉塞村にあると言われている。ここには歴史上「漢祖陵」と呼ばれる劉邦の曾祖父である劉清の墓がある。墓園内には「劉清之墓」、「漢之故里」、「西漢高祖」、「玄帝行宮」などの古碑がある。

祖陵を進むと大門の両側には、劉邦を称える対聯(漢詩の対句)、「秦を滅ぼし項羽を挫き漢を創建した偉業の始祖、剣をつかんで蛇を斬り、平民天子の先河を切り開く」が掛っている。

豊県の県共産党委員会常務委員の杜亜峰宣伝部長は「『史記・高祖本紀』開篇に、「高祖、沛、豊邑中陽の人」とあります。高祖とは即ち漢の高祖劉邦で、沛とは秦時代の郡で、今の江蘇省沛県です。豊邑は当時沛に属していましたが、後に県に改められ、現在は江蘇省豊県です。劉邦は沛県で泗水亭長を務め、兵を集め秦に反旗を翻したあと沛公となりました。そのため後世の人は劉邦を沛県の人と思っています。しかし劉邦は豊県に生まれ、沛県で名を成したのです」と語った。

金劉塞村の史書の中に、劉邦の祖先の系譜を探すことができる。祖陵の解説者の劉恒諾氏は「戦国時代、劉邦の曾祖劉清は魏国の大夫を任じていたが、秦の禍を避けるために一族を引き連れ開封から豊邑へ移動し、この白衣河のほとりに定住した。劉清は劉の字の主な筆画である金の字を取り出して姓とし、金に改姓した。こうして禍を避けることができたが、先祖の姓である劉を忘れることはなかった。大難が過ぎ去った後、姓を劉に戻し、村の名前も金劉村と定めたのです」と説明してくれた。

 劉邦の祖父・劉仁浩の時代、劉家の暮らし向きは豊かであった。劉仁浩は善を楽しみ施しを好んだ。ある時、借金取り立てのため南下し、江西の寧都で客死した。1996年、劉恒諾氏は江西へ調査に行き、江西の太華山に豊公・劉仁浩の墓があり、毎年清明節に地元の劉氏の末裔が集って祖先を祭っているのを見た。これは何千年も続いているのである。

 豊県には劉邦にまつわる遺跡や伝説が多い。城北の龍霧橋は劉邦の母がここで龍霧に遭遇し高祖を身籠った場所、城内の陽里は劉邦の住んだ場所、そして城南には劉邦が牛を放牧した臥牛崗がある。城恒の東北角には劉邦が逃げた五門の遺跡、城の西南には劉邦に酒をごちそうした邀帝城などがあり、その他にも伝説で、秦の始皇帝が劉邦の天子への野望を防ぐために、豊城に築いたと言われる嫌気台もある。

『史記・高祖本紀』の中では劉邦が自ら次のように言っている。「豊は我が生長のところ、忘れざる極みなり」と。そこで、清朝時代に豊県の県役所の門上に「漢高祖の故郷、古宋遺風」と刻まれたのである。

 豊県については、劉邦の父、劉?の思いはもっと深かった。劉邦は天下を取ってから父を太上皇に封じ、長安に迎え晩年を安らかに過ごさせようとした。だが劉?は間もなく故郷の豊県に帰りたいと言い出した。劉邦は生家に人を送り絵を描かせ、豊県のイメージに基づき、陝西省臨潼に新しい宮殿を造ったという。

劉恒諾氏は「1993年我々はそこへ調査に行き、臨潼の県志の中から、新豊宮を完成させた後、劉邦は豊県から数千の村人を移住させ、出来た宮殿が豊県にそっくりだったので、隣近所を一族と思い、連れてきた鶏、鴨、アヒル、犬などの家畜もみな家になついた。現在でも地元の人は祖先が徐州の古豊から来たと言っている」と話してくれた。

これらはみな事実で、劉邦のルーツは豊県にある。

劉邦は帝と称した後、曾祖、劉清を豊公に封じ、皇祖陵を建設するよう詔を下している。劉清の墓を中心にし、真北には劉氏家祠を置き、「漢里祠」と呼んでいる。記載によれば、劉邦の孫の梁孝王、劉武の五世孫・劉欣は生家に派遣され祖陵を守護し、霊郷侯に封じられている。

歴史上、豊県金劉塞の漢祖陵は劉邦の先祖の墓塚があるだけでなく、後世の子孫の廟宇もある。劉清の墓を中心に、東北隅には西漢(前漢)王朝を建てた皇帝劉邦の墓があり、「西王廟」と呼ばれている。西北隅には東漢(後漢)王朝の建国の皇帝劉秀廟で、「東王廟」と名付けている。真東には劉備、関羽、張飛の三義廟が建つ。真西には玄帝廟が建つ。

長い年月にわたり、劉氏一族は毎年ここに来て墓参りし先祖を祭っている。1994年10月7日からマレーシア・ラフォール州の劉氏公会主席の劉振発氏が、祖先慰問団を率いて祖先を拝んだ後、カナダ、日本、タイなどの海外の劉氏一族が度々訪れて祖先を祭るようになった。

我々が陵を出るとき、ちょうど漢皇祖陵の開発事務所の王清主任に出会った。王主任は「劉邦は中国最初の民間出身の皇帝で、しかも手ごわい皇帝であり、このこと自体研究に値する。我々は劉邦の祖陵を守っているが、この唯一の資源を、祭祀と漢文化の礼儀から入り、大漢文化を伝承しながら、観光のために役立てたいと考えている」と説明してくれた。